1・欠落した環
閃光――それは、繋がれた輪の中から見えた。
一瞬。それにも満たない、誰の目にも止まらない速度で。
ならばこれは傍観者の視点。それ以外の者の目には映ることすら叶わず、世界は沈黙を続ける。
誰も、何者も。祝福などありはしない。
そこから外れた「なにか」が、光を放ちながら抜け落ちる。
人とはなにか。
人を人と位置づけるものはなにか。
人に一番近しいとされている生命ですら、その数パーセントが人とは異なる。
たとえ遺伝子の一部が同じ構造をもっていても、それ以外の部分が異なっていればそれは人ではない。
人との差。そこを埋めるものがない限り、生命の輪は繋がらない。
*
ナツメ・イージスはいつものように大通りを歩いて、日課を終えたあとのとある場所に向かうために小径にそれた。
いつもならば小径になどそれたりはしない。大通りを歩いて、突き当たりの分かれ道を右に曲がれば良いだけの話だった。なぜ、と聞かれても答える理由など存在しない。ただなんとなく、いつもより早くいつもの場所に着きたかったから。そうとでも説明すれば良いのだろうか。説明するのも億劫なほどに理由なんて見当たらなかった。
それでもナツメのとった行動は失敗だったのだろう。
この世が、この世界が、間違っても道理にかなったものであるだなんて誤解はしていない。ナツメの目の前に立ち塞がったものは、やはりそれを証明するものだった。
「……こんにちはァ」
見るからに下衆と解る男たちがナツメの前を塞いでいた。表情は笑顔。しかし、上品なものではない。
昼という時間帯から考えればごく自然な挨拶であったにも関わらず、この場の雰囲気とはかけ離れた言葉に聞こえる。
それもそのはず。横道にそれたこの通りは、一応は「通り」という名を冠しているが、あくまで通れるというだけのもの。この町の仕組みを知っている者からすれば、出来ることなら避けて通りたい道と言える。
そこを通るなら自己責任で。この町にはこのように言われる場所がいくつか存在する。
「……通していただけませんか」
襟に隠れた口元から、小さな声が漏れた。
その声がナツメの口元から漏れた音だと気付いて、男たちは大袈裟に目を見張る。
「なんだ、喋れるんじゃないか。すくみ上がって声も出ないのかと思った」
言うやいなや、男たちは一斉に笑い出す。
何が面白いのかよくわからなかったから、ナツメは笑わなかった。勝手に面白そうにしているので、それじゃあと横を通り抜けようとすると、ナツメの前に男が一人立ち塞がる。
「おいおい冗談はよせよ。ほら、出すものがあるだろ?」
ほら、と手を差し出されたが、別に手は繋ぎたくないのでナツメは無視を決め込んだ。
過剰なスキンシップは不要なので先に進もうとすると、更に別の男が行く手を塞いでくる。
「通行料だよ通行料。あれ? この町の者じゃないのかな、ボク」
そう言って、また面白そうに笑い出す。
これだけで楽しくなれるのなら、それで充分だろうに。これ以上の何を求めるのだろうか。
通行料――そのようなシステムがこの通りにあるだなんてナツメは記憶していない。あるにはあるのだ、この理不尽がまかり通る場所も。だが、今ナツメがいるこの通りには今言ったシステムは介入していないはずだった。
そう「だった」。すべては過去の話なのだ。昨日まで当然だったものが次の日にはなくなってしまうだなんてごくありふれた話だ。この町に移り住んでからおよそ三年。町のシステムを理解したはずなのに、油断したのはナツメの責任だ。いつもの道を選べば面倒を回避することが出来たかもしれないのに、それを怠ったのはナツメの落ち度だ。
男たちは笑っていたが、一番最初に話した男がナツメに近づくのが見えた。下品な笑みを浮かべながら、ナツメを上から下へと舐め回すように目で選別する。
「お金も常識もないのかな? なら、その代償はボク自身で――」
男の手がナツメの肩に触れようとした次の瞬間、地上が空に変わった。
否、それは男の世界でだけ。ナツメを見下ろしていたはずの視線が、今は空に向けられている。
目下にあったはずの大地が背中に。頭上にあったはずの空が眼前に。
自分の状況が理解出来ずにいる男よりも先に、別の男が声をあげて襲いかかる。
「このガキ!」
声をあげた男の他に、真正面から向かってくる男が二人いた。そしてナツメの背後から更に一人、男が飛び出してくる。先に転がした男を含めて計五名。そのガキ相手に随分ムキになるなとナツメはぼんやり考える。
背後にいた男がナツメの背中に手を伸ばす。が――
「――ッ!」
男の視界から、忽然とナツメの姿が消えた。
正面と背後。ナツメの前と後ろから襲いかかった男たちが、当然のように正面からぶつかり合う。
左右は壁、前後は男が塞いでいた。姿を隠すような場所など存在しない。
男たちが目で捉えてたはずのナツメの姿はどこにもなかった。衝突して痛めた身体をさすりながら、男たちは消えたナツメの姿をさがす。
――いや、ナツメは同じ場所にいた。
仰向けにころがる男には見えていた。しかし、声をあげることが出来なかった。
今ならわかる。瞬時に身体の力が抜け、背中から叩きつけられた。呼吸もままならない。自分がすぐに声を出せない状況にあると――それは理解していた。でも違う。
男が声を出せないのは――
信じられない、と脳が警告する。
――子供としか形容できない小柄な人間が、恐ろしい速さではるか上空へと跳躍したのだから。
ぶつかりあった男たちが気づく間も無く、ナツメはその男たちの上に舞い降りた。
時間にすれば僅か数秒。たったそれだけの間に、四人の男は地面に伏す。
彼らは力には自信があった。だからこんな真似をしていた。
最初に倒れた男の視界の隅に、付着した埃を払おうと衣服を叩くナツメの姿が映り込む。他に映るのは空だけ。仲間たちの姿は視界に入らなかった。
靴底で小石を踏みつけるような音がした。同時に、感情の読み取れない平坦な声が降ってくる。
「……あの」
男は、その声が自分に向けられているとは思わなかった。しかし、今の状態を考えれば自分以外いないことに気付く。
声は出せなかったので目配せ。そこに男を見据えるナツメの姿を捉える。
「ここ、通っても良いですよね」
脅迫でも警告でもない、ごくごく平凡な台詞を向けられたことに驚愕しながらも男は頷いた。
力の限り、精一杯。頷けていたのかは不明だ。でも、これ以上の仕草は必要ないのだと彼は知っていた。
仲間のものであろう呻き声が聞こえてくる。手加減してくれたらしい。しかし、だからこそ男は戦慄する。手加減出来たということは、手加減出来るほどに実力の開きがあるということだ。
この状況が自己責任だというのなら、それはどちらにとっての責任だったのか。
ただ、少なくともナツメにとっては、この道を選んだことは失敗に違いなかった。
*
ナツメは何事もなかったかのように小径を進む。
はじめから近道目的で選んだ道だ。さきほどの状況程度なら、近道ぶんの時間を無駄にしたくらいの認識だった。
なら、なぜナツメがこの小径を選んだのが失敗だったのか。
その小径の中ほどまで進んだころ、それは居た。
「貴様がこの世に生まれ落ちてから僅かしか経過していないというのに、随分と人間からかけ離れたものだな」
声。
男の声。
正面に人は居ない。背後――目視してはいないが気配はない。左右は壁。いや、いかなる場所にも気配など存在していない。
ナツメの感覚は人がもつ全ての感覚よりも上位だ。誰かがそこに居れば必ず気付く。少なくとも声が届く範囲内ならば。
ナツメは目を瞠った。
この感覚は、生まれてから一度もなかった感覚だから。感覚を感覚と捉えてからは一度も。
いや、実際には感覚が働かないのだ。少しも、微塵も、ほんの僅かでさえも。
声がするのに気配がない――そう感じるのははじめてのことだ。
上を見上げたのは勘とでも言うしかない。しかしその勘が正解だったのだと、自身の目で捉えてから理解できた。
居た。おそらくは声の主が。
まるで人の気配がしない黒髪の男が、隣接する壁を地面のように踏みしめながら、はるか上空から見下ろしていた。
「…………」
ナツメは先程、上空に跳んだ。
しかし、それは常人とはかけ離れた行為ではあるのかもしれないが、決して実現不可能な行為などではない。
地面から跳ね上がり、そこから左右の壁づたいに跳躍しただけ。ナツメの身体能力をもってすれば簡単に実現可能だ。普通とは言い難いかもしれないが、物理法則に逆らってはいない。
ただ、目の前の男は明らかに違う。
壁を地面にして、垂直に見下ろしている。
男の背中には空。青空。まるでそこだけ重力が別の方向に働いているみたいにナツメには見えた。
息を呑む。
こんな得体の知れないものと対峙したのははじめてだ。
この世界に生まれ落ちてから、こんなにも恐怖したのはいつ以来だろうか。得体の知れない恐怖――いくらなんでもこのような経験は異質だ。
鳥肌が立つ。汗が滲む。この世界の法則が、目の前の男のせいで乱れている。
まるでナツメの恐怖など気にもとめていないように、壁に立つ男が壁を歩く。ナツメに向かって、当たり前に道を歩くかのごとく。
最後に重力はナツメと同じ場所で安定し、男はナツメの耳元で囁いた。
「貴様という呼び方では不服か? ならばお嬢さんとでも呼べば反応するか」
耳元に届いた声に、ナツメは瞬時に反応した。
後方に跳ねる――あの男たちの姿が見えないところまで進んだが、ナツメの足の速さならば数秒もかからずに大通りまで戻れるだろう。
が、それは叶わなかった。
振り向いたはずだった。跳ねて、元の場所へ。大通りに逃げ切れば、人混みに紛れて姿を隠せる――そう思っていた。
「……くっ」
ナツメの眼前には地面があった。背中からは圧力。踏みつけられているのだろうと理解は出来る。
ただ、それが人間業だとは――ましてや自分をこのような目にあわせることが出来る人間が存在するとは思ってもいなかった。だからこそ、どうして――混乱が喉に詰まって声にならない。
ナツメの上から嘲笑混じりの声が降り注いでくる。
「聞こえているではないか、ナツメ・イージス。随分と小さく育ったものだ」
まるで先程から、古い知人にでも語りかけるかのような台詞を吐く。
男の足の下に敷き詰められて、ナツメが抗っていないわけではない。それこそ今の状態になってから、全力で身体を起こそうとしている。
立てないのだ。力が全て封じ込められているかのように、意思が身体へと伝わらない。
先程の男たちへの反抗が嘘であったかのように、何もできない赤子のような状態だった。
苦しげに息を吐き出しながらも、ナツメは口元を歪ませる。
(人間からかけ離れた?)
まさか自分よりもはるかに人間離れしている者に指摘されるとは思いもよらなかった。たまらず自嘲する。
「さすがに人間離れしているだけはある。笑う余裕があるとはな」
それは感嘆の言葉に聞こえたが、声音には明らかな嘲りが含まれていた。
続いて身体に衝撃が走って、ナツメの上に立っていた男が背中に腰掛けた気配を感じ取る。
なぜだか解らないが、そこでナツメの身体が僅かに負荷から逃れた。
必死に頭を捩って背中を覗いてみれば、予想と寸分違わぬ姿で男がナツメを見下している。
「……ずいぶん好き勝手なこと言ってくれる。私は無礼な相手には容赦したくない」
「どう容赦しないというのだ? 貴様は俺の下で這い蹲っているだけだというのに」
絞り出すように語句を強めて見せると、それをせせら笑う声が返ってきた。
男はナツメの背中に座りながら、器用にも足を組んでいる。まるで自室でくつろいでいるかのような、平然とした装いで。
ここは小径だ。それも、大通りから外れた無法地帯。くつろぐ余裕のある場所なんて微塵も存在しない。しかし、それが当然の振る舞いであるかのように男はくつろいでいる。見間違いようのない現実がここにあった。
「……私の上から退け」
「退いたら逃げるのだろう?」
「いいから、退け」
意外なことに、その一言で男はナツメの上から退いた。
刹那、ナツメは素早く起き上がって男に手刀を振りかざす。
しかし手刀が男に届くよりも先に、再度ナツメの胸と背中に衝撃が走った。
今度は壁に。男が持ち上げた右脚が、ナツメの背中を壁に縫い付ける。
「ああ、今度は逃げるよりも反撃が先か。思いのほか気が短いな。だが届かなければどうということはない」
正面から見据えるかたちになった男の顔が、じつに愉快そうにナツメを見つめている。
またしてもナツメの身体の自由がきかなくなった。
意識はある。しかし自由がない。赦されているのは言葉を口にすることのみ。それ以外の手段は封じられている。
わけのわからない男を正面に見据えながら、ナツメは唯一自由を許されている口元を動かした。
「あなたは、何?」
それはナツメにとってもっともな質問のはずだった。しかし、目の前の男は不愉快そうに眉を寄せる。
「随分と月並みな質問だな」
「当然の問いかけだと思う」
「人間離れしているのは肉体だけか。期待外れだな」
身体の芯から凍えそうな視線がナツメに突き刺さる。脚をあげたままの体勢で、男は片手を腰にあてて溜息を吐いた。
常人ならば脚を持ち上げたその格好で、ナツメの抗おうとする力に対抗出来るわけがない。しかし、ナツメの身体はいまだに自由を奪われたままだ。
男はそのまま台詞を続ける。
「貴様の取るに足りない頭で考えれば理解できないだろうな」
「……それは私の質問に答えないということ?」
そこで男は再び笑った。ナツメに顔を近付けて、はっきりと告げる。
「違う。立場をわきまえろ、ということだ」
今度こそナツメの身体は凍りついた。
蛇に睨まれた蛙のごとく、圧倒的な支配者の姿がそこにあった。どう足掻こうと目の前の男には太刀打ちできない。今までの経験が現実を語ってくる。
この小径にそれなければ、いつもと同じ日常にいれたのだろうか。
いや、おそらく不可能だったのだろう。たったこれだけの会話で、この男は最初からナツメを目的としていたことが解る。理由はわからないが、遅かれ早かれ男とは対峙していたはずだ。
回避など不可能だったのだろう。今ここで自分は終わる。得体の知れないなにかに、自分は終わらせられる。
ナツメはゆっくりと目を閉じた。それは何の意味もないことだったが、自分から現実という生命の幕を閉じるかのように――ゆっくりと瞼をとざした。
だがしかしいくら待とうと、人生の幕を下ろす衝撃は襲ってこなかった。
もう一度瞼を開いたナツメの目には、可笑しそうに笑う男の表情が映っていた。
「どうした。意外か」
そう、男は問う。
「……意外」
ナツメは正直に答えた。
そして更に意外なことに、そこでナツメを押さえつけていた脚から解放される。
さすがに呆気にとられたが、先程の出来事で脱出不可能なのだと思い知らされていたから逃げ出しはしなかった。
疑問は残る。しかし、その疑問を追及する力がない。目の前の男は満足気に、ナツメに付着した埃を手で払う。
「抵抗を諦めたのは正解だ。我ながら手荒い行動をとったが、そのくらいしなければ貴様は自分の置かれている状況を理解しないだろうからな」
ナツメは頷かない。いや、頷いていいものか迷っている。
男に敵意がないと受け取りたい気持ちで満たされているが、それはあくまでナツメの希望であって現実ではない。意思や思惑なんてものは男の表情から伝わってこないし、少しでも男の思惑にそぐわなければ――また地面に転がされるだろう。次は意識が残るかすらわからない。
だからここは男の言葉に従うしかない。
自由になった身体はそのまま動かさず、意識と言葉だけで相手に向かう。
「少しだけ質問……いい、ですか」
男は目を細めて頷いた。
「構わない。先程とは状況が違う。それに敬語は不要だ」
「……あなたは私を知っている?」
我ながら漠然とした質問だとナツメは思った。
一番初めの「人間とかけ離れた」という台詞。自分を「お嬢さん」とあえて呼んだこと。初対面ならばまず気づかれないはずの事柄が見抜かれた。
前者――ならば先程の行為をどこかから見学していたのかもしれない。どこか、あるいはいつか。ちょっとしたいざこざなんて、今に始まったことじゃない。
後者――これはナツメ自身も驚いた。この世界には法なんて存在しない。古い時代に制定された法律はあるのだが、それを真面目に守ろうとする道徳が存在していない。ゆえにこの世界の安寧秩序など崩壊したに等しかった。
自分の思惑にあった団体に属すれば、最低限の安全は守られる。しかしそれは自治の範囲だ。すこしでも枠の中から外れれば、先程のナツメのように別の思惑をもった者たちに蹂躙される。力の弱い女子供であれば尚更だ。だからこの世界の、特に成人前の女たちは自衛のために男の格好をすることが多かった。
それにならってナツメも男の格好をしているのだが、ナツメの場合は男装を解いても常に少年と間違えられる。先程の男たちに「ボク」呼ばわりされたのがいい例だ。
確かに女の子らしいとは言い難い声質ではあるが、別にとくべつ声が低いわけでもない。第二次性徴期がいまいち遅れているのが原因だろうか。とにかくナツメ自身が性別を明らかにしないかぎり、初対面でそうだと見破られることはなかった。
「まあ、知っているな」
だが、男は簡単に肯定した。
聞きたいのはもっと具体的な話だったので、ナツメは粘って問いかける。
「どうして私を」
その質問に返された答えは、ナツメを驚愕させた。
「どうしてもなにも、俺は貴様が生まれ落ちた時から知っている。ナツメ・イージス、貴様が知らないことも把握している」
声が、詰まる。
ナツメの喉まで声が出かかっているのに、それ以上先へは進まなかった。
生まれた――
ナツメの中で可能性という名の欠片が、音を立てながら組み合わさっていく。
まさかと思いつつも、ナツメは恐る恐る声を絞り出した。
「……父?」
途端、だん! という今までにない激しい音をたてて、ナツメの顔面のすぐ脇に男の脚が現れた。
「誰が貴様の父親だ。貴様の目は節穴か。この指は何本だ?」
若干、壁が凹んでいるのは気のせいではないだろう。
目の前に差し出された人差し指をみて、ナツメは恐る恐る答える。
「……いっぽん」
「よろしい。なら、貴様の目の前にいる俺は幾つに見える」
人差し指は男の顔に向けられる。
ナツメは考えた。この場合はさばをよむべきなのか考えたが、ここは正直に答えるべきだと判断する。
「……二十代の半ば」
「正しい。ならば自分の年齢も当然答えられるだろう? 貴様は幾つだ」
「十六」
そこで男は脚を元に戻して、盛大に溜息を吐いて見せた。
「この世界の常識はいつの間に変化した? 少しでも考えれば貴様の発言がいかに不可解か理解できるはずだろう」
凹んだ壁からぱらぱらと、砕けた破片が地面に落ちる。
おそらく今――いちばん常識からかけ離れた存在に常識を諭された。なんとなく悔しかったが、ナツメは反論しなかった。
それよりも父親ではなかったという事実に困惑する。ナツメは父も母もいない。いないし、知らない。似たような子供たちが集まる教会でナツメは育った。だからこそ男が告げた言葉に驚愕した。
まあ、子供を地面に敷く親は必要ないのかもしれないが。
「では、私の両親を知っているの?」
その問いにも、男は溜息を返す。
「その質問に意味はあるのか? 俺は貴様を把握している。勿論、貴様の疑問についてもだ。しかしだからこそ不可解だ、本当に実父母の情報を欲しているとは思えない。貴様は育ち過ごした教会で今の答えを得ているはずだ。違うか、ナツメ・イージス」
「……違わない」
違いなどない。
男の指摘するとおり、ナツメは教会で育てられた。雪の降り積もる時期に教会に置き去りにされていたのだという。
へその緒がついたままだったナツメを育ててくれたのは教会の者たちだ。同じような境遇の兄弟たちがいたから自分だけが不幸だとは思わなかったし、それ以上に神父やシスターたちが愛情をあたえてくれたから環境に対しての不満なんてなかった。
彼らが親であり、家族だった。だから本当の親というものに対しての期待などない。せいぜい、教会に捨ててくれてありがとうくらいの感情しか持ち合わせていない。
なら、なぜ。
どうして父かと尋ねてしまったのか。
――ナツメ自身も疑問だった。気付けば口から出ていた。
首を横に振るナツメに向かって、男は更に言葉を続ける。
「ならばその問いは不要だ。俺はその疑問の答えを明言しない。貴様自身が答えを見つけるべきものだからだ。もっとも、俺の興味はそんなことではないが」
敵意がない、と先程ナツメは思った。あくまでそれは希望でしかなかったけれど、その考えを信じても良いのではと思い始めていた。
真実よりも現実。それは十六年を生きるために、ずっと自分に言い聞かせてきた言葉だ。
男から受けた度重なる無礼――それは確かに無礼に違いなかったが、ナツメが取ろうとした行動を考えれば仕方ないと言えなくもない。
――べつに理由もなしに暴れるわけではないのだが。
ナツメは意味もなく暴れたりなどしない。礼儀をもって相手に対応するのを信条としているし、逆に礼儀がなければ手加減はするが容赦はしない。むしろ相手をするのが面倒なくらいだ。
そういった意味では男の行動は後者と言えたが、その後の男の発言は不用意にナツメを挑発する内容というわけでもなかった。
「……あなたは、誰?」
あなたは何、と聞いて答えてもらえなかった。この質問に答えてくれるとは思ってもいなかったが、意外にも男は口を開く。
「そうだな、名前はイバとでも名乗っておこうか。貴様を、いや……これからはナツメと呼ばせてもらう。簡単に言えばナツメの発生を記録する存在だ」
「発生、記録……」
まるで実験動物でも相手するかのような言い草だ。それに記録する存在だと言われても、そもそも目の前に存在しているというのにまるでイバの存在感が感じられない。
いまいち要領を得ないまま、疑問だらけの質疑応答が続く。
「そう、記録だ。先程も触れたが、俺はナツメが生まれ落ちたその瞬間から貴様を知っている。この世界の根本から監視していた」
「根本……。まるで人間じゃないみたいに聞こえるけど」
「ああ。俺は人という括りには当てはまらない。人の形をとってここに存在しているが、それは単なる形骸にすぎない。限りなく有機物に近いが、本来は無に等しい。ナツメを記録するためにここにいる」
あまりにもあっさりと、イバと名乗る男は告げた。
あくまで感覚だが、もしかするとこのイバという男は人間ではないのではないか――とナツメは思っていた。それがまさか本人の口から肯定されるとは思いもよらなかったので驚いて息を呑む。
目を見開いてイバを見たが、イバの方は面白くもなさそうにナツメを見つめ続ける。
「それはナツメとて同じことだ。はじめにも言ったが、随分と人間とかけ離れたものだ、と俺は貴様に言った。貴様こそ人とは違う。自覚があるだろう」
ナツメは否定できない。
それはイバに指摘されるまでもなく、自身が一番よく理解していた。
イバに抑え込まれるかたちになってはいるが、たとえば相手が普通の人間であったのなら――ナツメはこのような失態をおかさないだろう。
ナツメは強い。見た目こそ人と同じか幾らか小柄なくらいだが、能力も体力も感覚もすべて人とは違うのだと自覚していた。
染めているので黒くなってはいるが、ナツメの髪は青い。空のように、真っ青なブルー。この自然界に、装飾ではなく純粋に真っ青な髪の人間はいるのだろうか? 少なくともナツメは出会ったことはない。
人? 人間とそうでないものの境界線はどこにあるのだろう。
人とはなにか。ずっと問い続けてきたが、いまだ答えは見つからない。
ナツメは人なのだろうか?
ああ、だから捨てられたのだと理解している。
「私は……、人ではない?」
まるでオウム返しだとナツメは思ったが、イバは無表情に質問に答える。
「限りなく人間に近い、としか言いようがない。生命の輪の中からナツメだけが零れ落ちた。俺はそれを見届け、記録するためだけにここに存在している」
「イバは神なの?」
意味のない問い掛けだったが、イバはそこで面白そうに笑って見せる。
「神とは概念であって存在ではない。しかし矛盾しながらも人の意識の中に存在するものだ。俺はそこに存在していて、そこに存在しないもの。生命の意識の外側にいる」
「じゃあ、あなたは――」
ナツメの言葉を遮って、イバは笑う。
鼻がこすれ合うくらい間近で、口の端を上げて、ゆっくりと息を吐く。
「ナツメと同じだ」
彼は悪魔のように魅惑的な微笑みを浮かべながら、告げた。