2-1 『メガネ』
深夜である。
六本木にそびえるホテル・グランドヒルズには、都内の夜景を一望できるレストランが存在した。当然、そんじょそこらの庶民では出入りもできない高級レストランだ。行き届いたサービスと、絶好のロケーション。超一流の料理。密やかに流れるクラシックミュージックが耳朶にも心地よいのだが、このレストランを下衆な取引の現場にしようというカネ持ちも、常に一定数は存在する。
例えばこの時、この瞬間がまさしくそうであった。
椅子に腰掛ける少女の出で立ちは、普段このVIP席を利用する政治家や経済界の重鎮と比べて、あまりにも幼い。宵闇に溶け込むようなゴシックロリータ・ファッション。夜空の月よりなお青白い陶器のような素肌と、青く神秘的な光を放つ双眸が見る者の心を奪う。
チート売りの魔女である。
才能を売りさばく都市伝説の魔女。怪しげな鍵の使い手は、確かにこの場に存在している。
魔女の対岸に腰掛けるのは、ひどくやせ細った不健康そうな男であった。この場に座る者の見栄として、それなりに『らしい』服装をしてはいるものの、幽鬼の如き容貌は、ともすれば場違いにも映る。彼は先ほどからずっと、口元にうすら笑いを浮かべていた。
「それで、進捗はどうなのかしら」
グラスの中の液体を眺めながら、魔女がたずねる。男はくつ、くつ、とこらえきれない笑いを漏らしていた。
「順調だよ。沙織は、私が求めた理想の天才として完成しつつある」
「そう、良かったわ」
そのようなことを言いつつも、魔女の言葉に感動を秘めた抑揚はない。彼女の青い瞳は、どこか冷め切った光を宿し、目の前の男を眺めていた。この時、彼女の抱いている感情は、限りなく軽蔑に近い。チート売りの魔女は、才能の開拓者であり、その矜持から男に協力をしてはいたが、実のところ彼女は自らの才能を切り開こうとしない人間には、それほど興味を持てないのであった。
魔女がグラスを置き、片手を宙に掲げると、その幼い手のひらの上に青白い炎が浮かんだ。炎はやがて形を取り、一本の鍵となって落とされる。魔女は手にとった鍵を、そっとテーブルの上において、男に向けて差し出した。
「約束通り、最後の鍵よ」
「おお……」
男はこけた頬を緩め、満面の笑顔を作った。鍵を手に取ると、いとおしげに眺める。
「あなたは、その鍵を使わないの?」
魔女がたずねる。男は鍵を大事そうにしまい込みながら、かぶりを振った。
「理由は最初に話したはずだ。この鍵は沙織に使う。私は、絶対に使わない」
「ふうん」
「私を軽蔑するか?」
「良いんじゃないかしら。それはそれで、立派な心がけだと思うわ」
そう言いながらも、魔女はやはり、興味がない。
この男に鍵を売ることになったきっかけは、些細なものだった。はじめて理由を聞いたときから、魔女は男に興味を持つことはできなかったが、それでも求めるものには鍵を渡す。何より、手渡した鍵によってまた新たな才能が開拓され、可能性が花開くことには変わりはないのだ。
ただ、この男との会話は魔女にとってひたすら退屈なものであった。彼は才能の敗残兵である。魔女が今まで鍵を手渡してきた人間たちと、その点においてはなんら変わらない。ただ、彼は自分の才能を開花させるという意識を完全に失っていた。魔女からしてみれば、前に進むことを諦めた、愚鈍な豚である。大事なクライアントなので決して言葉には出さないが。
男が鍵を使用しているという、沙織という少女にも会ったことはない。その少女は、果たして自らに開花していく才能を喜んでいるのだろうか。新たなる可能性を受け入れているのだろうか。そして何よりも、その才能を自らのものとすることが、できているのだろうか。
多くの場合、魔女が才能を与えた者たちは、それを制御しきれず〝業〟に飲み込まれていく。だが希にいるのだ。外部から与えられた才能を自らのものとし、完全に開花させていく人間が。
結局のところ、それは今まで努力をしていなかっただけの『天才』であるのかもしれないし、あるいは血の滲むような努力が報われた『凡才』であるのかもしれない。魔女からしてみればどちらでも良い。重要なのは、その人物が新たなる可能性を手にできたという、その一点だけなのだ。
沙織という少女は、果たしてどうなるのだろうか。
魔女は窓ガラスの向こうに広がる夜景を眺めた。都会の夜は明るすぎて、空には星も瞬かない。退屈なものね、と口の中でつぶやいてから、魔女は再び食事に戻った。
昼過ぎである。
東京都内の某所に、そこそこ高級感漂うクラシックな喫茶店がある。大層な店構えから入るには勇気が必要だが、入ってしまえば案外普通の店で、メニューに並ぶ値段もちょっぴり割高なくらいである。この時間帯ともなると、ご近所の有閑マダムたちが、家事から解放されてのんびりお茶を嗜んでいた。
そこに、ひとりの男が入店する。
全身をきっちりとフォーマルなスーツに身を包んだ男は、いかにもできるビジネスマンといった出で立ちであった。高い身長と引き締まった体格に、冷涼な顔立ちを併せ持つ。冷涼とは言っても、口元をへの字に結んだせいか、印象は涼やかというよりも冷たげだ。流した髪に縁無しメガネがまたよく似合う。有閑マダムたちの視線を総取りする、まごう事なきイケメンであった。
「いらっしゃいませ」
笑顔で前に出てきたウェイトレスに、男は軽く会釈をしたまま、店内を見渡す。
「待ち合わせをしているんですが、」
と、言った直後、店内の片隅から、クラシカルな店内BGMを帳消しにするほどの粗野な声が届いたので、男は待ち合わせ相手の奇抜極まる特徴を、口で説明せずに済んだ。
「おーい、メガネ。こっちだ」
「あいつです」
「かしこまりました。では後でメニューとお水をお持ちしますね」
ここで表情を崩さないのは、ウェイトレスもプロと言うことだろうか。
男はつかつかとテーブルに向かう。先に腰掛けている待ち合わせ相手は、全身をボロ切れに身を包んだ、怪しい風体の男であった。指先には鋭い鉤爪がついており、ギラギラ輝く紅い双眸と合わせて人間離れした印象を与える。
「遅かったな、メガネ」
「久しぶりだな、スキルテイカー」
両者はそのように挨拶をし、男も席に着いた。この二人が本名として呼び合うことは、決してない。
スキルテイカーと呼ばれた怪物は、すでにメニューを頼んでいるようだった。彼の目の前には特大のプリンが置かれ、やけに長いスプーンで周囲を削り取るようにして食べている。こちらの奢りであるのをいいことに、ずいぶんと高いものを頼んでくれたようだ。
「スキルテイカー、最初に言っておくことがあるんだが」
「ん、なんだ」
スキルテイカーはプリンの食べ方にこだわりがあるようで、食い入るように見つめたまま慎重に外壁を切り崩していく。
「警察に捕まった挙句、俺に連絡を取るような真似はやめろ。党内での立場も悪くなる」
「仕方ないだろ。ずっと留置所にぶち込まれてれば良かったのか」
何やら物騒な会話を始めるが、スキルテイカーはまったく気にした様子を見せていない。メガネは小さくため息をついた後、カバンを開いて、何枚かの書類を取り出した。ちょうどそこでウェイトレスがメニューと水を持ってきたので、メガネはメニューを流し見した後、適当なコーヒーを注文する。ウェイトレスは笑顔で応対し、また去っていった。
「本題を切り出すぞ」
「おう」
「アビリキィの取引現場について目撃情報があった」
プリンを削り取っていたスキルテイカーの腕が、ぴたりと止まる。そこでようやく、メガネは口元に笑みを浮かべた。スキルテイカーも同じように笑う。
「やるな、メガネ。俺はおまえたちのことを、困ったときに正義の味方を頼るだけの無能役人だと思っていたぞ」
「正義の味方って、それ自分のことを言っているのか?」
「厄介な仕事も無報酬で請け負ってるだろうが。正義の味方は慈善活動だからな。おかげで財布が辛い」
「うちの部署の調査費用を報酬として出してやっても良いんだぞ」
「だから慈善活動って言ってるだろうが。三時のおやつくらいは、今回みたいに奢られてやっているけどだな」
気分を良くしているためなのか、なかなかスキルテイカーの減らず口は収まらない。いつもこんなものであると言えばそうなのだが。
アビリキィに関する情報を横流しするのが、スキルテイカーがメガネに取り付けた協力条件のひとつである。才能を拓く鍵が単なる都市伝説でないことは、メガネ自身もよく知っていた。彼だけではなく、メガネが在籍する部署でもその存在は実たるものであるとして認知されている。
その鍵の危険性はさておくとしても、無能な人間が突然有能になるということは、支配する立場の人間にとっては非常に恐怖すべき事柄である。党内や部署内の様々な思惑が絡み合うことで、結果的に、メガネとスキルテイカーの利害は一致していた。
「話を続けるぞ。取引があったのはホテル・グランドヒルズのレストランだ。こちらの息のかかったウェイターが、一部始終を目撃している。魔女が鍵を手渡していたのは、こいつだ」
メガネが取り出した一枚の書類には、クリップで写真が留められていた。痩せこけた頬を持つ、不健康そうな男。名前を不二崎仁と言った。
よくもまぁこれほど詳細に調べたものだと感心するほどに、事細かなプロフィールが羅列されている。昭和53年生まれの34歳。血液型はA型。千葉県印西市で生まれ、地元の高校から某国立大学まで進学している。卒業後は石蕗電機に就職。平成23年に退社。就職後まもなく結婚したが、妻が失踪したという記録もあった。
「あまりいい人生を送っているとは言えねぇな。鍵を使って一発逆転したいってところか」
「と、それがそういうわけでもない」
メガネが次の書類を取り出す。クリップで留められた写真には、まだ10歳にも満たないであろう少女が写されていた。髪は短く、どこか利発そうな印象を与える子ではあったが、表情は固い。この年頃の少女なら、どのような写真でもニコニコ笑っていておかしくないのだが。
「不二崎の一人娘である沙織だ。鍵は彼女に使用されている。それも、おそらくは数本」
スキルテイカーの紅の双眸が、わずかに細められるのがわかった。血の色が滲んだような瞳で何を思っているのか。答えを予想するまでもなく、震えるような声音が彼の口から吐き出された。
「とんだゲス親だ」
まぁ、予想できた答えではある。メガネはスキルテイカーの潔癖さをよく心得ていた。
「スキルテイカー、おまえの意見を聞こう。彼女から〝業〟を奪うことはできるか?」
「やってみなきゃなんとも言えねぇよ」
スキルテイカーは、長いスプーンを口にくわえたまま、背もたれに身体を預けて天井を見上げる。ずいぶんと器用に喋ってのけるものだ。
「だが今回の場合、沙織って子が自分で才能を望んでいるわけじゃない。つまり才能に対する依存心が低いんだ。才能と本体の意識的な繋がりが薄いから、わざわざボコボコにして才能を〝屈服〟させる必要はないかもな」
「なるほど。場合によってはまた警察に根回ししなければならなかったからな」
メガネが大真面目な顔で頷いて、また別の書類を取り出した。
「次の質問だ。スキルテイカー、得意な教科はあるか?」
「なんだ藪から棒に」
「頭がよくなるアビリキィとかでも良いぞ。不二崎は大抵の場合沙織と一緒に行動しているが、当然、彼女も父親の目から逃れられる時間帯があるわけだ。その時間帯の方が行動もしやすいだろう」
「おいメガネてめぇ」
スキルテイカーが剣呑な声を出すのもどこ吹く風で、メガネは書類を突きつける。
「文科省に無理を通すのは苦労したんだ。まぁたまには教師の真似事もいいんじゃないか。給料も出るぞ」
最後のひとことを聞いて、スキルテイカーはこう言った。
「やろう」