1-5 『チート』
「ひゃ……」
「騒ぐな。近所迷惑だろうが」
訂正しよう。乙女の悲鳴は、宵闇を引き裂いたりはしなかった。スキルテイカーの手が、由莉奈の口元を抑えたからである。指先に生え揃った鉤爪が、彼女の頬を掠めたが、スキルテイカーもそれなりに気を使っているのか、必要以上に肌に食い込み血を流すようなことはなかった。
由莉奈はスキルテイカーの目を見る。赤く不気味に発光する双眸は、夜ともなるとことさら彼の異質さを際立たせる。由莉奈はスキルテイカーを睨みつけたが、それ以上抵抗するようなことはしなかった。彼も拘束を解く。
「ど、どうやって警察から?」
「それは秘密だ」
怪物は気だるげに言って、階段を登ろうとする。由莉奈がボロ切れの裾を引っ張ると、彼は思い切りつんのめった。
「おいやめろ、危ないだろ」
「先輩から鍵を奪うの?」
「そうか、おまえの先輩か。そうだよ。アビリキィは奪う」
由莉奈は、先ほどの先輩の奇妙な変貌を思い出していた。ドアノブを壊したかと思えば、次には蝶番ごとドアを外す。人外じみた怪力を見せ、しかしそれを訝しく思う様子もなかった。ひょっとして、と、由莉奈は思う。あの鍵はただ才能を授けるだけではないのか。ならば、スキルテイカーが鍵を集める理由とは。
「その様子だと、もう変化は起きているんだろう」
スキルテイカーの言葉は、由莉奈の脳裏を過ぎる可能性を肯定していた。
錆び付いた鉄階段を揺らし、スキルテイカーは上がっていく。由莉奈はそれを後ろから追いかけた。
「あの鍵はいったい何なの?」
「才能を拓く鍵だ。だが言ったろう。才能がそれひとつで独立して存在することなどあり得ない。人間性の成長と共に花開くもので、時間と労力を対価に要求するものだと」
今さらなんの説教か、とは思わなかった。昼間の牛丼屋で放たれたスキルテイカーの言葉が、今度は別の意味を持って由莉奈の脳裏に侵食してくる。しかしそれは、ひたすら才能を欲した由莉奈にとっては残酷な現実でもあった。
「アビリキィは才能を拓く。だが拓かれた才能は相応の対価を要求する。時間と労力を支払えない以上、対価は別の形で支払われる。そして才能は閉じられた人間性の側面を無理やりこじ開ける。結果として人格は歪む。人間のキャパシティなんて元々決まっているんだ。そこに外部から余分な才能という異物を詰め込めば、オーバーフローを起こす。わかるか」
スキルテイカーは、やがて先輩の部屋の前まできていた。扉の外された部屋の中を、直立したまま見つめている。
由莉奈にはそこまで歩み寄る余裕がなかった。足を止め、スキルテイカーの放った言葉の意味を反芻する。アビリキィは確かに才能を与えてくれるが、それは決して無条件に生まれ持った能力の差を埋めてくれるものではなかった。飛んだ茶番ではないか。むしろ才能の格差という現実を、より生々しく突きつけられた形になる。
拓く見込みのない才能は、開花に無視できない代償が要るという。では、才能に恵まれなかった人間は、いったいどうしろというのだろうか?
「見ろ」
だが、スキルテイカーは言った。由莉奈は重い足取りで彼の横に並び、部屋の中に視線を移す。
由莉奈は息を飲んだ。部屋の中では、不可視の力場が暴走していた。部屋中に散乱していた生活ゴミが紙切れのように舞い、竜巻のように渦を巻いている。青白い光が不気味に中を照らしていた。その中央にうずくまる人影がひとつ。
それが先輩なのだということはわかった。だが既にそれは人の姿を成していない。これが代償なのか。人間のキャパシティに、無理やり分不相応な才能を詰め込んだ、これが対価なのか。由莉奈は息を飲んだ。理解を脳が拒絶する。なぜ、限界の枠を超えたいと願った、ただそれだけで、ここまで醜くならねばならないのか。
力場の中央で、人影が蠢く。膨れ上がった才能は全身を不気味に変容させていた。双眸は青白く発光し、だらりと下がった両腕がラケット状になっている。腰骨は曲がって、両足の先端からは歪な爪が伸びていた。
「あれが暴走した才能に食いつぶされた人間の姿、神業だ」
スキルテイカーがそう言葉にした瞬間、蠢いていただけの先輩の意識が、明らかに由莉奈達へと向けられた。由莉奈が反応するよりも早く、スキルテイカーは彼女の腰に手を回して床を蹴る。金属を蹴立てる鈍い音と共に、二人の身体は宙を踊って、やがて緩やかな軌道を描きアスファルトに着地した。直後、部屋から障害物を突き破るようにして、先輩がこちらへ突っ込んでくる。
「だいぶ進行しているな」
スキルテイカーはぼそっとつぶやいた。
「ここだとご近所に悪い。場所を移すぞ」
「う、移すって……!」
「舌噛むなよ」
言うやいなや、スキルテイカーは再びアスファルトを蹴立てて宙に飛んだ。いきなり電柱に飛び乗り、そのまま電線の上を危なげなく駆けていく。由莉奈は小脇に抱え込まれたまま、眼下をものすごい勢いで流れていく住宅街の屋根を眺めていた。
視線を後ろにやると、怪物化した先輩がまっすぐに追いかけてくるのがわかる。由莉奈は複雑な気持ちでそれを見、同時に道中に停車している車や自動販売機をぶち抜きながら追いかけてくるその姿に、軽い恐怖を覚えた。
「な、なんで追いかけてくるの!?」
「人格が才能に支配されても、記憶は元の先輩のものだからだ。行動原理自体は〝才能〟に依存するから、おそらくあいつはおまえに追いつき次第……えぇっと、なんだ。あいつのアビリキィはなんの才能だ」
「テニス」
「おなえに追いつき次第テニスを始めるぞ」
「は?」
その言葉は、現状にはあまりにそぐわない牧歌的な響きを持っていたので、由莉奈は思わず聞き返した。
「そ、それだけ?」
「神業は才能を行使するためだけに活動する怪物だ。だが暴走した才能の成長は人間の領域を大きく超える。だから神の業なわけなんだが……」
電線の上を走っていたスキルテイカーだが、一瞬言葉を止めて大きくジャンプした。直後、彼の足元を掠めるようにして、青白い光球が飛んでいく。光球は近所の家の屋根にぶつかり、轟音と共に小規模な爆発を引き起こした。
光球がどこから発射されたものであるのか。もはや由莉奈には疑う余地もない。
「もしおまえがあの神業とテニスをやるって言うなら俺は止めないぞ」
由莉奈は全力でかぶりを振った。
スキルテイカーは由莉奈を抱えたまま電線を飛び降り、アスファルトを一直線に走り始める。先輩が放ったと思われる光球が次々と周囲に着弾し、アスファルトの破片を巻き上げた。やがてスキルテイカーは、荒川の堤防まで到達する。日中はサッカー少年やジョギング老人の姿を確認できたのどかな河川敷も、今は薄暗い闇が支配するのみであった。川の水面は光を吸い込み、まるで異界への扉が大口を開けているかのようにも見える。
「ここいらでいいだろう」
「わぷっ」
スキルテイカーは由莉奈を放り、彼女は芝生の上に転がった。すぐに神業と化した先輩が追いついてくる。スキルテイカーは、赤く光る双眸を細めて、相手を睨みつけた。こんな怪物から、どうやって鍵を奪い取るというのか。
由莉奈の心配を感じ取ったか、スキルテイカーはすぐに鼻を鳴らした。
「テニスか。しょせんはステータスアップと技能強化タイプのチートだ。そんなにやりにくい相手じゃない」
こちらの様子を伺うように、じりじりと距離を詰める神業に対して、スキルテイカーはゆったりと腕をあげた。ボロ切れの合間から腕が除き、不気味な鉤爪が先輩を指差す。その後、スキルテイカーはそれを言うこと自体が決まりごとであるかのように、はっきりとした口調で述べた。
「俺は『スキルテイカー』。おまえの、〝業〟を奪う」
直後、彼は全身にまとっているボロ切れを自ら引き剥がす。由莉奈は、布地の裏側に無数の鍵が揺れているのをその目で見た。スキルテイカーが歩くたびに聞こえていた、しゃらしゃらという金属音の正体だ。同時に、そこにぶら下げられた鍵のすべてが、彼の言う『アビリキィ』であることもわかる。
これだけの鍵と才能を、スキルテイカーは今まで奪ってきたというのだ。呆気に取られる由莉奈の前で、スキルテイカーの身体に明確な変化が起きていた。男は、やや自嘲気味に笑う。
「せっかくだから教えてやろう。これが安易に才能だけを拓き続けた者の成れの果てだ」
見ればスキルテイカーの腕に、足に、顔に、あらゆる場所に黒くて細い切れ込みが現出する。由莉奈は無意識のうちに右手の甲を抑えていた。それは、間違いなく鍵穴だったのだ。由莉奈が抑えているその部分に姿を見せた、才能の扉にかけられた錠前。スキルテイカーは全身余すところなく鍵穴で埋め尽くされていく。鳥肌が立つほどにグロテスクな光景だ。
スキルテイカーが手にしたボロ切れの中で、吊るされた無数の鍵がカタカタと震えだした。スキルテイカーは、その中の一本をむしり取って、迷わずに自らの右手の甲に差し込んだ。由莉奈から奪い取った、あの鍵だと、彼女は気づいた。
「スキルテイカー」
「まぁ見ていろ。良い子だから真似するんじゃないぞ」
スキルテイカーは深く息を吸い込んだ後に、右手に差し込んだ鍵を大きく回した。全身に開いた鍵穴が閉じて、右手に差し込まれた鍵がするりとスキルテイカーの身体の中に入っていく。唯一残された鍵穴はアザとなって残った。スキルテイカーの全身がさらに不気味な変質を始める。
テニス・チートの攻撃は、その変化の最中に行われた。ラケット状の腕から発射された光球が続けざまに三発、スキルテイカーめがけて飛来する。果たして怪物は、それを避けるようなことなどしなかった。腰を落とし、腕をわずかに構え、光球めがけて腕を振り上げる。果たして正確な軌道で光球は打ち返され、周囲の芝生を焦がすようにして地面へと着弾した。
スキルテイカーは、それまでとはまた違う怪物の姿に変容していた。彼の弁を信じるならば、これもまた才能の怪物。人間のキャパシティを超えて溢れ出した醜悪な〝業〟の姿である。由莉奈から奪ったものであるならば、それは空手の神業であるはずだった。
「す、スキルテイカー」
「手順を説明しよう」
声にはブレるようなエフェクトがかかっていたが、スキルテイカーが見据えるもうひとりの神業とは異なり、彼の意識ははっきりしている。
「多くの場合、神業はアビリキィの使用者が才能に依存した結果、才能が増長し暴走することで誕生する。外科的な手段でアビリキィを奪い取る場合、力ずくで〝才能〟を屈服させる必要がある」
「て、テニス勝負で勝つってこと?」
「それでも良いんだが、俺はそんなめんどくさいことはしない」
スキルテイカーは芝生の上を大股で歩き、神業に向かっていく。彼がラケットから放つ光球は、すべて素手で弾き返していた。光球は芝生と土を吹き飛ばし、着弾と共に衝撃波を有無が、スキルテイカーのまっすぐ見据えた視線にはなんのゆらぎもない。拳を握り、神業に近づき、腰を落としてから構えを取って正拳を突き出した。動作は悠長だったが、由莉奈から見ても文句のつけようがないほどに、正しい正拳突きである。
拳は神業のみぞおちにのめり込み、彼の身体を吹き飛ばす。運動力学を鼻で笑うような軌道であった。神業は壁に叩きつけられ、瓦礫の山を築く。由莉奈は一瞬息を呑むが、直後、もうもうと立ち上る粉塵の中から三発の光球が飛び出すのを見て、また別の意味で肝を冷やした。スキルテイカーは二発を捌くが、最後の一発は直撃をもらう。しかし、わずかに歩みを止めただけであり、特に応えた様子は見られなかった。
なんなのだ、この男は。
由莉奈は、今日何度目かになるであろうその疑問を吟味する。鍵と才能の簒奪者、スキルテイカー。アビリキィの拓く才能について危険性を示唆した後、彼は自らその鍵を使ってみせた。アビリキィは間違いなくスキルテイカーの身体に変容をもたらしているが、彼の意識に変化は見られない。
スキルテイカーが特別なのか、まだ説明されていない法則があるのか。由莉奈にはわからない。はっきりしているのは、スキルテイカーは自らが奪った鍵を使って、また他の誰かから鍵を奪おうとしているということだけだ。おそらく、今までもずっと、彼はそうしてきた。
いったい、なんのために。
アビリキィの持つ危険性について、由莉奈は理解した。その上で、彼女から鍵を取り上げたことも、いま先輩の暴走を止めようとしてくれていることも、善意と解釈することはできる。だが、心の奥底で、完全に納得しきれていない自分がいることを、由莉奈は否定するものではない。
才能に食いつぶされ、暴走した人間の姿が神業であるならば、スキルテイカーはそうではない。彼は明らかに、アビリキィによって拓かれた才能を制御していた。異形に身をやつすという代償は支払っているものの、スキルテイカーは才能に飲み込まれたわけではない。
そうした手法があるのならば、なぜ最初に教えてくれなかったのか。正直に言おう。由莉奈はスキルテイカーが妬ましかった。いま、彼が手中に収め、自在に使いこなしているそれは、由莉奈が10年近く焦がれ、ついに手にすることのできなかった〝空手の才能〟そのものである。
由莉奈はスキルテイカーの言葉を思い出す。
『いいか、才能っていうのは、こう、じっくりゆっくりと伸ばすものであってだな。鍵を穴にぶっさしてガチャッて拓くものじゃないんだ』
大した御高説だ。まったくもってその通りだ。では今のスキルテイカーはどうか。彼が言った言葉そのものの姿ではないのか。
そうして安易に才能を手中に収めた代償が、あの怪物じみた威容だというのならば、それも頷こう。あのような姿になりたいかと言われれば、由莉奈もかぶりを振ろう。乙女が怪物と化すのを案じて、鍵を奪い取ったというのであれば、それは実に頭の下がる善行だ。
だがそれでも由莉奈は納得できない。スキルテイカーの行いを傲慢だとすら断じよう。なぜ彼は、人から平気で才能を取り上げていくのだろうか。そしてなぜ自分は、取り上げられる程度の才能しか持つことができないのだろうか。
わかっているのだ。だがそれでも、由莉奈は納得できない。
自分より短い練習期間で、自分より結果を出した仲間は大勢いた。彼女達には才能があった。自分にはそれがなかった。厳然たる才能の格差。世の不条理に対する燃え上がるような感情がこみ上げて、由莉奈の目頭に到達する。
滲む視界の中で、スキルテイカーが神業と渡り合う。スキルテイカーの放つ拳撃と蹴撃の数々は、由莉奈が欲して手に入らなかったものである。これ以上は見ていたくなかった。これ以上惨めになりたくはなかった。
ああ、だがしかし。クソ喰らえではないか。
由莉奈は一度は逃げた。才能の格差に、埋まらない溝に目を背け、二度と空手の道を歩むまいと心を決めた。だが今はどうか。なぜこれほどまでに、一度捨てた道に焦がれているのか。思いは決別以前よりもはるかに強く増している。
結局はそういうことなのだ。どんなに才能がなくても、どんなに惨めな思いをしても、それは容易に捨てられる道ではなかった。諦めてしまえば楽になるだろう。それもひとつの道だ。誰かに責められるとは思わない。
それでも由莉奈はもう、目を背けることはできやしない。スキルテイカーと神業の戦いを眺め続ける。彼の振るう空手の技の数々を、目に焼き付けなければならなかった。スキルテイカーのことが妬ましかった。憎かった。恨めしかった。自分にあれだけの高説を垂れて、あっさりと才能を制御してみせたあの男をぶん殴ってやりたかった。
月下の河川敷。スキルテイカーの足刀が高く跳ね上がった。度重なる打撃を受けて動きを鈍らせた神業は、繰り出されるであろう蹴撃に備える。果たしてスキルテイカーのカカトは鉄槌の如く振り下ろされ、頭上を防がんとする神業の両腕に激しく叩きつけられた、
後、
スキルテイカーは残る一本の足で芝生を蹴りたて、くるりと宙を舞った。きりもみ状の回転とともに、勢いづけられた足刀が神業の横面を蹴り飛ばす。打撃は一発ではなかった。ガードに阻まれたはずのもう一本の足も、頬に追い打ちをかけ、神業の身体は芝生の上に転がった。
「ふんっ……」
スキルテイカーは自らの右手の甲にできた鍵穴状のアザに指先を突っ込み、無理やり鍵を引っ張り出した。空手の才能が失われ、スキルテイカーの両手は空手に適した無骨なものから、元の鋭い鉤爪に戻る。彼は芝生の上でぐったりとした神業の身体を検め、左腕の付け根に鍵穴状のアザを確認した。
スキルテイカーが、アザに鉤爪をめり込ませる。さすがの由莉奈もこれには身をすくめた。だが血が噴き出したり肉がえぐり取られたりするようなことは一切なく、やがてスキルテイカーは、鍵穴から一本の鍵を取り出す。
炭酸から空気が抜けるような音が、夜の荒川に静かに響いた。暴走した才能を引き抜かれたことで、先輩の身体が徐々にもとへ戻っていくのがわかる。由莉奈は安堵と同時に、どこか物悲しい気持ちになった。あの時、テニスコートで自信をみなぎらせていた先輩は、もう見ることができないのだろうか。
スキルテイカーは、再びボロ切れを纏うと、これを言うのが決まりごとであるかのように、静かにつぶやいた。
「俺は『スキルテイカー』。おまえの〝業〟は、確かにいただいた」
「スキルテイカー」
「あん?」
「それ、あんまカッコよくない」
「黙れ」