1ー4 『才能』
「ユリちゃんじゃん。どうしたの。こんな時間に」
先輩は、目を丸くしながら由莉奈を迎えた。
「大事なお話があって。上がっても良いですか?」
「えっ、えぇっ。俺の部屋、あんまり女の子を上げられるような環境じゃ……」
「汚いのは知ってますから。今さら取り繕わなくても」
ガラにもなく躊躇する先輩を押しのけて、由莉奈は無理やり上がり込む。玄関先で話をしても良かったのだが、いつ警察の手から逃れたスキルテイカーが戻ってくるともわからない。
部屋は相変わらずの汚部屋であった。昨日の今日であるので特別ゴミが増えているわけでもないのだが、下着が平然と放置されているのにはちょっとだけヒいた。だが、勝手に乗り込んだのはこちらなので、そこを指摘したい気持ちをぐっとこらえる。
「えーっと」
冷蔵庫から缶ジュースを二本取り出してきて、先輩が決まりの悪い笑顔を作った。
「で、大事な話って、なに?」
「あ、はい。あの」
当然、スキルテイカーのことだ。あの男は先輩が手に入れたテニスの才能を狙っている。だが、いきなりそんな突飛なことを口にする気にはなれない。由莉奈は、外堀から埋めるような形で、ゆっくりと順番に話すことにした。
「テニスコートで、先輩の姿を見ました」
「えっ」
プルタブを開けながら、先輩の姿が固まった。
「見たの?」
「はい。ばっちり」
「そ、そっかぁ……」
やはり見られたくない部分、触れられたくない部分だったのか。由莉奈は若干の気まずさを感じながらも、さらに踏み込む。
「先輩、昨日、『チート売りの魔女』から鍵を買いましたよね」
気まずそうな笑顔の先輩が真顔に戻ったのは、その瞬間だ。怒られるだろうか、とも思った。だが、ここで躊躇うわけにもいかない。
「……やっぱり、あれは夢じゃなかったんだな」
「はい」
そう言って、先輩は唐突に腕まくりをした。二の腕の付け根に、小さなアザが残っている。普通に過ごしていれば大して気にならないはずのそれは、意識すれば確かに、ピンタブラー錠の鍵穴に酷似した形状を持つ。
あの晩、先輩にどれほどの意識があったのかはわからない。だが、泥酔しながらもきっと、自らが話した都市伝説の魔女に対し、強く才能を渇望したのだろう。その結果、チート売りの魔女は、先輩の枕元に降り立ったのだ。
「もしかして、と思ったから、ラケットを持ってテニスコートに行ったんだ。自分でも驚くくらい強くなってたよ。〝才能〟って凄いな」
どこか自嘲の混じる声音であった。由莉奈にも気持ちはわかる。今までしてきた努力を、すべて無駄にしてしまうほどの〝才能〟は確かに存在するのだ。それをあっさり手にしたことに対する戸惑い。先輩の心境としてはそんなところだろう。かつて行ってきた努力の価値を疑ってしまう。
だが由莉奈は、そこでチートを手にした先輩のことを責めるつもりにはなれなかった。むしろ応援したいとさえ思う。どれほど努力をしても実らないものはあった。決して埋まらない不公平な溝を解消するために、チートに手を伸ばすのはそんなに悪いことなのだろうか。
だからこそ、由莉奈は本題を切り出す。
「先輩の手にした『鍵』を、狙ってる奴がいるんです」
「くそったれ! 余計な時間を取らされた!」
怒りに任せて夜道をのしのしと歩くスキルテイカーの姿は、正しく不審者そのものだ。何しろひと気の少ない道である。ときおりすれ違う帰宅途中のサラリーマンやフリーターは、あからさまに距離を置きながら、この怪人物が通り過ぎるのを待っていた。
世知辛い世の中だと、スキルテイカーは心底思う。このボロ切れだって好きでまとっているわけではない。自身の姿があまりにも不気味で、正常な人間の出で立ちからかけ離れているからこそ、それを隠す工夫が必要だった。スキルテイカーだってもっと人間らしい、厚手のコートに山高帽とか、そういった衣装に袖を通したいのだが、なにしろ先立つものがない。
まぁ、いい。自分のカッコウについては、もっと別の機会に考えることとしよう。
問題はアビリキィだ。鼻はだいぶ利くつもりだが、それでも一度アビリキィが使用されてしまえば、目で直接確かめるまでは誰が使ったのかわからない。このあたりが厄介である。今日の昼頃に関しては、使用の直前になんとか奪い取れたのが幸運だった。
あの女が、もうひとりの鍵の使用者と、なんらかの接点があるのは確実だった。見張っていればチャンスは巡ってくると思ったのだが、まさか公権力のお出ましとは。東京というのは怖いところだ。
都会の夜は月明かりも弱い。夜道を急いでいたはずのスキルテイカーは、ある一区画にさしかかろうという時に、ぴたりと足を止めた。ゆっくりと振り向き、爛々と発光する紅い瞳を、街灯の上へと向ける。
「……よぉ、魔女」
そこに佇む一人の少女に向けて、憎々しげな声音を発した。
「こんばんは、スキルテイカー。良い夜ね」
少女は首をかしげてそう挨拶をする。病的なほどに青白い肌と、ゴシックロリータ調の黒い装い。夜中だというのにレース付きの日傘をさしていた。チート売りの魔女である。スキルテイカーと魔女は、上と下に分かれて互いをにらみ合った。
「こんな空気の薄汚れた街で良い夜もクソもあるか。だいたいおまえは会うたびにそれしか言わねぇ」
「ふぅん、相変わらず無粋なのね。スキルテイカー」
「何か用かよ。俺は別に、おまえとシャレオツな会話を楽しみに来たんじゃねぇんだ」
スキルテイカーが視線と言葉にこめる熱と棘は、魔女の心には刺さらない。街灯の上に佇む少女は、くすりと笑った。
「まだ鍵集めなんて無駄なことをやっているのね」
「気にかけてくれるんなら、鍵をバラ撒くのやめてもらえねーかな」
「どうして? 私は、才能を欲しがる人にそれを与えてあげているだけだわ」
「いらねぇオマケがついてくるだろうが」
「そうね」
魔女の微笑みは崩れない。
「でもね、スキルテイカー。それでも才能を欲しがる人はいるのよ。今までしてきたすべての努力を放棄しても、対価に様々なものを失うことになっても、決して手に入らないものを欲しがる人はいるのよ。あなただってそうでしょう?」
「それをあっさり手に入れるのが正しいことだとは思えない。欲しいものがあるならあがき続けるのが人間のあり方だ」
「正論だわ。でもね、世界の全てはあなたのように潔癖になれないのよ」
果たして、議論は平行線をたどる。スキルテイカーも魔女も、おそらく今まで何度も繰り返されてきたであろう闘論に際して、互いの自論を譲ろうという態度は、一向に見せなかった。
「すべての人々があなたのように潔癖に生きられたらステキでしょうね。でも生きる方からしたら溜まったものじゃないでしょう? どれだけ努力をしても願っても、結局は才能の差は覆らないわ」
「そ、それでもだな……」
「あなたは世界のすべての人々に、退屈な出来レースを演じろと言っているんだわ」
魔女のその一言に、スキルテイカーはとうとう次の言葉を繋げられなくなる。ボロ切れの中で顔をしかめるにとどまった。言葉のラリーは終了し、該当の上の少女が満足げな微笑を浮かべる。
「また私の勝ちね、スキルテイカー」
「俺は負けていない。勝負はここからだ」
スキルテイカーはボロ切れを翻して、チート売りの魔女に背を向ける。そう、鍵を奪うことが彼の勝負だ。それに関して言えば、むしろここからである。心の奥底に打ち込まれた釘の痛みを確かに感じながらも、再び夜道を歩き始めた。
あの鍵は確かに才能の扉を拓く。だが、なんの裏付けもないままに開放された〝才能〟は、本来あるべき裏付けと対価を要求するのだ。その結果がどうなるかを、スキルテイカーは知っている。それを御しきれなかった人間の末路もだ。結局、本来才能を持ち合わせない人間に、才能を後付けしたところで、待っているのは悲劇だけなのである。
それでも、人々は才能を欲するのだと、魔女は言った。決して埋まらない溝を埋めるためにチートに頼るのだと言った。そういった人間がいるということも、スキルテイカーは知っている。しかし、
スキルテイカーの背後から、魔女の声が届いた。
「私は人間の可能性を信じているわ、スキルテイカー。だから鍵を与え続けるのよ」
スキルテイカーは足を止め、振り返らずに言った。
「俺は人間の可能性を信じているぞ、魔女。だから鍵は奪い続ける」
こんなところまできてしまったのだ。スキルテイカーは、一度来た道を引き返したりするようなことは、決してしない。
「ふぅん、スキルテイカーねー……」
先輩は若干上の空といった様子で、相槌を打った。
「信じられないのもわかりますけど……」
「まぁ、チート売りの魔女の時点で、だいぶ信じられない存在だからね……」
人の才能を奪う怪物、といったところか。スキルテイカーが奪うのが、才能全般であるのか、鍵によってのみ開花した才能であるのかはわからない。本人の話しぶりからすればおそらく後者であろうが、今の先輩にとっては同じことである。長らく欲してようやく手にした才能を、やすやすと奪わせるわけにはいかない。
「で、どうやって対策すれば良いんだろう」
「えぇっと……」
そう、問題はそこなのだ。先程はおとなしく警察の厄介になっていたスキルテイカーだが、彼が実力行使に訴えた場合、どれほど危険なものになるかははっきりしない。彼の指先に生えた鉤爪は鋭かったし、由莉奈の腕を掴んだ時の力も相当なものだった。暴力を振るわれたときのことを考えると、ぞっとしない。『奪う』というからには、そうした覚悟は向こうにもあるはずなのだ。
「まぁ、悩んでも仕方のない部分ではあるねぇ」
先輩はへらへらと笑って言った。ようやく、本来の顔つきが戻ったことに、由莉奈もわずかに安堵する。
「とにかく、教えてくれてありがとう。夜も遅いから、帰ったほうがいいよ」
「え、あ、はい」
何やらあっさりした態度である。多少の違和感もあったが、先輩の言うことも正しいので、由莉奈はおとなしく従うことにした。先輩が先に玄関まで歩いていき、ドアノブに手をかける。先輩が回そうとした瞬間、何やらバキャリという派手な音がして、ノブがドアから外れてしまった。
「あっ……」
「あー……」
先輩は苦笑いを浮かべて、手に握られたドアノブを眺める。
「もうこのアパートもだいぶ古いからねぇ」
「そ、そうですよね。木造ですしね……」
とは言え、ドアノブが壊れてしまってはドアは開けられない。どうしよう、と思った矢先、先輩は信じられない行動に出た。
いきなりドアを片手で押さえ、もう片方の手で無理やり引き剥がしたのである。めりめりという音とともに木片が散って、蝶番の割れる音が耳に残った。由莉奈はぽかんとしてその様子を見ていた。こんな膂力が、先輩の細身のどこに眠っていたというのか。テニスの才能に目覚めると、筋力まで上がったりするのだろうか?
「ほら、ユリちゃん開いたよ」
だが、この瞬間、もっとも薄ら寒いのは、相変わらずへらへらした笑顔を浮かべた先輩の姿である。自分のした行いに対する違和感を感じていないのだ。先輩の中に、何かもうひとつの人格が入り混じってしまったかのような、不気味な感覚がある。
由莉奈はひとまず小さく頭を下げて、靴を履き帰ると外に出た。金属製の階段をゆっくり降りながら、笑顔で手を振る先輩に振り返る。大丈夫だろうか、という思いと、何か自分は、思い違いをしているのではないか、という考えが頭を巡った。
後ろを向きながら階段を下りていた由莉奈である。当然、目の前に立っている男の存在に気づかず、思い切りぶつかってしまった。顔をあげて、謝罪をする。
「すみませ……」
そこには、ボロ切れをまとった長身の男が、仏頂面で立っていた。男は鉤爪の生え揃った手を掲げて挨拶する。
「よう」
乙女の悲鳴が、宵闇を引き裂いた。