5-6 『門出』
マサキが目を覚ましたのは、研究施設の一室だった。ずきずきと痛む頭を押さえ、なんとかして立ち上がる。意識の混濁が激しいが、視界と共にだんだんクリアになっていく。薄暗い施設の一角は、周囲の本棚や計器などがめちゃめちゃに破壊され、激しい戦闘があったことをうかがわせる。人の気配は一切なかった。
記憶が蘇るにつれ、手先が震えるのがわかった。自分が〝怪物化〟したという意識が、マサキには鮮明にある。そこから先がやや曖昧だが、それでもとんでもないことが起きたのだ、というのはわかる。
「エイカ……?」
マサキは闇の中に問いかけてみた。返事は、ない。
そう、エイカだ。エイカはどこに行ったのだろう。自分から鍵を引き抜いた、そのあとだ。
彼女がなぜあんなことをしたのか。しようとしたのか。マサキは未だに彼女の気持ちがわからない。後ろめたさもあった。恥ずかしさもあった。彼女の前に平然と出られるかというと、自信がない。だが、彼は真っ先にまずエイカの身を案じた。彼女は一体、どこへ行ったのだろう。
がさ、と何かが動く音がした。マサキは振り返る。
「エイカか……!?」
人影は、部屋の電気をつける。白衣をつけた中年の男を、マサキはよく知っていた。
「目が覚めたようだね。マサキ」
「鳥野……、さん」
彼を見つめるマサキの目つきは鋭い。怪物化した前後の意識がぼんやりと蘇る。彼がもう、ただの優しい施設長のおじさんでないことは、知ってしまっていた。彼はマサキを怪物化させ、そこから鍵を奪おうとした張本人なのだ。
鳥野のマサキを見る目もまた、以前のような優しさがこもったものではなかった。その互の認識こそが、横たわる溝を完全なものにする。
マサキは尋ねた。
「エイカはどうしたんだ」
鳥野は答える。
「死んだよ」
あまりにも衝撃的な一言に、マサキは目を見開く。だがすぐに表情を鋭いものにして、鳥野の顔を再度睨んだ。
「嘘を言うな」
その言葉には、多分に、彼自身の望みが託されていた。
杉浦エイカが死んだ、と言われて、彼が真っ先に疑うのは自分の仕業だ。マサキには自分が怪物化したという記憶があり、その記憶は、彼女に向けて走り出したところから曖昧になっている。意識が、真っ赤に染まった。彼女が死んだ、と言うのなら、それはひょっとして、眞島マサキ自身の手によるものでは、ないのか。
彼にとってそう考えるのは、実に恐ろしいことだった。故に『嘘だ』と叫ぶ。しかし鳥野は言った。笑いもせず、ただ冷酷に淡々と事実を告げる。
「強奪者の神業は、君の記憶と感情に則り、まずは〝彼女〟を奪おうとしたんだ。結果として彼女は死んだ。おかげで今までの研究のほとんどが台無しになったよ」
鳥野は、やけに丁寧に説明をしてくれた。神業に襲われたエイカは、まず彼の中に生じた新たなるアビリキィを安定させるため、その手に持っているマスターキーを神業の中に埋め込んだのだという。だが、暴走は止まらず、神業は杉浦エイカ自身を、彼女の命を奪った。マスターキーが効力を発し、アビリキィの活性化を制御したのは、それからしばらく後だ。マサキの神業化は収まり、彼は眠るように気を失った。
エイカの遺体はすぐさま収容された。どこへか、というところまでは語ってくれない。含みのある物言いではあったが、この時マサキの身体を支配していたのは絶望であって、そこを疑うだけの精神的余裕は残されていない。
エイカが死んだ? 殺した? 自分が?
いったい、どのように殺したのか。彼女は苦しんだのか。彼女は自分を恨んだだろうか。
思考がぐるぐると周り、頭がよく働かない。
「台無しにまったのは君も同じだ。エイカも余計なことをしてくれた」
嘆息するように、鳥野は言った。
「ど、どういうことだ……」
「君の中に、強奪者のアビリキィは再癒着してしまったということだ。マスターキーの作用だよ。初めて見るキーホルダーが、まさかこんな形とはな」
鳥野が何を言っているのか、マサキにはわからない。初めて聞く言葉の羅列だったのだ。だが、鳥野のこちらを見る忌々しげな視線の正体を探るうち、ふと、ガラスに映る自分の姿に気づいた。
いや、それは本当に〝自分〟だったのだろうか。
爛々と発光する真紅の双眸も、鋭利に尖った両腕の鉤爪も、怪物じみた異形のものだ。震える手で自分の顔に触れてみると、ガラスに映し出された怪物も、まったく同じ動作をしてみせた。
「エイカはマスターキーがアビリキィの活動を弱め、君が人間に戻ることを期待していたんだろう。まぁ結果は見ての通りだ。貴重なマスターキーをこんな形で失うというのは不本意だよ」
「他に……」
マサキは辛うじて、言葉を絞り出すことに成功した。
「言うことは、ないのか……!」
鳥野誠一の言動は、これまで彼が見知ってきたものとあまりにも違いすぎた。
決して、エイカへの追悼の言葉を求めたわけではない。マサキへの呪詛の言葉を求めたわけではない。だが、他にもっと、人間らしい言葉は言えないのか。言ってはくれないのか。
鳥野は片眉を上げた。
「君の顔はもう見たくない。どこへでも消えてくれ、と言えば、満足かい」
「………!」
マサキは歯ぎしりをし、そしてまた、ガラスに映る自分の顔を見た。
「そのような姿で、〝家〟には戻れまい。ヨウスケ達には、エイカの件を含めて私から伝えておこう。安心しなさい。口約束など何も意味もないが、彼らに本当のことを喋るつもりはないし、彼らの才能を〝抽出〟するだけの時間もない」
鳥野の口調はその瞬間だけ、優しかった養護施設の責任者に戻っていた。
「少なくともあの四人は、無事に〝家〟を出られるんだ。それだけでも、結構なことだとは思わないかい」
◆ ◆ ◆
結局、鳥野はどこまで本当のことを言っていたのだろうか。スキルテイカーは、今でもそれを考える。
あの後、彼は施設を出た。いつしか名前を捨てた。やがてアビリキィが世に蔓延し始めていることを知った。鳥野の所在を突き止めようとしたが、あの男はようとして見つからなかった。彼は唇を噛んだ。杉浦エイカが死に、彼女が守ろうとした〝正義〟の所在は掴めぬままだ。だが、エイカが生き、為そうとしたことは、遺していかなければならない。
それを為すのは、〝彼女〟を奪った自分であるべきだろう。彼は、業を奪う怪物になった。
〝彼女〟との再開は、それからしばらくしてだ。果たして鳥野の言ったことは事実だったのだろうか。彼女は一度死に、そして蘇ったのか、あるいは、鳥野は最初から嘘をついていたのか。彼女の口から語られなかった以上、それはわからない。
そして何より、〝彼女〟はもう、杉浦エイカではなかった。〝彼〟が眞島マサキでなかったのと同じことだ。
彼女は魔女になっていた。かつての眞島マサキの生き方を認めようとするかのように、才能のないものに才能を配っていた。
彼女はスキルテイカーを憎んだし、彼は魔女を憎んだ。因縁はそこからだ。
「はぁ……」
考えても仕方のないことだ。鳥野の言ったことがどうであれ、既にマサキもエイカもこの世にはいなかった。いたのは、同じ形をした怪物だけだ。
いつもと同じ結論に達して、スキルテイカーはため息をつく。
その日の河川敷は快晴だった。橋の下に設けられたダンボールハウスを畳み、スキルテイカーは引越し準備をする。持っていくものは何もない。ショウコが持ち込んだ食器や調理具の類は、一ヶ所に纏めて置いていく。
時刻は正午過ぎほど。夕方には学校帰りにショウコと、もしかしたらチサトが来るかもしれないので、それまでには撤収していなければならない。ゴミクズとしての生活はもう終わりだ。今日から再び、彼はスキルテイカーとして生きる。
清々しいほどいい天気であれば、門出としては最適ではないか。スキルテイカーは大きく腕を広げて深呼吸した。気分は最高に良い。
はずであったのだが。
「ごきげんよう、スキルテイカー」
最悪の来客だった。スキルテイカーはきりきりと後ろを振り向く。
そこには、もう暖かい春先だというのに、妙に暑苦しいゴシックロリータファッションに身を包んだ、小柄な少女が立っていた。日傘を肩にかけ、腕にはコンビニ袋を引っ掛けて、なんと両手にはカップヌードルを持っている。お湯は既に入っているらしい。
「何の用だ、魔女」
スキルテイカーは困惑も露わにそう言うのだが、魔女はさも当然といった顔で答えた。
「あなたの引越しを、お手伝いしようと思って」
「手伝ってもらうことなんか何もない。帰れよ」
「つれないのね。差し入れまで持ってきたのに」
その差し入れというのは、両手に持ったカップヌードルのことか。スキルテイカーは『余計なお世話だ』と言おうとし、その言葉を自らの腹の虫に遮られた。気まずい思いで顔を上げてみるが、魔女の表情はいつもの悠然としたものであって、その中身が読み取れない。
結果的に、スキルテイカーは折れた。
「………、まぁ、座れよ」
彼を意志薄弱と責めることはできまい。みんな貧乏が悪いのだ。
「失礼するわ」
魔女はくすりと笑って、土手に腰をおろす。
「ところで、早く取ってくれない? 熱いし、腕が疲れるのよ」
可愛げのある仕草をしてみせたかと思えば、これだ。魔女の差し出したカップヌードルを、スキルテイカーは乱暴に受け取った。
「他には何買ってきたんだよ」
「プリンと紙皿よ。あなたの分もあるから心配しないで」
「ああ、そう」
気のない返事をして、スキルテイカーは蓋を剥がす。身体に悪そうな化学調味料の匂いが、野っぱらに広がった。こんなものでも空の胃袋には染みる。中を覗き込んでみて、彼は露骨に顔をしかめた。
「おい、のびてるじゃないか」
「私はそれくらいの方が好きなのよ」
ヌードルをふうふうと冷ましながら、魔女が言う。知るか、と返したいところだった。が、
「ショウコとチサトは、」
その名前が出た時、スキルテイカーはぴたりと箸を止める。
「元気にしてるかしら」
「さぁ。あまり心配はしていないが」
「今日は学校行ってないの?」
「俺はな」
結局、五味クズハとしてショウコ達の中学に通ったのは昨日一日だけだ。もともとそのつもりではあった。メガネは事後処理で大変な目にあってるだろうが、それも含めて織り込み済みの協定なので、別に気の毒とも思わない。ただ、あの仙人じみた目の少年の、フレッシュなエロトークはもう少し聞いていたかったな、と思う。
事件が解決すれば、学校に行く理由もない。
ゴミクズでなくなれば、ショウコのヒモとして生きる理由もない。
なので、スキルテイカーは、ショウコとチサトにろくに別れも告げず、退散することにした。
いつものことだ。今回が特別なのではない。
魔女が『あなたの勝ちよ』と言って去った後も、チサトはショウコにしがみついてわんわん泣くだけであり、スキルテイカーはそれを放置するわけにもいかなくて、ひとまずチサトが泣き止むまで待たなければならなかった。ショウコがどのようにしてチサトの心の闇を解き、神業化を解除したのか。彼女自身が取り込まれたからこそできた芸当であるとは言え、スキルテイカーは大変気になった。
気になったが、聞いてはいけないな、と思い、聞かなかった。
ショウコは『人間の幸せは、才能なんてちっぽけなモノの有無で決まらない』と言った。要するにそれがすべてなのだろう。
2時間かけて涙を枯らしたチサトをなおもあやし、ショウコはスキルテイカーに別れを告げた。チサトと手をつないで、彼女を自宅まで送ると言ったショウコの言葉は『またね』でも『さよなら』でもなく、『じゃあね』だった。
それだけだ。別れらしい別れの挨拶は告げていない。いつものことだ。スキルテイカーはアフターケアまでする正義の味方ではない。
ただ、ショウコとチサトの件に関しては、きっと大丈夫だろう、という安心があったのは確かだ。
「人がみな、彼女たちのように強ければよかったのに。とは、思わない?」
「無理だろ」
スキルテイカーは吐き捨てるように言った。
「それに、強いことが良いことかっていうと、そうでもないしな。弱いからこそ良い奴だったって奴もいる」
二度と会うことのないであろう男の顔を脳裏にちらりと浮かべた。弱く、甘っちょろい男だった。現実世界の悪意に耐え切れないような脆弱な男だった。彼の顔を思い出すたびに、少し胸が痛む。
それに、どれだけ強くても、どうにもならない時もあった。強さが仇になった女だっていた。彼女のことを思い出せば、胸の痛みは更に増す。
ただ、このどちらの状況においても、結局はショウコの言葉通りであっただろう。
人間の幸せは、才能なんてちっぽけなモノの有無で決まらないのだ。彼らの幸せは、常に才能と近しいところにあるようで、実はまったく別のところにあった。ただ、彼らは才能を欲し、結果として魔女やスキルテイカーと関わることになったという、それだけのことなのだ。
なんのことはない。
スキルテイカーも、魔女も、誰かを幸せにすることも、不幸にすることもできなかった。ようやくして得た結論が、それである。正しいことがあると信じて、あるいは妄執を正義へとすり替えて、暴れて、騒いで、結局やっていたことと言えば、ただの、
いや、よそう。
「で、おまえはどうするんだ」
振って沸いた単語を強引に振り払うように、スキルテイカーは尋ねた。
「私?」
「そうだよ」
割り箸をびしり、と魔女につきつける。
「マスターキーは二本とも俺が持っている。おまえの手持ちの鍵なんて、そう何本もないだろう」
「そうね。ひとまず、チート売りの魔女は廃業よ」
彼女は憑き物が落ちたような顔でそう言った後、意地悪い笑みを浮かべた。
「三本目ができるまではね」
「何……?」
途端に、スキルテイカーの表情が険しくなる。暗雲の立ち込めるような感覚があった。
「アテがあるのか」
「秘密よ」
「あるんだな」
「秘密よ」
「……ひょっとしてないの?」
「だから秘密よ」
魔女は笑顔で答えてから、ちゅるちゅるとヌードルをすする。スキルテイカーもそれに倣わざるを得なかった。
「……鳥野さんが、まだ生きているのか?」
「知らないわ。鳥野の研究を引き継いでいる連中はいるだろうけど、彼らはバラバラだし、鳥野自身は行方不明よ。私が手を下したわけではないし、あなたでもないと言うのなら、真相は闇の中ね」
行方不明か。どうにも、すっきりしない話だ。スキルテイカーは眉をしかめて、ヌードルをすする。
鳥野の言葉はどこまでが本当だったのか、という答えのない疑問がまた鎌首をもたげていた。彼は口約束を守ってくれただろうか。ヨウスケやシュンサク達は、無事に〝家〟を出れただろうか。夢を叶えられただろうか。そして、マサキとエイカのことは、単なる不幸な事故で死んだのだと、今も信じてくれているだろうか。
数年ほど前まで、スペインのなんとかというチームで活躍していた日本人サッカー選手の名前が、ヨウスケといったはずだが、それを確かめる術もスキルテイカーにはない。
「それじゃああなたは、これからどうするの?」
魔女がそのように尋ねてきたので、スキルテイカーはそれ以上思考の迷路を彷徨わずに済んだ。
「俺か。俺は今までどおりだよ。おまえが鍵を配って回るんならそれを止める。マスターキーを手に入れる、入れないにかかわらずだ。で、メガネの依頼を受けて正義の味方を続けるし、ゲンさんと一緒にたまに日雇いの仕事をやって生活費を稼ぐ」
「しみったれた正義の味方ね」
「カネにならない職業なんだよ」
スキルテイカーは、かつて杉浦エイカが、あるヒーロー番組に熱中していたことを知っている。彼女の清廉さや、公平さや、正義感というものはきっとそこから来ていたのだと思うのだが、実際にああいうことを真似してみようと思うと、予想以上に生活が苦しい。
「ただ、」
「ただ?」
「今までより、もうちょっと物分りの良いスキルテイカーで行こうと思う」
「あら、どうして?」
「そりゃあ……」
スキルテイカーは一瞬言葉に詰まりつつも、このように続けた。
「俺は元には戻れないから、眞島マサキにはなれないが、ずっと頑固なスキルテイカーでいるわけにも、いかないと思ったからだよ。成長しなくちゃな」
「ふうん」
魔女は、どこか嬉しそうに笑ってみせた。その笑みの正体が、スキルテイカーにはわからない。
「ねぇ、スキルテイカー」
「なんだよ」
「このヌードルあんまり美味しくないから、替えてもらえないかしら」
スキルテイカーは、自分の持っているカップを覗き込み、次に魔女のカップを覗き込んでから、次にじっと彼女の顔を見つめてから、こう答えた。
「や、やだよ」
おしまい




