1-3 『アビリキィ』
「へ、変質者……!」
「あ?」
由莉奈は正直な感想を口にした。
変質者だ。こいつは変質者だ。それ以外のなんだというのだ。白昼堂々こんなボロ切れをまとって往来を歩き、いきなり女子大生を呼び止めて、あまつさえ吐いた言葉が『おまえのワザを奪う』である。頭がどうかしているとしか思えない。由莉奈はたじろいだが、スキルテイカーと名乗った変質者は威嚇するように首をかしげて、ボロ切れの中から顔を覗かせた。
顔立ちは存外に若々しい。ざんばら髪に、まぁ精悍といって差し支えない容貌だったが、印象が好転するかと言えばそんなことは当然ない。何より、不気味にギラつく双眸は、まったく変化していなかったのだ。
スキルテイカーは、路上をのしのしと歩きながら近寄ってくる。大声をあげて助けを呼ぼうかと考えた瞬間、由莉奈は自分の左手に握られたものを思い出した。鍵を使おう。空手を使えば、こんな変質者の一人は二人。
「あっ、こら!」
由莉奈の動きに気づいたか、スキルテイカーはアスファルトを蹴る。長い腕が、ボロ切れの中からひょろりと伸びて、彼女の手を掴んだ。人間のものとは思えない、鉤爪の感触がある。こんな骨ばった腕のどこに力を秘めているのかと思うほどに、スキルテイカーの拘束力は高かった。鍵を掴んだ由莉奈の手はぴくりとも動かない。
全身が総毛立つのを感じた。今度こそ助けを呼ぼうと息を吸うが、スキルテイカーの空いた片腕が、今度は口元を抑える。赤光を宿した瞳が睨みつけ、変質者は低い声で言った。
「なんだ、おまえ、まだ鍵を使っていないのか?」
まともに首さえ動かせない状況だが、それでも由莉奈は懸命に頷いた。目尻から涙が流れる感覚すらあった。なんて情けない。なんてみっともないんだ。自らの醜態をうんざり思うもうひとりの自分がいた。
スキルテイカーは、由莉奈の口元から手を離すと、その左手に握られた鍵をあっさりと奪い取る。
「あっ……!」
「まったく。こんなもの、使うんじゃない」
疲れたような声で呟いて、スキルテイカーは鍵をボロ切れの中にしまい込んだ。由莉奈は一瞬、恐怖を忘れて、右手を伸ばす。
「か、返して!」
「ダメだ。この〝才能〟はおまえのもんじゃないだろう」
「でも……!」
せっかく、決心がついたのに。空手をやりたいと思えたのに。才能に、手が届きかけたのに。
それを、あっさりと奪っていくなんて。
由莉奈はその場に座り込んでしまう。スキルテイカーは、ぎょっとしたようにたじろいだ。得体の知れない感情が、とうとう彼女の目頭までこみ上げてきて、先ほどのものとは違う種類の涙が、じんわりと浮かぶ。スキルテイカーは、周囲をきょろきょろ見回して、にわかに狼狽を見せた。
「な、泣くなよめんどくせぇな」
空手道場の二階の窓がガラリと開いて、稽古着姿の少年たちが顔を覗かせる。由莉奈はみっともないやら哀しいやら。ぼろぼろと涙を流した。ああ、情緒不安定だ。このまま目の前の変質者を困らせ続けてやろうか。
最終的にスキルテイカーは小さく舌打ちをして、由莉奈の腕をぐいと引っ張り無理やり立たせた。そのままずんずんと路上を引き返していく。由莉奈はさして抵抗もせず、腕を引かれるままに、スキルテイカーとその場から姿を消した。
空手道場の二階で、痴話喧嘩だの変質者だの人さらいだの騒ぎ立てていたが、二人の耳には入らなかった。
「牛鍋丼ふたつ」
いきなり入店してきた不審者が、人間離れした鉤爪を二本立てるのを見て、店員の笑顔が凍りつく。不審者が腕を引いてきた女性は何やら涙を浮かべていたが、男に抵抗する素振りは見せなかった。男は手頃なテーブル席に女性を座らせ、その対面にどかりと腰を下ろす。
男はスキルテイカーである。
女は茅ヶ崎由莉奈である。
スキルテイカーはボロ切れの中をゴソゴソとまさぐって、テーブルの上に小銭を置いた。五百円玉が1枚、五十円玉が1枚。あとはよくわからないレシートがチラホラとある。
「飯おごってやるから泣きやめよ。ただ味噌汁とかお新香とか欲しかったら自腹な」
怪物じみた威容に比して、スキルテイカーの言うことはみみっちい。
周囲の人間は、この男と女の関係に興味を持たずにはいられないようで、あからさまな意識を二人に向けていたが、スキルテイカーがギラギラと輝く紅い双眸を周囲に振りまくや、思い出したように食事へ戻った。あれではどれだけ食べたところで味もわかるまい。
由莉奈はようやく泣き止みはしたが、それでも涙をいっぱいに浮かべた目でスキルテイカーを睨みつけた。『鍵』を奪われたことを問いただしたい気持ちでいっぱい、という様子だ。
「あのなぁ」
鉤爪でテーブルを叩きながら、スキルテイカーが先手を打った。
「人様からもらった才能でどうこうしようなんて話が、土台ムシが良いんだよ。おまえ、あの『鍵』は魔女にもらったんだろう。いくら出した?」
「お代は要らないって……」
「あぁ、そう。あいつはそういうところがあるな。まぁ、良いや」
スキルテイカーは、その口ぶりからするに、明らかの『魔女』のことを知っている。由莉奈の頭には無数の疑問符が浮かんだ。この男は何者なのだ。魔女は何者なのだ。そして、あの『鍵』は、いったいなんなのだ。
緊張した面持ちの店員が、トレーに牛鍋丼を載せて持ってきたので、話が一旦停止した。スキルテイカーがじろりと睨みつけると、店員は丼をふたつ置いて足早にカウンターへ戻っていく。
「聞きたいことがあるって顔だな。俺は、この街にはまだ用がある。飯のついでに、答えられることは答えてやってもいい」
「………」
由莉奈は言葉を発するのに慎重になった。相手の顔色を伺ったというわけではない。発した言葉に嗚咽が混じらないよう、気を使っただけである。微かに口を開け、言葉が震えていないことを確認すると、目尻の涙を拭いて、このようにたずねた。
「あなたは何?」
「俺はスキルテイカーだ」
「何をする人なの?」
「鍵の回収をしている」
「アビリキィって、あの鍵のこと?」
「そうだ」
「あの鍵はなんなの?」
「人間の才能を拓く鍵だ」
「あなたはなんで鍵を回収しているの?」
「それは答えられない」
「あなたと魔女の関係はなんなの?」
「それも答えられない」
「鍵を返して」
「おまえのもんじゃないだろ」
「納得できない」
「かもな」
ひとしきり言葉の応酬が終わり、スキルテイカーは牛鍋丼を掻き込んだ。乱暴な食い様だったが、米粒ひとり残さない。それどころか、丼に残ったつゆの一粒すら残すまいと、長い舌を使って必死に舐め回していた。由莉奈は顔をしかめる。
「行儀が悪い」
「仕方ないだろ! カロリーになるものは1グラムだって無駄にできねぇんだよ!」
スキルテイカーが乱暴に丼を置く。
「話を戻すぞ。いいか、才能っていうのは、こう、じっくりゆっくりと伸ばすものであってだな。鍵を穴にぶっさしてガチャッて拓くものじゃないんだよ。わかるだろ? そうして得た才能なんてのは、ロクなもんじゃないし、達成感もないぞ」
「それは、私の才能があった場合の話だ」
スキルテイカーに垂れる講釈は、由莉奈にとっては今更すぎるものばかりだった。そんなことは百も承知だ。じっくりゆっくりと伸ばして、それでも自分に才能がないとわかったから、由莉奈は鍵を欲したのだ。それはあの先輩だって同じはずである。それを、横から現れたこの男が奪っていく。一体どのような権利があって、そんな横暴を行うのか。
「才能がない私には、才能がないまま惨めに生きろっていうの?」
「そうだよ」
突き飛ばすような冷たい物言いだった。
「そんな惨めな考え方をするようなら、惨めに生きるしかないな。繰り返して言うぞ。才能っていうのは、インスタントなものじゃない。時間と労力を対価に、人間性の成長とともにゆっくり花開いていくものだ。人間によって程度の差はあるが。〝才能〟だの〝能力〟だのってもんが、それ一つで独立してるなんてことはありえないんだよ。そこにはそいつの人生の裏付けがあるんだ」
「言われなくてもわかっている!」
由莉奈は、苛立ちのあまりに机を叩く。勢い余って立ち上がる彼女を、スキルテイカーは冷たい目つきで見上げ、周囲の客たちは驚いたように眺めていた。それでも、由莉奈の激情はとまる気配を見せない。
「全部わかっている! 私がやろうとしてるのはただのズルだ! でも、今までどれだけ努力をしてきても手に入らなかったそれが! 欲しいんだ! 努力してきた時間すべてを裏切るものだったとしても! この気持ちは! あなたにはわからない!」
「仮にわかったとしてもだ」
スキルテイカーは平坦な声音で続けた。
「仮にわかったとしても、この鍵は渡せない」
「………っ!」
由莉奈は強い敵意をにじませるが、それでもスキルテイカーの態度に変化は見えない。才能を欲し、才能を諦め、そして今、由莉奈はまた才能に焦がれている。ほんの数時間前の躊躇を、彼女は今、猛烈に後悔していた。あの時自分に少しでも勇気があれば。この才能には手が届いていたはずなのに。
「話は変わるが」
スキルテイカーは、睨みつける由莉奈のことなどまるで気にしていないように、そう言った。
「鍵を渡されたのはもうひとりいるはずだ。心当たりはないか」
先輩のことだ、と、由莉奈は理解した。同時に、スキルテイカーが何をしようとしているのかも。スキルテイカーは、先輩からも才能を奪い取るつもりなのだ。由莉奈は先ほど見かけたばかりの、先輩の顔を思い出す。あれほど自信に満ち溢れた彼の姿を見ることになるなんて、思ってもいなかった。
由莉奈は、あの姿に自分を重ねる。絶対の自信に満ちた攻撃的な視線。自分よりいち早く、抑えていたものを取り戻して、才能に手を伸ばした先輩の姿は羨ましかった。それすらも奪い取っていこうなどという横暴は、とうてい許せるものではない。
「知らない」
由莉奈はシラを切ることにした。
「ほーん」
スキルテイカーは不気味な光を宿した双眸を半目にして由莉奈を睨んだ。信じてはいない様子だ。
「教えてくれないならそれでいい。だが、魔女が同じ日にふたつも鍵を渡すなんてレアケースだ。おおかた、どっちかがたまたまその場に居合わせたんだろうと思ったんだけどな」
スキルテイカーの言葉は正しい。見透かされている。だが、由莉奈は何も言わず、彼を睨みつけるにとどめた。
「そいつを庇ったって良いことはないぞ、とは言っておく」
「あなたには関係ない。私は知らないと言っている」
「おまえ、強情って言われることない?」
由莉奈は基本的に柔軟な思考ができる人間のつもりだ。だが、目の前に現れたこの男に対しては、意地を張らざるを得ない。スキルテイカーは、茅ヶ崎由莉奈の生涯において初めて出現した、明確な『敵』であった。
しばらくにらみ合いを続けていたが、スキルテイカーはため息をついて席を立った。金属同士のこすれあう、しゃら、しゃら、という音が耳に残る。ボロ切れをまとった男が真横を通り過ぎる間、由莉奈は一瞥もくれずにずっと宙を睨んでいた。威圧感を放つ怪人物が退店したことによって、ようやく店内の緊張もほぐれる。
由莉奈は、目の前ですっかり冷めてしまった牛鍋丼にぼそぼそと箸をつけ、ようやく完食してから、伝票を持って会計を頼んだ。スキルテイカーがテーブルの上に置いていった550円も一緒だ。
そこで、店員に言われた言葉がこれである。
「お客様、十円足りません」
あの野郎。由莉奈はスキルテイカーへの憎悪を募らせながら、万札をレジに叩きつけた。
その後、由莉奈は先輩のいるであろうテニスコートには向かわず、まっすぐ帰宅することにした。もしも迂闊に先輩に会いに行って、スキルテイカーに尾行されることを危惧したのだ。あの男と先輩を会わせてはいけない。先輩を守る、というと、また何か妙なニュアンスを感じるが、意味合い的には間違っていない。先輩を、スキルテイカーの手から、守る。
後になって考えるほどに、あの怪物に対する不信感が募る。結局、会話をしてわかったのは、スキルテイカーが才能の鍵|(アビリキィと言っていたか)を集めているということと、チート売りの魔女と相反する思想をしているであろうということくらいか。スキルテイカーはもっともらしい説教をして鍵を諦めるよう言ってきたが、実際のところなぜ鍵を集めているのかは教えてくれなかった。魔女が信頼のおける人物かといえば、そんなこともないが、スキルテイカーも胡散臭い。実のところ、彼も利己的な目的で動いているのではないか、と、由莉奈は疑っていた。
しばらくして、夜になる。日が暮れるずっと前から、由莉奈は部屋のカーテンを締め切っていた。いつからかは知らないが、あの男がいるのだ。
カーテンを少し開いて、由莉奈は外を確認する。電柱の上に座り込むようにして、ボロ切れをまとった人影があった。弱めの風に黒い布がはためく様は妙に悪魔的で、宵闇の中でもギラギラと光る赤い双眸が、それに拍車をかけていた。スキルテイカーは、鍵を受けったもうひとりを探している。それが由莉奈と近しい人物であるとあたりをつけて、接触を待っているのだ。由莉奈はいっそのこと、あの電柱を蹴っ飛ばして、牛鍋丼代の十円を請求してやろうかとすら思った。
思うことは多々あれど、ひとまず先輩への接触の機会が制限されたのは痛手である。それは認めざるを得ない。おそらくスキルテイカーの存在を知らないであろう先輩に対して、何かしらの警告を行っておきたい気持ちが、由莉奈にはあった。
しかし、家の前にあの男が張っているのでは。
携帯のアドレス帳にも、あれだけ馴れ馴れしくしてきた先輩の名前はなかった。
思わず歯噛みしそうになったその時、由莉奈の耳にやかましいサイレンの音が届いた。こんな時間になんだ、と思い、再びカーテンを開いて外を覗く。暗闇の中、目を焼かんというほどに眩しい赤色灯が、アパートの目の前に数台、あった。パトカーである。何かと思えば警察だ。
警官の一人が、拡声器を手にこんなことを言っていた。
『あー、電柱に乗っている君。降りてきなさい』
「俺のことか」
スキルテイカーが不機嫌な声で応じている。
『君以外に誰がいるんだ。君ね。ちょっと付近住民から不審者として通報されてるから。あとそれ、いちおう迷惑条例違反だからね。ちょっと降りてきてもらえる?』
「な、なに? 今はちょっとまずい。事情があるんだ。待ってくれないか」
『事情なら署で聞くからね』
「任意同行か?」
『現行犯だよ』
茅ヶ崎由莉奈が生まれて18年、これほどまでに公権力グッジョブと思ったことはない。チャンスだ。
がっくりとうなだれたスキルテイカーがパトカーの後部座席に押し込まれるのを確認すると、由莉奈は急いで玄関に向かい、靴を履き替え、外に向かって飛び出した。