5-3 『本音』
どうして、おまえがそこにいるんだ。
目の前にいる少女に対して、マサキはそのように思った。彼女がいつも浮かべている、悠然とした微笑、マサキが常に憧れていたあの笑顔はそこにはない。ただ少女は口元を強く結び、強い敵意と軽蔑、そしてわずかな憐憫を込めて、一本の鍵を、マサキに対して突きつけていた。
時間は少し遡る。
マサキは結局、鳥野に直接申し出ることにした。大切な資料を盗み見たことを謝り、そして、自分も研究に協力させて欲しいと言った。鳥野は最初驚いていたが、それでもマサキは、自分の気持ちを話し、頼み込んだ。
ヨウスケも、シュンサクも、レイナも、ユカリも、エイカも。みんな才能があるすばらしい友人たちなのに、自分にはそれがない。もうすぐ自分も施設を出る。その時、胸を張って彼らと肩を並べられるような才能が、自分は欲しい。
最終的に、鳥野は頷いた。いつも施設を訪れるときに見せてくれる、にこやかな笑顔で、マサキを歓迎してくれた。
鳥野の研究は、アビリキィと呼ばれる特殊な道具をもって、人間の隠された才能の扉を拓くというものだった。アビリキィの形状はマサキ達の知るところの〝鍵〟と同じである。最初はからかわれているのか、あるいははぐらかされているのかと思ったが、マサキはすぐに考えを改めた。
鳥野の差し出したアビリキィを身体に近づけると、皮膚が疼いて鍵穴のようなものが開く。そこに鍵を挿入し、恐る恐る回してみると、かちゃり、という音がして、鍵が身体の中に飲み込まれていったのだ。試しに、〝腕力〟のアビリキィを使い、直後に重いダンベルを持ち上げる実験を行なったが、自分の体重の数倍もあろうかという重量を、マサキは軽々と持ち上げてみせた。
〝鍵〟の力は本物だ。マサキは飛び跳ねた。そして鳥野に尋ねた。こんなすばらしいものを、どうやって開発したのかと。だが、鳥野は苦笑して、説明するのはすごく難しいと答えた。ならば、頭の良くなるアビリキィを使ってそからその話を聞きたいと言ったが、結局、その件についてははぐらかされてしまった。
その日以来、マサキの生活は華やいだ。アビリキィを何本も使い、マサキは次々と才能を開花させていく。鳥野をはじめとした研究員たちもご満悦の様子だった。
周囲の友人たちは、マサキの突然の才能の発露に驚いていたが、彼の密やかな苦悩をもとから察していたのか、素直に祝福してくれた。本当にすばらしい友人たちを持った。マサキは胸がいっぱいだった。
そうだ、とマサキは思い出す。先日の、ヨウスケとシュンサクとの会話であった。
あの時、二人は、中学卒業を前にして、意中の相手に思いの丈を打ち明けるという話をしていた。あの時は、及び腰だったわけだが。
今の自分ならば、できる気がする。自信がある。〝彼女〟と釣り合う自信が。そして、ヨウスケやシュンサクと、肩を並べられる自信が。同じ土俵に立てているのだ。絶対に上手くいく、などとは思っていないが、これでダメだったとしても、それはそれであきらめがつく。
自分の才能がないせいには、したくなかったのだ。
『マサキ、』
『うわあっ!』
そう決意した彼の背後からいきなり名前を呼ばれ、マサキは飛び跳ねた。
『な、なんだよ。脅かすなよ……』
『あら、ごめんなさい』
気取った喋り方が似合う少女だった。いつもの調子で切り返したマサキだったが、心臓はバクバクと脈を打っている。
当然だ。今まさに、彼女のことを考えている時だったのだから。
同年代の他の少女と比べてやや背が低く、顔つきもあどけないものだったが、常に落ち着いた態度で、6人のまとめ役だった子である。マサキが気にかけていた少女というのが、彼女だった。ヨウスケなどは、彼女を〝ババ臭い〟などと言って笑っていたのだが、マサキは憧れていた。
『ねぇ、マサキ。もうすぐ卒業ね』
『ああ、そうだな』
『あなたに会えないなんて、寂しくなるわ』
どきりとするが、笑ってごまかす。
『よせよ』
それでも、彼女の顔は見れなかった。
『俺は施設の近所の高校に進学するし、お前だってそうだろ』
『ええ、まぁ、近いといえば、近いわね』
妙に含みのある言い方だが、それだっていつものことだ。
彼女はさらに、爆弾のような言葉を投下していく。
『ねぇ、マサキ、小耳にはさんだんだけど、』
『なんだよ』
『男子たちが卒業前に、好きな女の子に告白するって話。本当かしら』
『ぶっ』
いったいどこから、そんな話が漏れるというのだ。くすくすくす、と鈴を転がしたような笑い声が、肩ごしに響く。この控えめな笑い方も、意地悪な物言いも、マサキは好きだったのだが、この時ばかりは恨めしい。
『それで、あなたは誰に告白するの?』
『そっ、それは……』
だが考えてもみろ。これはチャンスではないだろうか。標的が向こうから来てくれたのだ。加えて、今ならば邪魔するものはいない。
そうだ、言ってしまえばいい。ちょうど覚悟を決めたのだ。マサキは振り返り、その小柄な少女の顔をじっと見つめた。彼女はしばらくの間、小さな笑みを浮かべていたが、改まったマサキの態度を前にして、きょとんとした表情を作る。そのまま、小首をかしげた。こんな顔もするのか、と、マサキは思った。
今だ。言え。言ってしまえ。マサキは何度も口をぱくぱくさせた。喉がカラカラに乾く。目眩すらしてきた。
『……秘密だよ』
そして、出てきた言葉と言えば、これである。マサキは自分に失望するところだった。何が『今の自分ならば』だ。何が『自信がある』だ。結局のところ、眞島マサキはただのヘタレではないか。少女は、またくすりと笑った。いや、これは、笑われたのか?
『そう、わかったわ。マサキ』
『な、何がだよ……』
『また今度、覚悟が決まったら教えてちょうだいね』
またも、どきりとした。ひょっとして、すべて見透かされたのか? だが、それを問いただす勇気すら、マサキにはありはしない。
『わ、わかったよ……』
結局のところ、彼は、そう答えるしかなかった。
時間が、戻る。
どうして、おまえがそこにいるんだ。
目の前にいる少女に対して、マサキはそのように思った。記憶の中で浮かべていた、いずれの表情とも違うものを、彼女は浮かべていた。その手に持った鍵もまた、マサキの身体に埋め込まれた、無数のアビリキィと異なる形状をしたものである。マサキには、何もかもわからなかった。
なぜ、彼女がここにいるのかも。なぜ、彼女がこのような表情を浮かべているのかも。なぜ、彼女がそのような鍵を持っているのかも。
そして、彼女がこれから吐く言葉の意味も。
「マサキ、」
少女は、その奇妙な形状の鍵をマサキに向けて突きつけたまま、こう言ったのだ。
「あなたの、〝業〟を奪う」
◆ ◆ ◆
「どうして、おまえがそこにいるんだ」
目の前にいる少女に対して、ゴミクズはうんざりとした声で言った。チート売りの魔女は、くすりと笑って日傘を回す。
「クライアントのそばに、いてはいけないというのかしら。あなたこそ、こんなところで会うなんて思わなかったわ。スキルテイカー」
「俺はスキルテイカーじゃない」
ゴミクズは顔をしかめて、かろうじてそのように言う。横からショウコが要らん補足をした。
「今はゴミクズっていうんだよ」
「あら、そう?」
魔女は首をかしげつつもそう言う。
「なら、ゴミクズ」
彼女もなかなかに容赦がない。
「笹木チサトに必要以上に干渉するのはやめなさい。あなただって知ってるでしょう? 彼女と同じことを考えていた子がいたのを」
ゴミクズは、ちらりとチサトを見る。
彼女はブロック塀に身体を預け、荒い呼吸を繰り返している。大量のアビリキィを飲み込んだ結果だ。感情の発露により暴走しかけたキィは、再び小康状態に戻っている。だがこれは、駒場の時や榎本博士の時のような、危ういバランスの上に成り立っているものではない。既に彼女は、神業化への一歩目を踏み出しているようなものだった。
次に、ショウコを見る。
ショウコは意外なほど落ち着き払っていた。魔女を見る目に関しても、友人に対する行いを咎めるような色合いを含んでいない。見ていて不安になるほどと言えばそうだが、こうした時パニックにならないはありがたかった。ショウコは、すぐに魔女からチサトに視線を移し、この友人をじっと見つめている。
「干渉する必要がないなら、干渉はしない」
「今回は意外と殊勝ね」
「ただのゴミクズだからな」
だが、と、ゴミクズは言った。
「やはり今回の件は見過ごせない。お前だって、眞島マサキがどういう末路をたどったか知っているはずだ」
「チサトがマサキのようになりたいというのなら、私はそれも止めないわ」
「おまえはっ……!」
「だって、そうでしょう」
魔女の言葉は冷淡である。
「私は、才能を望むものに鍵を与えるだけよ」
この議論だって、果たして今まで何度酌み交わされてきたものだろうか。だが、両者が納得をしたことなど、一度としてない。結論はいつも同じだった。スキルテイカーがゴミクズに代わったところで、それは同じことである。
「ササキ……」
魔女とゴミクズがにらみ合う横で、ショウコが言った。チサトはびくりと肩を震わせる。
「ショウコちゃん……」
「ササキは、ぼくの友達でいたいから、〝鍵〟を使ったの?」
「…………」
チサトの顔は泣きそうだった。すがるような表情。しかし、ショウコの思いを測りあぐね、彼女の手を握れない。何かを口にするだけで、決定的な崩壊を招くことを恐れている、そんな表情。
「私だって、ショウコちゃんに頼って欲しいんだもん……!」
絞り出すように吐き出した言葉を聞いたのは、ショウコだけではない。魔女も、ゴミクズも、黙ってそれを聞いていた。
「友達なのに、大切な友達なのに! 私だけショウコちゃんに何もしてあげられないなんて、そんなの、嫌だよ! だから……」
「本当にそれだけ?」
「そ、それだけだよ……」
「うーん……」
緊迫した空気の中で、ショウコの唸り声だけが呑気だ。チサトの身体から、また鍵が溢れ、ちゃりんと落ちる。
ショウコが何を考えているのか、ゴミクズにもわからない。彼女は、友人が自分の為にアビリキィを使っていると聞き、どのような行動を取るのだろうか。チサトの独りよがりと言えばそうだ。だがそれをばっさりと切り捨てられるような子では、ショウコはないはずである。
ゴミクズは、ショウコの頼みでここまで来た。ショウコの友人であるチサトを助けるためにここまで来た。だがもしショウコが、チサトがそのままでいることを良しとするのなら、ゴミクズは目的を見失う。鍵を奪う必要なんてなくなる。
当然だ。ゴミクズはゴミクズである。スキルテイカーではないのだ。
もっと言えば、魔女と張り合う理由だって、彼にはない。
「………っ!」
空気に耐えかね、真っ先に背を向けたのは、やはりチサトだった。ゴミクズは何も言えないし、何もできない。しかし、ショウコにだって何ができるだろうか。彼女はふと、ゴミクズのほうに視線をやった。ガラス玉のように澄んだ瞳だが、奥行きが深くて何も読み取れない。ゴミクズは、反射的に目をそらす。
何かを見透かされるような気がしたのだ。
ショウコは、どこか〝彼女〟に似ている。
こちらに背中を向けたチサトは、そのまま一気に走り出した。体調がすぐれないといったところで、アビリキィによって引き出された才能はかなり高い水準で定着している。あっという間に笹木チサトは、夕暮れの町並みに消えていった。
「ゴミクズ、あなたはスキルテイカーではないのでしょう」
魔女は不意に、そのようなことを言った。
「では、アビリキィに固執するのはやめなさい」
「何を……」
「優しいあなたには、土台無理なことだったわ」
その声音には、彼が長らく聞いたことのない不思議な色合いがにじみ出ていて、ゴミクズはどきりとする。チート売りの魔女が、決してスキルテイカーには向けたことのないものだった。どこか、安堵の色に似ている。寂しさの色にも、似ている。
「才能のないものに才能を配るべきだというのは、眞島マサキの言葉ではなかったかしら」
結局のところ、ゴミクズには限界があった。
彼が望んでいるのは、ショウコのチサトの幸せであって、彼女たちの望んでいないことはできない。アビリキィを奪うことが、チサトにとって果たして本当に正しいことなのか、ゴミクズにはわからないのだ。彼は多くの事例を知りすぎてしまったし、そしてなにより、彼のよく知る眞島マサキという少年が、
眞島マサキという少年が、あのような道を辿ったことだって、結局は鍵を失ったことが切っ掛けだったのだ。
魔女は、それ以上何も言わなかった。やがて彼女もふっと姿を消し、ゴミクズとショウコだけが残される。
「追わないのか……?」
「んー……」
ゴミクズは、かろうじてショウコにそう尋ねた。曖昧な返事をする彼女を、強く睨みつける。
「友達なんだろう! 大切な! 友達なんだろう!」
「うん、きみもね」
ショウコはあっさりとそのように答えた。
「ササキもかなり大変でほうっておけない状況だけど、ぼくから見ればきみも大差ないのだよ」
「何を……」
透明感と奥行きのある瞳で見つめられては、ゴミクズはそれ以上言葉を発せられない。
「ま、とりあえず話してみ? 楽になるかもしんないヨ?」
公園に逃げ込んだチサトを真っ先に襲ったのは、深くて昏い後悔の念だった。
言うまでもなく、雨宮ショウコの件である。きっと、軽蔑されただろう。倒れこむようにしてベンチにすがりつき、荒い呼吸を繰り返すチサトの身体からは、精神との結びつきを失ったアビリキィがぼろぼろとこぼれ落ちて行く。
我慢できなかったのだ。許しておけなかったのだ。何よりも、無能なままの自分を。ショウコの友達でいるからには、突出した才能の秘めた人間であろうとした。しかし、チサトはどこまでも無力で平凡な少女であった。
チサトの心が、強く、深く濁っていく。
「無様ね」
背後からそのように言われた。振り返る。魔女だ。
「………」
「そんなにたくさんの鍵を飲み込んでいたら、気づかれそうなものだって、言ったじゃない。まして、勘が良い子なんでしょう? あなたの友達は」
友達。まだ友達なのだろうか。ショウコは。
「あなたはどうしたいの? クーリングオフは受け付けているわよ」
「私は……」
チサトは自問する。果たして、どうなのだろうか。ここで『鍵を返す』という選択肢は、存在するのだろうか。
答えは、ノーだ。
チサトは鍵を捨てられない。ショウコがどのように思っていようとだ。ショウコはそれを望んでいないかもしれないが、何故か、チサトはそう考えていた。自分の感情の裏側にあるものに、チサトはまだ気づいていない。ただ、鍵を、才能を捨てられない。
「あの、五味くんは……」
答えの代わりに出てきたのは、そのような言葉だった。魔女の表情が変わる。
「何かしら」
「あの、お知り合い……なんですか?」
「そのようなものだわ」
あの男の顔を思い浮かべるたび、心の中で妬ましさが増殖する。彼は、ショウコに頼られていた。友人としてだ。自分がどれだけ鍵を求め、才能を得たところで、あのポッと出の男にも、信頼度で勝てないというのなら、これほどに屈辱的なことはない。
なぜ、あの男が頼られるのか。
あの男は持っているからだ。自分にはなく、そしてまた、他の人にはない唯一無二の力を。
そんなの、チートだ。
「私も、なれますか。五味くんみたいに」
「オススメはしないわ」
魔女はこちらに背を向けて言った。レースのついた日傘がくるくると回る。
「でも、なれるかなれないかと言えば、なれるわね」
あまり気乗りしていないようなアンニュイさを込めて、チート売りの魔女はそう呟いた。
「ふーん、いろいろあったんだねぇ」
すべてを吐き出している内に、日が暮れてしまった。ゴミクズとショウコは、ブロック塀に背中を預けて、ジュース缶を片手に空を眺めている。中学のブレザーの着心地は、ゴミクズにとって妙な違和感があった。
ゴミクズは、今まで鍵に関与した様々な人間のことを語った。例えば不二崎父娘や、駒場圭介や、榎本霧子だ。スキルテイカーという男は、それが正しいことと信じて、鍵を奪い続けてきた。だが、上に挙げたいずれの例においても、スキルテイカーの行いは彼らを幸せにはしなかった。
幸せは彼の行いとはまるで無関係のところで築かれたり、彼がどう手を施しても幸せにはならなかったり、あるいは、彼の行いが周囲の人々に不幸を振りまいたりした。
いったい何が正しかったのか、ゴミクズにはわからない。
だから彼はゴミクズとなった。スキルテイカーは、誰かを幸せにはできないのだ。自分が正しいと信じていることを、周囲に押し付けるだけだった。
「きみは、」
ショウコは、カラのジュース缶のプルタブを弄びながら、口を開く。
「誰かを幸せにしたかったの? それとも、正しいことをしたかったの?」
「どういうことだ」
「誰かを幸せにすることは常に正しいことじゃないし、正しいことが常に誰かを幸せにするわけじゃあ、ないということだよ。きみが、スキルテイカーでも、ゴミクズでも、他の誰かでも、ぼくにとってはきみだから、いいんだけど、」
そこで、ショウコは一旦言葉を区切る。
「〝きみ〟は、どうしたかったの?」
「俺は……」
どうしたかったのだろう。目を閉じて起源を探る。
ゴミクズから、スキルテイカーへ。そしてもっともっと昔の自分へ。今は亡き少年の名前にまで遡る。
少なくとも少年は、鍵を奪うことを良しとするような人間ではなかった。才能に欠如した自分のことを嫌い、疎んじ、誰よりも優れた人間になること欲した。優秀な友達と並び立つために。もちろんそれはある。だが、本心は常に別のところにあった。気づいたのは、研究所でのことだ。
人はみな、業突く張りな魔物である。
そうした意味で、彼はどこまでも人間だった。
人間でなくなったのは、人間の心がわからなくなったのは、
もっと言うならば、そのように自分に強いるようになったのは、いつからだろうか。
「………」
ああ。
「思い出した?」
「思い出したくは、なかった」
ゴミクズはきっぱりとそう告げた。
網膜の裏に焼き付いた、少女の姿がある。長い年月をかけ、焼き付いたその姿でさえも風化していたが、彼女の想いだけは残しておかなければならなかった。雪のような冷たさと、清廉さを持った少女だった。
「結局、俺は、あいつみたいになりたかったのかなぁ……」
「憧れてる人がいたんだ?」
「いたけど、もういない。俺が殺したんだ」
「へー」
本来衝撃的なその発言も、ショウコにはそよ風のようなものだったらしい。
「で、〝きみ〟は、これからどうするの? ゴミクズとしてぼくに協力する? スキルテイカーに戻る?」
黙りこくる彼に対して、ショウコの言葉は容赦がない。
かつての少年は、言うまでもなく鍵を欲する側の人間だった。彼らの気持ちを痛いほど理解していた。ゴミクズだってそうだ。ただひたすらに心を封殺し、奪い続けてきた成れの果てが彼である。ショウコの頼みならと引き受けた。大切な友人が、助けて欲しいというから、助けるつもりだった。助けさせてもらう、つもりだった。
だが結局のところ、彼ができることとはなんだったのだろう。
チサトを見たとき、魔女と相対したとき、彼は何をしようとしただろう。
彼ができることなど、ひとつしかなかったのではないか。
例えそれが、誰かの望まない選択であったとしても。彼は、ぽつりと言葉を吐いた。
「スキルテイカーは、」
「うん」
「誰かを幸せにしたりしない。お前と笹木だって」
「うん」
「でも、俺は、」
「うん」
「ごめんな、ショウコ」
「自惚れないように」
謝罪への返答はぴしゃりとしたものだった。
「人間の幸せは、才能なんてちっぽけなモノの有無で決まったりはしないのだよ。チサトのことは、ぼくに任せておきたまえ」
その言葉は、今まで彼が触れてきた多くの人間にとって、納得できるものではなかったかもしれない。だがそれでも、〝彼〟にとっては、いくらかの救いになった。ショウコが強い子でよかったと、心のそこから思った。
あるいは、かつてこのように言葉さえあれば、
自分も、彼女も、今のようになることはなかっただろうか。
考えるだけ、無駄なことだろう。
「きみが手伝ってくれるって言った時はね、嬉しかったよ」
「ああ」
「でも、きみがやりたいようにやるっていうなら、ぼくはその方が嬉しいから、」
「ああ」
「じゃ、いこっか」
「……ああ」
ぶわり、とボロ布が翻る。夕暮れに染まる歩道を並んで歩く二人の姿は、少女と、怪物であった。
「どうして、あなたがここにいるのかしら」
魔女は不機嫌も露わにそう呟く。
魔女とチサトが公園にいるという情報は、すぐに伝わった。ショウコの友達2、3人に連絡すれば、おおよそ5分もしないうちに目撃情報が帰ってくる。大した情報網であった。
魔女の言う『あなた』とは、間違いなく自分のことだろう。そしてそれは、ゴミクズではない〝彼〟がそこに立っていることを示している。それはそうだろう。魔女にとってゴミクズは同情の対象であり、厳しい言葉をかけても決して敵対する存在ではなかった。そいつは、鍵を欲したかつての少年と大差ない存在であったからだ。
だがあいにく、もう違う。
公園のベンチに腰掛けて、チサトはうつむきながら荒い呼吸を繰り返していた。〝彼〟はショウコを見る。ショウコはもう、〝彼〟を見なかった。彼女の透明感のある瞳は、今やチサトにのみ向けられている。それでいい。〝彼〟は背中を押してもらった。次はチサトの番だろう。
ここに向かう途中、チサトの〝本音〟について語り合った。
大切な友達と、対等に付き合えるように。笹木チサトは鍵を求めた。その気持ちが嘘でないことは、眞島マサキが知っている。だが、同時にそれだけではないことも〝彼〟にはわかっていた。ショウコは気づいているのか、と尋ねると、
『まぁねー』
とだけ答えた。
『気づいていないのは笹木だけか……』
『自分の気持ちなんて、案外一番わかんないもんだよネ』
ほかならぬ自分がそうであったので、〝彼〟はぐうの音も出ない。
ともあれ、チサトの〝本音〟にショウコが気づいているならば、それこそ〝彼〟がしてやれることなど、皆無に等しい。〝彼〟のやることはひとつだった。
「おまえが、そこにいるからだよ」
長い長い沈黙を経て、魔女の問いに答える。
「そう。タイミングが最悪だったわ」
そう言って、魔女がすっと一本の鍵を取り出した。〝彼〟はハッとする。
隣に立つ男の態度の変化を、ショウコは敏感に感じ取ったようだが、彼女はチサトから視線を外さなかったし、ひとことも発さなかった。
魔女が取り出したのは、他のアビリキィとは明確に形状の異なる一本だ。それが何であるのかを〝彼〟は知っている。まったく同じものが、自分自身の身体の中にも埋め込まれているからだ。胸元を抑える。だが、それは、その鍵は。
「マスターキーよ」
魔女は冷たい表情で告げた。
「驚くことではないでしょう。私がそれを持っているのは、知っていたはずよ」
「三本目はないぞ」
「そうね」
ちらり、とチサトを見る。
まだ呼吸は荒いが、身体の中に収めたアビリキィの調子は安定している様子だった。魔女は、この状態を待っていた。タイミングが最悪というのが、そのことであるとすれば。
「私は言ったわね。チサトがマサキのようになりたいというのなら、それも止めないって」
「やめろ」
真紅の双眸が、感情の高ぶりに応じて更に不気味な発光を見せた。
一歩、踏み出す。魔女は表情を変えず、しかし明確な敵意をもってこちらを睨んだ。
二歩目に迷いはなく、三歩目からは瞬足だった。公園の砂を蹴り、身体が加速する。ボロ布が風に翻る。
それは、〝そんなこと〟だけは、させてはならない。
彼がスキルテイカーであるか、ゴミクズであるか、あるいは眞島マサキであるかなど、この一点においては何の関係もない。いずれであったとしても〝それ〟だけは、彼にとっては許容しがたい行いであった。魔女は、目の前で走る、鬼の形相をした怪物を、自らの手でもうひとつ作り出そうというのだ。
「邪魔はさせないわ」
魔女の周囲に青白い炎が浮かび、数本の鍵が現出した。魔女が空いた片手を振るうと、アビリキィはそれぞれ、別の方向へと飛んでいく。一本は滑り台に、一本はジャングルジムに、一本はブランコに、命を持たないはずの〝それ〟にいとも容易く突き刺さり、あるはずのない〝才能〟の扉をこじ開ける。
「ショウコ、隠れていろ!」
振り向くことなくそう叫んだ。鍵を突き立てられた三つの遊具が、瞬時に異形と化していく。それはまさしく、伝承にうたわれるゴーレムであった。〝才能〟を生かすためのカタチに姿を変えて、それを振るうために暴れる。進路上に出現した〝彼〟は、神業達の格好の獲物だった。
そうこうしている間にも、魔女はマスターキーをもってチサトに近づく。
「よせ、魔女!」
神業達はいずれも格闘技の才能を開花させられたモノたちだった。強引に押さえつけられ、〝彼〟はそれ以上進めない。
「くそっ、やめろ!」
理解ができない。なぜ魔女はマスターキーを手放すことを良しとするのか。望むものに才能を与えるのが自身の役割だと公言していた。それは、いい。眞島マサキが望んだことなのだ。賛同はできないが、理解はできる。
だがそれだって、マスターキーを手放せばそれまでのことだ。チサトがマサキのようになりたいと望んだとしても、それは、魔女が手伝うべき領分を超えてはいないだろうか。
ひょっとしたら、彼女ももう、わからなくなっているのではないか。
マスターキーが、ぐったりとうなだれたチサトに向けられる。いびつな空間の歪みが生じる。もはや、猶予はなかった。
「エイカ! やめてくれ!」
ぴくり、と、
魔女の腕が止まった。ほんの一瞬だった。だが、その一瞬だけで十分だった。
「ま、マサキ……」
魔女が顔をあげてこちらを向く。〝魔女〟のこのような顔を見たのは、初めてだった。あらゆる理性の冷たさを排した、弱いだけの少女が、一瞬だけさらけ出される。
だが、
体内に宿した〝強奪〟のアビリキィを活性化させる。〝彼〟は、神業達の猛攻をすり抜けた。この瞬間だけは彼は、奪うことに特化した怪物となる。ほんのわずかな躊躇は、永遠にも等しい隙であった。〝彼〟は、魔女の手からマスターキーをかっさらう。
「ああ、悪い……」
鍵の活性化を押さえ込み、務めて平坦な声でそう告げた。
「杉浦エイカは、もういない。俺が殺したんだった」
「あなたって……!」
チート売りの魔女は叫んだ。吐き捨てるかのようにだ。それはまさしく、彼女が初めて見せた感情の発露であり、あるいは、極めて〝本音〟に近い言葉であった。
「あなたって、本ッ当に最低だわ! スキルテイカー!」
「そんなの、お互い様だろう」
彼はマントを翻し、その手に握ったマスターキーを突きつけて、魔女に対してかチサトに対してか、このように告げた。
「俺は『スキルテイカー』。おまえの、〝業〟を奪う」
明日もお休みします。




