5-1 『記憶』
眞島マサキは、落ちこぼれだった。
マサキが両親を亡くし、〝かがやきの家〟に入所したのは、彼がまだ5歳の頃である。
岩戸財団の総裁、故・岩戸剛三氏の遺志によって創設された児童養護施設〝かがやきの家〟には、当時マサキを含めて十数人の児童がいた。彼らはみな、一様に同じ年頃の少年少女であり、不幸な事故や両親の虐待から施設への入所を余儀なくされた者ばかりだ。職員たちはみな人格者であり、常にマサキ達の心のケアをしてくれた。いつしか、マサキ達は互いを新しい家族として、認識するようになっていた。
だが、それでもマサキには、常に劣等感があった。
例えば、特に仲のいいヨウスケだ。彼はサッカーが非常に上手だった。シュンサクは頭がよく、まあ意地は悪かったのだが、将来は法律関係の仕事をしたいと言っていた。彼ならばできるだろうな、と思っていた。レイナは音楽関係ならなんでもできたし、ユカリは料理が上手だった。エイカは、特筆するべきものはないが、たいていのことはなんでもできた。
マサキには、何もなかったのである。
いや、ひとつだけ得意なことがあった。ものを盗むのが上手かったのである。
とうてい、誇れるようなことではない。このことは誰にも話さなかった。
施設の仲間たちは優しかった。だが、それがことさらにマサキの劣等感を刺激する。自分は果たして、彼らの友人として釣り合う存在なのだろうか。いつしか劣等感は、焦燥感へと変わっていった。もっと立派な自分にならなければいけないと、思うようになっていた。漠然とした願いである。
だが、願いは叶わぬまま月日は流れ、マサキ達は中学生になっていた。
周囲の仲間たちは順調に才能を開花させていく。〝かがやきの家〟は、義務教育の終了後も、奨学金という形で進学をアシストしてくれるということもあり、彼らは互いの夢を語り合っていた。マサキにだけは夢がなかった。
語り合う夢を持たなければならない。夢に見合う才能がなければならない。
ところで、〝かがやきの家〟には二人の責任者がいた。
光田と、鳥野である。彼らは岩戸財団の資産管理を任されており、時折施設に顔を見せては、入所した子供たちにプレゼントを持ってきてくれた。子供たちは、みな光田と鳥野になついていた。もちろんマサキとて同じである。
光田と鳥野は、二人でいるときいつも難しそうな話をしていた。彼らの本職が研究者であることはおぼろげにわかっていた。大量の紙の束とにらめっこして、研究内容について懸命に議論を戦わせているのを、マサキは遠くから眺めていた。
ある日のことである。
光田と鳥野はいつものように施設を訪れ、中学の卒業を間近にしたマサキ達に祝いの品を持ってきた。〝かがやきの家〟の仲間たちは卒業後の進路を定め、マサキもまた、幾つかの高等学校の入学試験をパスしていた。
それでもやはり、マサキの才能は平凡であり、特定の分野に突出した友人達には、密かな劣等感を持っていた。
用事を済ませ、光田と鳥野が帰った後、マサキは彼らの忘れ物と思われる一枚の書類を発見した。施設の大人に渡して返しておかないと、という気持ちは、書類に書かれた文面を目にした時に霧散した。
『新能力開拓計画』
責任者は鳥野誠一とあった。
◆ ◆ ◆
ショウコには悪癖がある。捨て猫や捨て犬を放っておけないのだ。もちろん、雨の日にダンボールの中でミャアミャア鳴く子猫を見捨てられるような冷血人間もそうそういないだろうが、ショウコの場合はいささか度を逸していた。
もう卒業してしまった中学の先輩は極度の博愛主義者で、人間と見れば愛情を振りまかずにはいられない、いささか常軌を逸した性癖の持ち主であった。ショウコもあのようにはなれない。が、先輩のそれよりかなり薄めた感じの愛情を、人間以外にも平等に分配しようというのだから、傍から見ると意外に大差のないものであったかもしれない。
ともあれショウコには悪癖がある。
犬猫など飼っていられない経済事情なのはわかっているので、彼女にできることと言えば、その可能な限りのコネを使って里親を探してやるくらいなものだったが、ショウコが今回見つけたそれは、今までといささか事情が違っていた。
ショウコは学校の帰り道、スーパーで牛乳パックと惣菜弁当を買った。経済事情が苦しいとは言ったが、実は彼女が自由に使える金銭ならば同年代の子達よりも少しばかり多いのだ。あとはスニッカーズとか、カロリーメイトとか、それなりに日持ちしそうなものを適当に見繕って、スーパーを出た。
「おうっ、ショウコちゃん! 今日も元気そうだね!」
帰り際、精肉コーナー担当のおじさんがニコニコと挨拶をしてくれる。
「うん、元気だよー。ありがとー!」
「今度おじさんが中にいるときに寄ってくれよ!」
「考えとくー!」
ひらひらと手を振ってスーパーから離れる。軽快なスキップで商店街に入る。ブレザーのスカートが元気よく飛び跳ねた。
「おぉ、ショウコちゃん。最近顔見せてくれないから寂しいよ!」
「どうだいショウコちゃん、いい魚が入ってるんだよ」
「ショウコ、パンの耳が余ってるんだが、持っていかないか……?」
商店街でもこのような感じだ。見ればわかる通り、ショウコは人気者であった。
そうあろうとした努力の結果では、ある。人脈は財産だ。ショウコは十数年の短い人生でそれを身にしみて知っている。だからショウコは人気者だった。それを鬱陶しく思ったことなど一度としてないし、ただツテの恩恵を享受するだけの毎日でなく、相応のお礼は欠かさずにしている。
友達100人できるかな、という歌詞がどこかにあった。ショウコはあれが好きだ。彼女の場合、100人では足りないが。みんなで山のようなおにぎりをぱくついてみたいとは、いつでも思う。
さて、そんなショウコが、最近毎日、下校途中に足繁く通っているのが、とある土手にかけられた橋、
の、下である。
ダンボールでガッチリと塞がれ、おそらく中にはホームレスかそれに類する人種が生活しているのだろうと想像させる空間である。まかり間違っても、学校帰りの女子中学生が立ち寄るような場所ではない。それでもショウコは物怖じせずに声をかけた。
「おーい、いるー?」
ショウコが呼びかけると、ごそごそと音がして、異様な風体の男が姿を現す。
ボロ布をまとった男の双眸は、怪異めいた紅い光を宿していた。頬はこけ、目の下にクマができ、傍からみて明らかに憔悴しきった様子である。指先の鉤爪はやたらと鋭利で、男ではあるが人間ではない、と言った印象を与えていた。そう、男は怪物であった。
「ショウコか……」
「どう、その生活にも慣れた? スキルテイカー」
「やめろ」
男は、ダンボールハウスの中に顔を引っ込めてしまう。中からくぐもった泣き言が聞こえた。
「俺はもうスキルテイカーじゃない。ただのゴミクズだ。女子中学生のヒモとなって生きるしかない、哀れな社会不適合者なんだよ……」
「えっと、じゃあ、ゴミクズ。今日のご飯持ってきたけど」
「そこに置いといてくれ……」
さて、ショウコには悪癖がある。捨て猫や捨て犬を放っておけないのだ。
例えそれが都市伝説にうたわれる、才能を奪う異形〝スキルテイカー〟であったとしても、橋の下で雨に濡らした身体をガタガタと震わせていたのならば、ショウコにとっては同じことだった。タオルを与え、カップラーメンを与え、栄養が偏らないようにコンビニのサラダを与え、かくして彼女には奇妙なペットが出来た。
スキルテイカーの身に何があったのか、ショウコは知らない。ただ、彼はひどく傷心していた。相当イヤなことがあったのだろうな、と彼女は思う。ショウコだって、イヤなことのひとつやふたつは経験してきた。だから、ここで悩みの相談に乗ってあげることが、必ずしも優しさではないことを知っている。放っておかれたい時もある。今のスキルテイカー改め、社会不適合者のゴミクズは、そうした状況にあると見た。
相談に乗ってほしいことは、むしろショウコの側にある。
「あのさー、ゴミクズ」
「なんだ」
ダンボールの壁の前に座り込んで、ショウコは口を開いた。
「ぼくの友達のことなんだけどね?」
「悩み相談か。ショウコの友達はいっぱいいると聞いたぞ」
「うん、そのいっぱいいる中のひとりのこと」
ゴミクズはダンボールの壁に引っ込んだままだが、言葉だけは律儀に返してくれる。
「クラスメイトの子なんだけど、最近、様子がおかしくてね?」
「春なんだ。様子がおかしくなる時くらいある」
「その子、すごく優しくて良い子なんだけど、運動とか勉強とかが、それほどできる子じゃなくてね」
「そういう子はたくさんいる。仲良くしてあげてくれ」
「ぼくなりにしてあげてるよ。でも、その子、最近急にいろんなことができるようになってね」
ショウコがそう言った途端、ダンボールの壁の向こうの空気が一瞬だけ変化した。だがすぐに、もとのジメジメと弛緩したものへと戻り、やがてゴミクズが曰く、
「いいことじゃないか」
「それだけならね」
しかし、ショウコの悩みはそこで尽きない。
「なんかそれ以来、その子がすごく苦しそうにしているときがあってね。ぼくが、どうしたの、って聞いても、なんでもないよ、って言うの。なんでもないわけ、ないのにね」
「…………」
「ぼく、こういう時には本当に無力なんだなぁって。大切な、友達なんだよ?」
「…………」
ゴミクズは何も言わなかった。ダンボールの向こうに姿を消してしまった怪物が、何を考えているのか。ショウコには想像もつかない。
「たくさんいる友達の中の、ひとりなんだろ?」
「そうだよ。大切な大切な、ひとりだよ?」
「…………」
ゴミクズはまた、黙り込んでしまう。
ショウコは、なぜこんなことをゴミクズに話したのか。自分ではだいたい分析がついている。このゴミクズならばあるいは、自分の悩みを打破する手助けをしてくれるのではないか、と、期待しているのだ。ショウコは、そうした嗅覚が非常に発達している。
相談をする相手ならばいくらでもいた。頼れる大人ならばいくらでもいた。だが、この件を相談するならば誰か、ということを考えたとき、ショウコの本能はこの怪物であると告げていた。それはおそらく、ショウコの持つ才能の一環であったことだろう。
ショウコは、辛抱強く答えを待った。
「ショウコ、その子が不幸になったら哀しいか?」
「うん、哀しい」
「その子が元気になったら、おまえは嬉しいか?」
「うん、嬉しい」
「じゃあ、ショウコ、」
ダンボールの壁の向こうで、次の言葉が放たれるまでには、いささかの逡巡があった。
「俺がおまえの友達をなんとかする手伝いをすると言ったら、おまえは嬉しいか? それとも、余計なお世話か?」
その言葉を聞いた瞬間、ショウコは、彼が負った心の傷の一端を理解する。
理解してしまえば、ショウコの中からあらゆる打算が霧消する。この怪物がいったい何を言って欲しいのか。どうされることを求めているのか。ショウコは知ってしまう。そして多くの場合において、ショウコは〝友達〟を大切にする。
「うん、嬉しいよ」
それからまたしばらく、沈黙があった。
ダンボールの壁が開き、中から再び、真紅の双眸を宿した怪物が顔を覗かせる。先ほどより、少しばかり元気が出たような顔つきで、彼はそのまま〝こちら側〟に出てきた。ゴミクズ氏が、のそりと立つ。
彼は、ショウコを見下ろして、ひとことこう言った。
「じゃあ、手伝う」
校舎の片隅、滅多に誰も立ち寄ることのない3階奥のトイレに、彼女はいた。呼吸は荒く、鏡に映った表情にも疲労の色が濃い。少しばかり無茶をしすぎた反動が、ここにきて出てしまっているようだ。びっしりと汗をかいてしまっている。情けない。
今は何時だろう。もうホームルームが終わってからだいぶ時間が経ってしまった。ああ、今日も一緒に帰れなかなったな、という後悔が、じわじわと這い上がってきた。あの子の友達として釣り合うように、釣り合えるように、こんな苦しい思いをしているのに、これでは本末転倒だ。
鏡に対して自嘲気味の笑みを浮かべる。そしてふと、自分の背後に映る少女の影に気づいた。
振り返る。学校指定のブレザー制服ではない、黒いゴシックロリータ。室内だというのに、丁寧に日傘を差した小柄な少女であった。青い瞳の中には、どことなく周囲を突き放したような、冷たさが滲み出している。
「調子は、あまりよくないみたいね」
〝魔女〟はぽつりと、そのように言った。
「今日こそは一緒に帰るつもりだったようだけど、どうしたのかしら」
「ショウコちゃん、勘がいいから、具合が悪い時だと見透かされちゃいそうで……」
「ふぅん……」
彼女の言葉に対して、魔女の反応はそっけない。
それでも、彼女にとって魔女は恩人だった。才能に飢え、焦り、劣等感と焦燥感だけを募らせていた彼女に、手を差し伸べてくれたのが魔女だった。それは苦痛を伴うものではあったが、彼女は耐えた。いや、今もなお、耐えている。
すべては友情に報いるためだ。
あの子の友人としてふさわしいだけの、才能と実力を得るためだ。そうしなければ、対等の関係など築けないと、そのように思っていた。
「あなたによく似た子を、知っているわ」
魔女はぽつりと言った。
「え?」
「気立てのよい友人への劣等感から、才能を欲しがった子がいたの。私は愚かだと思ったわ。そんなことする必要、ある? 才能なんかなくても、友人たちは彼への友情を忘れたりなんかしない」
「そんなの、わからないじゃないですか」
応答する声が震えている。冷え込んだ魔女の瞳を、鏡越しにでも見ることはためらわれた。
「ショウコちゃんの友達の話を聞くんです。あの子、学校じゃないところにもいろんな友達がいて、みんな、凄い人なんです。でも、私には何もないじゃないですか。怖いんです。私は……」
「嘘つき」
「えっ……?」
彼女は顔をあげた。鏡の向こう側で、魔女は視線を逸らしている。だが、魔女はそれ以上何も言わなかった。振り返って、魔女が呟いた言葉の意味を直接言及しようかとも思ったが、心のどこかにいるもうひとりの自分が、それを押しとどめる。
代わりに出てきたのは、このような問いだった。
「あの、その子はいま……どうしてるんですか?」
「死んだわ」
魔女はふっと口元を緩めて、曰く。
「〝眞島マサキ〟は、私が殺したのよ」