4-5 『命』
「っあー、しんど!」
研究所の塀に背を預けるようにして、輝はアスファルトに座り込んだ。彼女の手には、2リットルペットボトルのスポーツ飲料がある。いつも飄々とした顔には、どことなく疲労の色が浮かび上がっていた。全身汗だくで、ペットボトルの蓋を外すと、口をつけて勢いよくあおる。喉元が多量に流れ込む水分を歓迎した。
日はとっぷりと暮れてしまい、街灯だけが夜道を中途半端に照らしている。歩く人の気配はなかったが、代わりにぐったり倒れ込んだ人間たちが、塀に沿って並べられていた。みな、一様に衰弱している。門の前でふんぞり返っていたガードマンもその中に加えられていたが、彼は口うるさく輝の行動を咎めようとしたので、ちょっと返り討ちにしてしまっただけだ。いずれも、命に別状はない。
原因にはおおよそ、見当がついていた。
榎本博士の使用しているアビリキィ。あれが、一度死の淵に陥った彼女を蘇生させたものであるとすればだ。〝生命力〟の才能を過剰に開かれた人間が、どのような神業を発揮しようとするかである。神業とは、あらゆるものを犠牲にしてでも、その才能を発露しようとする怪物だ。力を周囲に誇示することがその活動原理である。
おそらくは、周囲の生命力を吸収してでも、自らの力を維持しようとするのではないか。結果がこれだ。研究所にいたすべての人間は、知らず知らずのうちに生命力を吸われていた。生きる力そのものを奪い取られていたのである。輝自身、危うく神業のおやつとして美味しく頂かれてしまうところであった。
テレポートを駆使し、中から職員たちを運び出すのには、そうとうな苦労を要した。が、やった。放置しておけば、彼らが生命力を吸い尽くされるのは火を見るよりも明らかだった。事実、施設内の植物などはほぼほぼ手遅れであったし、ネズミや虫などの死体はいくらでも見かけた。あのままバタバタと死なれては、さすがに目覚めも悪い。
スキルテイカーは、
輝は、スポーツ飲料を一気に飲み干しながら思った。
スキルテイカーは、果たして鍵を奪えるだろうか。奪ってもらわなくては困る。このまま神業化した博士を放置されては、今後生命力の吸収規模を際限なく広げられては困る。仮に博士が、神業を制御し、キーホルダーになる可能性があったとしても、同じことだ。スキルテイカーは、己の掲げる正義のために、生命を吸い尽くす魔物の存在を許してはおけない。その魔物が、自らの正義のもとに庇護するべき対象であったとしても、同じことだ。
問題は、スキルテイカーがどこまで非情になれるかだろう。最近の彼は安定性に欠けるように見えた。元から、どこか見ていて心配になるような不安定さがあったのは事実だが、今日のスキルテイカーは余計に酷い。原因となった事件があるらしいのは輝の目から見ても明白だったが、それ以上、彼の心に踏み込むのは自制したので、結局のところは何が理由なのか、わかっていない。
輝が、イライラを持て余し始めた頃だ。
かつ、かつ、とアスファルトを叩くブーツの音が、彼女の耳に届いた。顔を上げる。街灯に照らされて、全身をゴシックロリータ・ファッションに身を包んだ小柄な少女が、ゆっくりと歩いてくるのが見えた。
「あら、ごきげんよう」
少女が言った。
「……どうも」
輝は応じた。
「スキルテイカーなら、中ッスよ」
「ありがとう。あなたは、彼のお友達?」
「知り合いッス」
これが、チート売りの魔女だ。輝は思った。会うのは初めてだが、実際会ってしまえばなんのことはない。ただの小柄な女の子である。ただ、厭世的な笑みの中ににじませた、余裕ぶった表情がこちらのイラ立ちを加速させた。
博士に鍵を手渡した張本人であることは、輝のサイコメトリーによって調べがついている。なんでそんなことを、という問いは、無意味なものだろう。博士が必死で生きたいと願ったから。理由としてはそれだけに違いない。
「ここにいる人たちを、連れ出したのはあなた?」
塀の前でぐったりとしている職員たちを眺めて、魔女が尋ねる。
「ええ、まぁね。おかげさまで疲れました」
「そう。まぁ、犠牲者が減ったのは喜ばしいことかしら」
魔女が何を考えてそのようなことを口走ったのか、いまいち読めない。心を読もうかとも考えたが、疲労感の方が先に立ってそんな気力はわかなかった。
「スキルテイカーは、鍵を奪えると思う?」
「どうッスかね」
更なる問いである。輝は、自らの期待とは裏腹に、慎重な答えを返した。
「ただ、奪えたにしても奪えなかったにしても、あのままじゃ、まあ、あいつは終わりじゃないスかね」
「そうね」
魔女の表情から、一瞬笑みが消えた。街灯が照らす夜道のアスファルトに彼女が残した三文字は、感情のにじまない荒涼とした響きを持っていた。
想定できなかった事実では、なかったはずだ。
混乱する頭の中で、スキルテイカーはそのように思考した。
想定できなかった事実では、なかったはずだ。ただ、意図的にその可能性を考えなかった。今の自分には、荷が重すぎる現実。解決し得ない問題を抱え込むことを恐れていた。しかし、事実は厳然としてそこにある。榎本霧子は、生命力のアビリキィによってその命を繋いでいる、いわば生きた死人に過ぎない。
鍵は、回収しなければならない。鍵を奪うことはそのまま、榎本霧子の命を奪うことを意味する。
「贅沢ですよね」
博士は、再び椅子に腰掛け、論文の夢中になっていた。
「なに……」
「一度死んでしまったものを生き返らせてもらって、まだまだ生きたいなんていうのは、贅沢です。わかってるんです。私も。だから、この鍵は最後には、お返ししなければならないかな、って、そう思っています」
「博士……」
スキルテイカーが歩み寄ろうとすると、彼女はぴしゃりと言う。
「でも待っていてください」
その言葉には、博士の意思の強さが滲んでいた。
「もう少しで完成するんです。私の最期の作品が」
作品、という言葉に、博士の愛情と情熱がこもっている。
作品なのだ。今彼女が懸命の打ち込んでいるのは、まさしく榎本霧子がこの世に生きた証として遺そうとしている、入魂の作品なのだ。それは、小説や音楽、絵画などとなんら変わらない。榎本博士の生き様の結実である。博士が選んだ、命の使い道そのものである。
待て、と言われれば、待てるだろうか。博士の作品が完成するその瞬間まで、せめて生きながらえさせてやることは、できるだろうか。スキルテイカーは視線を落とし、自問した。博士の強い意思が、裏目にでる可能性を考慮しなければならなかった。
生命力のアビリキィが、もたらす神業とは何か。
スキルテイカーは、自らの身体に生じる脱力感の正体に、薄々感づいていた。自らの体内に癒着させたアビリキィが、〝強奪〟であるがゆえに、奪われることに抵抗力が生じている現状だが、まさしくそれは〝生命力〟のアビリキィによって引き起こされる神業の力である。
榎本霧子は、他人の生命力を吸収している。望む、望まないにかかわらずだ。おそらく、この研究所がやけに静かだったのも、それが原因である。いま、この瞬間にも、周囲で誰かの命が脅かされているということである。
それだけならば、まだ研究所内にいる輝に、彼らを外に運び出してもらえばいいのではないか。
一瞬よぎった甘い考えを、スキルテイカーは自ら一蹴した。もう、そのような道化じみた考え方はできなかった。
よしんば、輝がそれに気づき、なんらかの対策を打っていたとしよう。その場しのぎの解決にはなる。博士が、研究論文を書き上げるまでの間、彼女による犠牲者を出さずに済む。だが、そこに至るまでの時間に、取り返しのつかない展開を呼ぶ可能性があった。
アビリキィの癒着。いわゆるキーホルダー化だ。不二崎沙織の件でおきたあの事例が、また起こらないとは限らない。博士がその強固な意思で、才能への依存心を制御しきった場合、彼女は今度こそ不死の怪物となる。この場合、アビリキィを取り除く手段は存在しない。宇宙か異次元にでも放逐しない限りは、彼女は永遠に、命を吸い続ける魔物となる。
もう、待てないのだ。
せめて、もう少し、博士の意思が薄弱であったなら。
もう少し、命に対する執着心が強かったなら。
榎本博士は、スキルテイカーが望んだ通りの、高潔な人物であった。彼女が意思高く、理性の強い、高潔な人物であるからこそ、彼はこれ以上、博士に猶予を与えることができないのである。
「スキルテイカーさんには、わからないですかね」
彼の心の変遷を読み取ったわけではないだろうが、博士はぽつりと言った。
「どうして自分は生まれたんだろうって、思ったことはありませんか? なんで自分は生きてるんだろうって、思ったことはありませんか? 私だって、本当はもっと長生きしたいんです。友達と旅行に行きたかったし、親孝行もしたかったし、カレと結婚して、子供だって欲しかったし、」
博士はそのように語りながらも、一切キーボードを叩く手元を、緩めようとはしない。
「美味しいものを食べたかったし、綺麗な服を着たかったし、壮大な景色を眺めたかったし、面白い映画を見たかったし、楽しい遊園地にも行きたかったし、でも、そんなの無理じゃないですか。もう私、死んでるんだし」
スキルテイカーは、一切の言葉を話さない。榎本博士の魂の独白を、ただただ、噛み締めるように聞いていた。
「だからせめて、この作品だけは、私が生きた証として世に送り出したいんです。ダメですか。いけませんか。そんなことも許してはくれませんか?」
そう思って死んだ人間が、他にどれほどいただろうか。というバカげた問いをぶつけるつもりには、スキルテイカーはなれなかった。関係ないのだ。志半ばに倒れ、無念のまま死んだ人間は確かにたくさんいるだろう。そうした中で、榎本霧子は恵まれた。そのワガママを、できることなら最後まで押し通したいと思う気持ちを否定できるほど、スキルテイカーは傲慢ではない。傲慢では、なくなってしまったのだ。
それでもスキルテイカーは、言わねばならなかった。すべてを理解した上で、いや、人の気持ちが分からぬゆえに、すべてを理解することなどはできないが、それでも多くを理解した上で、こう言わねばならなかった。
「俺は『スキルテイカー』。おまえの、〝業〟を奪う」
果たして、業が深いのは、榎本博士なのか、スキルテイカーなのか。
スキルテイカーは、ボロ切れの中から腕を伸ばす。鉤爪の先端部が、鋭利な輝きを放った。
「私は……」
榎本博士はぽつりと呟く。一瞬だけ、キーを叩く手な止まった。
それは、本当に一瞬だけだった。再び指先がタイプを始める。その速度は、先程までの比ではなかった。スペースキーを押す時間すら惜しみ、ただひたすらに、脳内にある文字列をたたき出していく。執念だった。スキルテイカーは待ってやりたかった。だが、待てなかった。
果たして、博士は次に、何と言おうとしたのだろうか。
『生きたい』だっただろうか。『死にたくない』だっただろうか。あるいはもっと別の願いか、呪詛か。
だが博士は頑なに口をつぐんだ。それを発することはなかった。あるいは、あと1秒待てば、博士の口から何かを聞き出せたかもしれない。だが、スキルテイカーはもう、待たなかった。
スキルテイカーの爪が風を切り、榎本霧子の背中に突き立てられる。布地を裂き、脊椎を通り越して、心臓に埋め込まれた一本の鍵に、指先が届く。びくり、と、博士の身体が跳ねた。躊躇も、遠慮も、良心も、スキルテイカーが信じてきた〝正義〟ですら、この瞬間は全てが無意味だ。
「うおおおああああああああああああああッ!!」
スキルテイカーは叫ぶ。叫ばなければ、その腕を引き抜くことなどできなかった。引き抜いた鉤爪の先に、ちっぽけな銀色の鍵が引っかかっている。
榎本博士の身体が、研究室の床に倒れ込んだ。二度目の死は、あっさりしたものであったろう。背中の服は痛々しく裂かれているが、外傷は残らない。その瞳は見開かれ、虚空を睨みつけていた。安寧とは無縁の、しかし未練とも無縁の、おそらく、最期の瞬間まで無心で戦い続けた者特有の顔つきであった。
キーボードには、赤い痕がびっしりとこびりついている。血だ。博士の指先は皮膚が剥け、肉が顕になっていた。いつ神業化するか、あるいは鍵が抜けてしまうかという〝恐怖〟と戦い、しかしその〝恐怖〟に足を竦ませている暇はなく、博士は一瞬たりとも無駄にしてはならぬと、すべてをこの論文に賭けていたのだ。
だが、榎本博士は、もう死んだ。この論文の続きが書かれることは、永遠にない。
スキルテイカーは、ボロ布をひるがえし、研究所の乱暴に扉を開けた。自分が何をしたのか、スキルテイカーは考えなかった。考えてはいけないと思っていた。自分の心根がどれほどに脆弱なものなのかを、スキルテイカーは、今この時知った。
「スキルテイカー」
ぽつりと、呼ぶ声が聞こえた。スキルテイカーは足を止める。
室内だというのに傘をさした少女が、そこにはいた。
「悪いな。鍵はもうもらった。おまえが出てこないから、仕事はやりやすかったぜ」
「ええ、そうみたいね」
チート売りの魔女の言葉には、感情の色が見えない。それはいつものことだが、普段のような、スキルテイカーを嘲るような口調も、挑発的な言動も、この時ばかりは鳴りを潜めていた。スキルテイカーは訝しむよりも先に、いらだちを顕にした。
「なんだ、何か言わないのかよ」
「何も言わないわ」
「言えよ! いつもみたいに、何か言えよ! 俺をいじる言葉なら、100も200も持ってるんだろうが!」
スキルテイカーの喉元から、自分でも予想だにしなかった言葉が飛び出す。
「俺は殺したんだよ! もう少し待つことはできたかもしれないけど、殺したんだよ! 博士の幸福も、博士の恋人の幸福も、全部無視して! もう少しで完成するかもしれなかった論文だって、未完成のままだ! 誰も幸せにならない結末を俺は選んだんだよ! 言いたいことくらい、あるだろうが!」
「榎本霧子は既に死んでいたわ。殺したのは、あなたではないわよ」
魔女の言葉は優しげだ。スキルテイカーの中で、やり場のない怒りが加速していく。
「あなたは、やりたいようにやったのでしょう。マサキ」
スキルテイカーは、はたと顔を上げた。紅蓮の双眸はごちゃまぜにされた感情で濁る。にごりきった瞳で、スキルテイカーは魔女を睨んだ。
「図々しくその名前を呼ぶんじゃない。眞島マサキは死んだ。おまえが殺したんだ」
「ええ……、そうね」
魔女は荒涼とした声で、スキルテイカーの言葉に頷く。
結局のところ、この会話劇は、二人の間に横たわっていた溝を、再確認するものでしかなかったらしい。両者は、決して超えることのできない崖を挟んで睨み合い、やがて、背を向けることしかできなかった。ふたつの昏い足音が、研究所に響く。
その後、スキルテイカーは研究所を出たはずだったが、外にいる輝が彼を見つけることは、ついぞなかった。