4ー1 『死』
降り注ぐ冷たい雨が、徐々に体温を奪って行く。流れ出す血の量はとめどなく、生と死の分水嶺が目に見えて近づく。指先はぴくりとも動かない。ああ、命を落とすというのは、かくもあっけないものであるのか。彼女は緩やかに薄れていく意識の中で、そのように思考した。
この時、彼女が次に考えたのは、自分を轢いたであろう大型車のことでもなければ、残されるであろう年老いた両親のことでもなく、最近になってようやくできた恋人のことでもなかった。現世を去るにあたってもっとも心残りであること。
そう、研究論文だ。
学界に革命を巻き起こすような超絶新理論などではない。だが、日進月歩で進むこの世界を、更に後押しする一助になれたはずだった。後世の研究の更なる糧となることができた。人類の未来に偉大なる功績を残すことができた。あるいはそれは、いずれ来る絶望的な未来を回避するための最初のピースになるかもしれなかった。しれなかったのに。
しれなかったのに。いやはや。
人生とは何が起きるかわからないものである。まさかこのタイミングで交通事故とは。大切なデータはすべてこの脳味噌と、厳重にロックされたパソコンの中にしかない。自分が次に意識を断った瞬間に、この10年の研究成果と、25年の生きた証は、この世界から消滅する。
いやだ。
なぜ死ななければならないのか。よりのよって、いま、この時に。いまが一番大事な時期なのだ。死にたくない。ほんの少し。ほんのわずかでいいのだ。
認めよう。自分はろくな人間ではなかった。親孝行などろくにしなかった。友人づきあいも適当に済ませた。決して徳の高い人間ではなかっただろう。生まれつき、少し頭がよかったのを鼻にかけて、多くの人間には嫌われた。たくさんの敵を作りながらも、25年間、生きてきた。10で神童、15で才子、20すぎればただの人という言葉はまさしく正しく、この5年は誰からちやほやされたわけでもない。
だが研究に注いできた情熱だけは本物だった。これが天罰だというのならば冗談ではない。あまりにも酷ではないのか。たったひとつ、誇れるものを磨き続けてきた、その結果がこれだというのだろうか。
ああ、しょせん私は物理屋だ。科学の畑に生きる人間に、神はいないのだ。
どんなに物理法則を信奉したところで、彼らは我が身を助けてはくれない。では、この身に起きた不条理を嘆くとき、私は何にすがれば良いのだろう。死後の安寧などいらない。ゼロになることへの恐怖はない。
望みはただひとつ、生きたい。ツケならばいくらでも払う。代償ならばいくらでも払う。論文を完成させる、その時まででいい。どうにかして、どうにかして、命を、
―――――。
彼女の意識が途切れる。泥濘の海に沈んでいく。脳が働きを停止する。
明確なる〝死〟が、彼女の身体を包み込もうとした時だった。
「私は『魔女』。あなたの、才能の扉を拓く」
血と雨の混ざった水たまりを叩き、フリルのついたロングブーツが、冷たくなった彼女の傍に立った。
その日、その喫茶店には、奇妙な取り合わせとも言えるふたつの影があった。
一人は、全身をボロ切れで覆った怪物じみた異様の男である。鉤爪の生え揃った指先でスプーンを握り、丁寧にプリンパフェを削り取る作業に熱中している。煌々と輝く紅蓮の双眸にも、この時ばかりは童心が宿っていた。
一人は、セーラー服に身を包んだ、背の低い少女である。スタイルはよろしい。大きく新聞を広げ、片隅に掲載された小さな記事を音読する彼女の姿は、やけにおっさん臭い。
「ほうほう、日本における量子物理学のホープ、榎本霧子。25歳なんスか。若いッスねぇー」
いつものことだ。直輝はおっさん臭い。花も恥じらう女子高生であるが、スキルテイカーが輝を女子高生であるとして扱ってやったことは、一度もない。だいたいカネの入りはスキルテイカーなんかよりもよほどよく、だいたいの場合、スキルテイカーにとっての直輝は、気前のいいときにメシをおごってくれる都合のいい友人か、あるいは有事の際たよりになる仲間、といった具合であった。
この時に限って言えば、前者である。
食うものに困り、とうとうゴミ箱あさりに手を出したスキルテイカーを偶然輝が見つけ、たまたま良いバイトでおカネが入ったから、何かをおごってやると言われ、ホイホイついてきてしまった。遠慮というものを知らないスキルテイカーであるので、彼の目の前には特大プリンパフェが鎮座している。
「で、この人がなんなんスか」
「アビリキィを使ってる可能性があるそうだ。メガネから聞いた」
「ほほーう」
輝は目を細めて新聞を見つめる。
直輝は、『どこにでもいるごく普通の女子高生サイコソルジャー』という自称が示すとおり、どこを探してもそうそう見つからない実に珍しい類の女子高生である。メガネ曰く天然モノであり、スキルテイカーもアビリキィの気配を感じないのだから、そうなのだろうと思う。メガネの招集に応じて、ちょっとおおっぴらには言えない正義の仕事を請け負う際、チームを組んで以来の縁だ。
スキルテイカーは正義の味方なので、こうした仕事の際に報酬は受け取らないことにしていたのだが、輝はただの女子高生なのでキチンと報酬を受け取っている。だいたいメガネの払う金額は気前が良いので、輝の財布と口座はどんどん膨れ上がるという図式だった。
「じゃあ、この新理論とやらも、鍵のおかげなんスかねぇ」
「そこがわからないんだよ」
プリンの山を慎重に削りながら、スキルテイカーが言う。
「調べてみると、割と以前から同じ研究をしていて、研究に行き詰まっていた様子は特にないんだ。榎本博士がいつからアビリキィを入手したかは知らないが、鍵を欲しがった理由がわからない」
「調べたって、どこで?」
「図書館のパソコンだけど」
「ふーん」
輝の反応は割とそっけない。新聞を広げたまま、何度も何度も同じ記事を読み返している。
「別に、研究とは関係ないところで鍵を欲しがってた可能性もあるんスよね」
「例えば?」
「この人、25歳でしょ? オシャレしたいとか、コイビトが欲しいとか、あるんじゃないスか?」
新聞を畳み、輝は目の前のシフォンケーキに手をつける。人差し指をくいくい動かすと、テーブルの隅に置かれていたガムシロップが一気に5個くらい飛んできて、輝の手元に置かれていた紅茶にその中身をブチ撒けた。超能力の無駄遣いである。
「入れすぎじゃないか……」
「わたし甘党なんで」
輝はずず、と紅茶をすする。
「とにかく、この人の研究者としての側面ばっか見てちゃダメってことッスよ。スキルテイカーはそーゆーとこありますよね。人間をちゃんと人間として見ないと」
手痛いところを突いてくる。スキルテイカーは、顔をしかめた。
今回、メガネのタレコミによってアビリキィの手がかりは得られたわけだが、それ以上のアシストはなく、調査がいきなり暗礁に乗り上げている状況である。量子物理学者、榎本霧子。城南大学附属のフラクタライト研究センターに所属。どうやらキィの保有者が彼女であるらしいが、それ以上のことはまったく不明だ。
たまたま、輝がオヤツをおごってくれるというのでついてきて、そのまま相談に乗ってもらった形である。正義の味方としては情けない限りだが、実際、このように新しい視点が浮上してくるので、これがなかなかバカにできない。
「そうか……。榎本博士が欲しがっているものか……」
「メガネはいつごろから鍵を入手したとか、わかってるんスか?」
「時期的な推測はできるそうだ。メガネの息がかかった研究職員がいて、ロッカーで着替えている時に、鍵穴状のアザができているのを確認したらしい」
「へぇー」
輝の相槌バリエーションは非常に豊富だ。
「どの辺なんスか?」
「胸元」
「ほうほう、それは……」
そのまま顎に手をやって考え込む仕草は、やはりどこかおっさん臭い。
アビリキィの挿入場所は、開花させるべき才能に関係する部位であることが通常だ。空手であれば手の甲だったし、歌であれば額であったり、あるいは喉元であったりする。胸元に鍵穴ができるというパターンは、実はあまり見かけない。
「おっぱいでも大きくしたかったんスかね?」
スキルテイカーは、真剣な顔でそのように言う輝の胸元を、ちらりと見た。歳の割りに大層なものをお持ちだった。
「それは……実体験からくる経験則……ぐああっ!!」
不意に飛んできたフォークが、スキルテイカーの額に突き刺さる。
「そもそも、あの鍵でおっぱいをでっかくすることってできるんスか?」
「結論から言うと、できる」
スキルテイカーは額に突き刺さったフォークを抜き、その先端部をペーパーナプキンで拭いた。
「結局、アビリキィが開く才能の分野っていうのは、一般的に言う〝才能〟の範囲を大きく超えてるんだよ。埋まらない差を無理やり埋めるための鍵だからな。俺だって、変装用のアビリキィを使ったりするだろ」
「ああ、あの趣味悪いイケメンに変身する奴ッスね」
趣味が悪いかはともかく、副作用として爽やかスマイルが消えないのは、使う側としても非常に気持ち悪い。以前、『模造された天才』事件の際、国立小学校へ潜入するために使用したものだ。あれは比較的用途が広いので、様々な場面で使うことが多い。
そうしたものにかかわらず、肉体を変質させるタイプのアビリキィも当然存在する。背を高くしたり、ウェストを細くしたり、当然バストアップのためのアビリキィだって存在するだろう。魔女を呼ぶほど、そんなものを欲するような愚かな人間がいるとは思えないのだが。
「オロカで悪いッスかねぇ」
「おい心を読むのはやめろ」
「人間のナヤミなんていうのは、その人間にしかわからないモンでしょーに。まぁわたしはね、おかげさまで楽しく生きているんで、そこまで深刻に考えちゃあいませんがね」
再度彼女の胸元を見る。これ以上の思考は心を読まれる可能性があるので控えておく。
「で、榎本サンが鍵を持ってるとして、どうするんスか?」
「どうしようかなって……。研究所はガードが固くて入れねぇんだよな……」
スキルテイカーは、再び無心でプリンを削り取る作業に没頭しはじめた。
「メガネも助けてくれないんスか?」
「助けてくれないんだよ。あいつの息がかかってるっていう女性職員も、そこまで権力があるわけじゃないしさ……」
「情けないッスねぇ。それでも正義の味方なんスか?」
「俺は正義の味方だが、正義は常に俺の味方とは限らないんだよ……」
どっかの漫画で読んだセリフだな、と思いつつも、スキルテイカーはぼやく。
実際のところ、手詰まりの感は拭えない。榎本霧子は研究が大詰めらしく、研究所にこもりきりだ。メガネの息がかかった研究者の話では、まるで何かに取り憑かれたかのよう、あるいは、生き急いですらいるかのような打ち込みっぷりであるというが、おかげさまで接触の機会がまったくない。
そして、榎本博士になんらかの明確な変化が起きているかといえば、そんなこともないのだという。
果たしてそれは、目につかないほど些細な変化なのか、あるいは他に、見落としている点があるのか。
「なぁ、ナオテル」
スキルテイカーがプリンを削りながら声をかけると、輝は半眼を作りながら答えた。
「イヤッスよ」
「何も言ってないんだが」
「心を読めばあっちゅうまッスよ。わたしは手伝いませんからね。おカネにならない仕事はしないんスよ」
なんというドライな奴だろう。正義の心は失われてしまったのか。
「どこにでもいる女子高生に、正義の心を求めないように」
ではこうするのはどうだろう。メガネから次の仕事を受ける際、本来スキルテイカーに払われるべき報酬を、輝に払ってもらうのだ。スキルテイカーは普段、報酬を突っぱねる代わりにアビリキィの捜索を手伝ってもらっているわけだが、一度くらい報酬を払わせたところで、協力が打ち切られることなどないだろう。
そもそも今回は、メガネのアシストがほとんど得られないからこそ、輝に協力を要請せざるを得ない部分もある。
「んー……」
輝はしばし考え込んだ。守銭奴である。損得勘定には真剣だ。
「まー、それでいいッスよ。でも条件が一個」
「なんだよ」
「わたしが手伝うのは調査までで、鍵の怪物の退治は手伝いませんよ」
そのくらいか。ならば、構わない。輝の本領発揮はそれこそ念動力の塊を思いっきり相手に叩きつけての破壊活動なのだが、チート退治は本来スキルテイカーの仕事だ。輝の非常に便利な読心能力や遠視能力を、調査に使えるだけでもありがたいと思わねばならない。
「協力感謝する」
「お気になさらずに」
ガムシロップが嫌というほどに注ぎ込まれた紅茶を最後まで飲み干して、しかし輝は眉根を寄せた。
「ところでスキルテイカー、あんた何やってんスか?」
彼女の視線の先には、スキルテイカーが丁寧に側面を削り取っていた、プリンパフェがある。それは見事な弾頭状であり、頭頂部にカラメルがちょこんと残されていた。スキルテイカーは胸を張って答えた。
「これか。これはおっぱいプリンだが」
輝が拳をぐっと握った瞬間、不可視の力によってスキルテイカーの力作は粉砕された。