1-2 『スキルテイカー』
茅ヶ崎由莉奈が空手を習い始めたのは、小学2年生の時だ。理由は些細なきっかけだったとは思うが、よく覚えてはいない。ただ身体を動かすのは楽しかった。何しろ幼少期からの習い事である。立ち振る舞いにも影響が出て、不埒な男子を成敗することもしばしばであった。お陰でよくモテた。女子に。
進学した中学校に空手部はなかったが、習い事は続けた。馬鹿正直な修練はそれなりに身を結んで、由莉奈もまぁそこそこ強くなった。で、高校だ。それなりに偏差値の高い進学校へと進んだが、本音を言えば、その学校を選んだのは空手部に実績があったからである。当然のように入部先は空手部だった。行き詰まったのは、そこからだ。
由莉奈の実力は伸び悩むようになった。それだけではない。自分よりもっとあとに始めた部員に、一本を取られるということなども珍しくなくなっていった。由莉奈も身長は高いが、格闘技をやる上で体格に恵まれているとは決して言えない。元から筋肉の付きづらい体質だったのだ。由莉奈は焦燥感に苛まやされた。元から練習に手を抜いていたつもりなど一切ないが、それでもさらに過酷なトレーニングに励んだ。
伸び悩んだ実力は、彼女の気迫に応えるかのように、ほんのちょっぴり上向きになってくれたが、才能と体格に恵まれた部の仲間たちには、勝てない日々が続いた。公式戦のメンバーからは外されて、忸怩たる思いで仲間たちの華々しい戦いを眺めるようになった。
やがては三年生になる。高校時代も終わりに近づいて、友人たちと進路についても話し合う。由莉奈の所属する空手部には実績があり、当然のように猛者ぞろいだ。仲間たちの多くは、大学でも空手を続けたいと話していた。由莉奈はと言えば、そうした仲間たちに同意しつつも、本当に自分は空手を続けたいのか、それともただ意固地になっているだけなのか、わからなくなっていた。
これ以上空手を続けても、自分は強くなれない。才能がない、ということを、由莉奈ははっきりと自覚するようになっていた。だが、それを言い訳に空手の道から背を向けるには、彼女はあまりにも潔癖すぎた。才能がなくても、芽が出なくても、愚直に続けるべきだと思っていた。だから続けた。手を抜いたりはしなかった。
由莉奈の高校では、例え高校生活最後の公式大会であっても、お情けで選出してくれるなどということはない。だが、過酷な練習に根性で食らいついた由莉奈は、なんとか個人戦の枠をもぎ取ることに成功した。他の部員よりは実力的に大きく水をあけられてはいたが、主力メンバーは団体戦に集中させたいという顧問の意向も追い風となった。
結論から言って、由莉奈は区大会においては問題にならないほどの実力をつけていたし、県大会においても破竹の勢いでトーナメントを駆け上がった。無我夢中だったというのもある。彼女の気迫は対戦相手を慄かせ、全国大会への切符を手にした。
まだ、空手を続けられる。という思いがあった。
だが、同時に恐怖もあった。全国大会である。部の仲間たちと同等の実力を持つ猛者たちがひしめいている場所だ。ここで、手も足も出ずに負けてしまうようなことがあったら。今まで空手に捧げてきた人生が、保ってきた最後の意地が、ひっくり返されてしまうのではないか。
由莉奈は自身に退路を用意できない。祝福してくれる部員や顧問の期待に応えなければならなかった。高校生活に最後の花を添える。クラスメイトたちの話題が受験勉強にシフトしていく中でも、由莉奈は練習を続けた。
その事故は、果たして偶然だったのか。必然だったのか。
全国大会を目前に控えたある日、由莉奈は自動車との接触事故を起こした。命に別状のあるような大事故ではない。だが、腕と足の骨には無視のできない亀裂が入った。彼女が目を覚ましたのは病院のベッドの上だ。悔しそうに表情を歪める顧問の顔があった。人一倍練習していたお前が。もうすぐそれが報われるところだったお前が。そう言って涙を浮かべる顧問を前に、由莉奈は申し訳ないと思いこそすれ、彼と同じ感情を共有することができなかった。
それどころか、骨折したのだから、空手はもう続けられない。少なくとも全国大会には出場できないという事実に、どこか安堵の念さえ覚えていた。もう、圧倒的な実力を前に、唇を噛むことなどないのだと。自身の才能のなさを悔やむ必要などないのだと。そこで、由莉奈はようやく気づいてしまう。
彼女の心は、とうの昔に折れてしまっていたのだ。
由莉奈の目の前には少女がいる。幼くも艶やかな微笑。ゴシック調の黒衣。病的なほどに白い肌。彼女こそが、都市伝説に謳われる才能の開拓者。すなわち『チート売りの魔女』である。その手のひらの上には、彼女の力の象徴である魔法の鍵が、青白い光を放ちながら浮かんでいる。
『あなたの才能の扉を拓く』
魔女は、確かにそう言った。
才能の扉。果たしてそんなものが、自分にあるのか。彼女の手に持っている鍵は、果たして自分に適合するものなのか。疑問が由莉奈の脳裏を駆け巡る。だが、彼女がもっとも知りたいのは、果たして自分が、どのような才能こそを欲しているのかという、その答えのみであった。
魔女は、鍵を片手に由莉奈のもとへ歩み寄る。それは決して恐ろしげなものではないはずなのに、由莉奈の足は自然と後ずさった。足元に積まれた週刊誌の山に引っかかって、思わず尻餅をつく。魔女の小柄な体躯を、見上げる形になった。
「そう、怖がらなくてもいいのよ。私はあなたに力をあげる。恐ろしいことは何もないわ」
声音には、脳を溶かすほどの甘美な響きがあった。
魔女が由莉奈に鍵を近づける。由莉奈は、右手の甲にわずかな違和感を覚えた。傷口が疼くような感触。思わず腕をあげて確認すると、そこには〝穴〟が空いていた。由莉奈は目を見張る。傷ではない。穴だ。鍵穴である。
だが、鍵穴の形状は不確かだった。由莉奈の鼓動に合わせるように開いたり閉じたりを繰り返し、大きさと形が一定しない。魔女はそれを見て、小さく首をかしげた。
「あら?」
愛らしい仕草である。魔女は、その後にすぐ、妖艶な微笑を取り戻した。
「まだ悩んでいるのかしら。仕方ないわね」
魔女は由莉奈の手を取った。氷にでも触れたかのようにひんやりとした、しかし柔らかい指先であった。
「今日はあなたの扉を拓きにきたのではないし、鍵はあなたに預けるわ。大事にしてね」
そう言って、手のひらの上に鍵を置いていく。クラシックな形をしたスケルトンキーかと思えば、形状は現代でもよく使われる、ピンタブラー錠に対応したものに近い。ブレード部分がわずかな光を反射して、冷たい輝きを放っている。
「あっ、あの……」
連発する不可思議な事象を目の当たりにしつつも、由莉奈はかろうじてそのように声をあげることができた。
「なぁに?」
魔女は小首をかしげ、微笑と共にたずね返す。
「えぇっと、……お代は?」
「お代?」
「あなたは、〝チート売り〟の魔女なんでしょう?」
目の前の少女は一瞬だけきょとんとしたが、すぐに吹き出して笑い声をあげた。鈴を転がしたような、控えめな音が響く。
「いらないわ、そんなもの」
魔女の答えはそれだった。
「もちろん、場合によってはいただくのだけど。これは、趣味というか、使命というか、そのようなものだから。あなたが、才能をきちんと自分のものにできるのを祈っているわ」
魔女は、尻餅を下ろした由莉奈の真横を通り抜けて、アパートの出口へと向かっていく。しばらくぼーっと鍵を眺めていた由莉奈だが、やがてはっとしたように立ち上がり、玄関の方へと駆けた。急いで扉を開け、外を見渡すも、魔女の姿はもうどこにもない。
一瞬の幻であったと判断するには、あまりにもリアルな記憶だ。振り返れば、居間ではまだいびきをあげる先輩の姿がある。由莉奈は、手元に残された小さな鍵を見つめ、今しがた起きた不思議な出来事を反芻した。
右手の甲の疼きと鍵穴は、いつの間にか消えていた。
翌朝である。自室で目を覚ました由莉奈は、まず一番に、自身の失態に気づいた。結局、財布をとってきていない。起きた出来事に圧倒されるあまり、自分が何をしにあの部屋まで戻ったかさえ忘れてしまった。あの時の自分に、なぜ二回もあの部屋に行ったのかとたずねれば、熱に浮かされるような足取りの茅ヶ崎由莉奈は、『鍵をもらうためじゃないの?』と答えることだろう。
由莉奈は寝起きの重い瞼をなんとかこじ開けて、ショートヘアーをわしわしとかき乱した。洗面所に立って、歯を磨く。先輩の家に行かないとな、と思った。財布がなければお話にならない。
先輩の家、先輩の部屋だ。
由莉奈の脳裏に、昨晩の光景がリフレインする。由莉奈が出会ったのは、チート売りの魔女。いわゆる都市伝説の具現化だ。あの夜、由莉奈は確かに酒が入っていたので、酔いの見せた幻覚であると言えば、絶対に違うと否定することはできない。
が、記憶の証明は、手元にあった。見覚えのない一本の鍵。なんの装飾も、キーホルダーもついていない、丸裸の無機質な鍵だ。都市伝説の中で魔女が持つ、才能を拓くための鍵だ。由莉奈の記憶が正しければ、あの時、彼女の右手の甲には鍵穴が開いていた。その形状が不確かなのを見て、魔女は鍵穴に直接鍵を差し込んだりはせず、あなたに預けるとだけ言って消えた。
つまり鍵の使い道を任されたことになる。この鍵を使うことで、由莉奈の中に何かの才能が目覚めるというのならば、そしてそれが、あの時に渇望した空手の才能であると言うならば。由莉奈は鍵を見つめる。この鍵を使って、才能の扉を拓いてみたいと思う。だが、彼女の右手はおとなしくなったままで、その甲に鍵穴が出現するようなことは、今のところなかった。
顔を洗って目を覚まし、出かけ用の服に着替えて、玄関でスニーカーを履く。大学に入って最初の土日だ。自由度が高すぎて何をすればいいのかわからない。ひとまず、近所を散歩してみようかと予定にならない予定をたてていた由莉奈だが、しょっぱなから先輩の部屋に財布を取りに行くことになるとは。
先輩の家、先輩の部屋だ。
魔女が現れたのはあそこだった。そして、彼女はこう言ったのだ。『二人もお客さんにめぐり合えるなんて』と。そう、二人。あの場にいたのは、魔女と由莉奈と先輩。魔女の言葉が何を指し示しているのか、想像するまでもない。
魔女の本命は先輩だった。先輩に対して、何かの才能を授けるつもりだったのだ。あの先輩は飲み会の席で、魔女の出現条件について、『もっとも才能を欲すること』だと言っていた。ならば、先輩はあの飄々とした態度の裏に、どれほどの情熱を秘めていたのだろうか。
考えていても仕方がない。気がつけば、先輩の部屋の前にいた。インターホンを押しても反応はなく、ドアノブに手をかけると、扉はあっさりと開いた。自分が帰ったときのままなのか? と思ってみれば、玄関から覗ける居間に先輩の姿はなく、そもそも部屋の中の人の気配すら感じられない。先輩は鍵をかけずに出かけたのだ。
無用心だな、と思いながら、由莉奈は玄関に足を踏み入れる。居間のちゃぶ台には由莉奈の、あまりに女らしさの感じられない長財布が置かれ、その横に『タクシー代 昨日はごめんね』と書かれたメモ書きとともに、万札が一枚置かれている。
全額奢りだとしても大層な金額だったので、由莉奈はそれを財布にしまうことを躊躇し、しかし無視するのも決まりが悪いので、お釣りとして五千円を置いておくことにした。
先輩がいないのでは、昨晩のことを聞いたりできないな。由莉奈は少しだけ残念に思い、しかし同時に安堵した。このあたりに関して、互いに必要以上に干渉したくはないと思っていたのだ。由莉奈はさっさと玄関に向かい、靴を履きなおす。部屋を出る直前、ふと、由莉奈は気づいてしまった。
昨晩見かけた、台所のテニスラケット。あれがなくなっている。代わりに、額縁に収められた賞状だけが残されていた。
「………。お邪魔しました」
由莉奈はそれ以上何かを考えたりはせず、扉を閉めた。
由莉奈がアパートを借りているのは、東京都北区志茂。城南大学荒川キャンパスからはやや離れた距離にあるものの、自転車でおよそ15分程度と、通学には適した立地だ。高級住宅街でもなければ、下町人情を宿した地区でもない。残っているのは昭和後半の古臭さだけだが、ただ暮らすには息の詰まらない、気楽な場所だった。
由莉奈は財布をデニムパンツのポケットにねじ込んで、予定通り近所を散策することにした。サークルの仲間や、同じ講義を受けた同期生とメールアドレスのやり取りはしたものの、休日の予定を合わせるほど親密な間柄ではない。地方出身の由莉奈としては、このまま都心部に殴り込んで若者ライフをエンジョイすることに興味がないでもなかったが、それもひとりでは気が引けた。
何か美味しい昼食でも食べられる店があればいいんだけど。
道すがら、そう思っていた由莉奈はふと足を止めた。視線の先には『極真空手』と書かれた看板があり、建物の中から威勢のいい掛け声が聞こえてくる。こうした建物は全国にあり、由莉奈は去年の秋以降、意図的に空手道場の付近を歩くことを避けていた。今この時も、看板に掲げられた四文字を見つめる感情には、忸怩たるものがある。
右手の甲が疼いた。傷口の開く感触があった。いま、由莉奈のポケットには、あの鍵がある。
才能の扉。そのフレーズを思い返し、由莉奈は考える。果たしてそんなものが、自分の中にあるのだろうか。あれだけ努力しても、開かなかった扉だ。それを、この鍵一本で、簡単に拓くことができるのだろうか。
鍵を差し込んでみれば、すべてがわかるかもしれない。由莉奈は、潰えかけた一縷の希望を、鍵に託してみたい感情にかられた。だが、もしも鍵穴に差し込んで、この鍵が回らなかったとしたら。ついてまわるその恐怖が、由莉奈の思考に歯止めをかける。
由莉奈は鍵をポケットに戻して、道を進んだ。結局、臆病なのだ。才能を否定されるのが恐ろしいのだ。そんなものはなかったはずだと、頭では理解しているが、最後の最後にすがりたい気持ちが残っている。これは甘えだ。道に背を向けたのは自分なのに。
空手道場から元気な掛け声が聞こえなくなる頃、由莉奈は荒川の土手にいた。遠方には荒川と隅田川を仕切る岩淵水門が確認できる。犬の散歩をしている老人や、土手下でサッカーに興じる子供達の姿があった。気持ちが晴れない。どうにも、自分が嫌になる。
何か気を晴らしたいと思った矢先、道沿いにできた人だかりに気づいた。ネットに囲まれた一区画に、老人や近所の主婦などを中心としたギャラリーが築かれている。中には何人か若者の姿も見えた。由莉奈はこうした野次馬の中に身を投じることに対しては消極的な性格だったが、この際、うじうじした自分を忘れられるならばなんでも良かった。
「あ……」
それはテニスコートである。コートの中では二人のプレイヤーが庭球に興じていた。由莉奈は球技に関しては全くの素人であるが、その苛烈な球の応酬が、おおよそ市井では滅多に見られないほどの、ハイレベルなものであることは理解できた。
だが、由莉奈が声をあげた理由はそこではない。一方を、余裕の表情を浮かべてなお圧倒するプレイヤーの姿に、見覚えがあったのだ。あの、先輩である。
驚愕よりも得心があった。同時に、彼の秘密に対して無遠慮に踏み込んでしまったことに対する気まずさがあった。
先輩は、おそらく由莉奈と同じ人種であったに違いない。いつからかは知らないが、彼はラケットを手にし、夢を見て、しかし自身の才能のなさに心を折って、だがそれでも夢にみっともなくしがみつく自分に気づいていた。彼は強く才能を欲して、それに応じるかのように昨晩、チート売りの魔女は姿を見せたのだ。
先輩の顔つきは、昨晩の酒の席で見せたものとはまるきり違っていた。へべれけに酔っ払って、みっともなくいびきをかいていた時のものとはまるきり違っていた。ひどく攻撃的て、自信に満ち溢れた姿だ。相対するプレイヤーも、決して下手というわけではないだろうに。必死に打ち返される球を、汗一粒見せずにラケットで弾いていく。その気になればいつでも勝負を決められるとでも言いたげな、余裕に満ちた笑顔だ。
この瞬間、由莉奈の心の奥底に、急に湧き上がる感情があった。それは過去を懐かしむものであり、同時に未来を志すものであった。自分もああなりたい。ああならなければならない。由莉奈にもあったはずだ。自分に才能があると信じて、がむしゃらに突き進んでいた日々が。それを取り戻すための鍵が、今、自分のポケットの中にあるのではないか?
由莉奈は数歩、後退りをして、そのまま来た道を走って戻る。右手の疼きが大きくなり、それはやがて止まった。鍵穴の形状が固定される。
空手道場の前までやってきた。そうだ、鍵を回そう。扉を拓こう。自分の求めていたものがあるのだ。何を迷う必要がある。由莉奈はポケットから鍵を取り出した。魔女から託されたそれは、陽の光を浴びて輝きを放つ。由莉奈には、それが希望の輝きであるかのように思えた。
由莉奈が鍵を穴に差し込もうとしたその瞬間、
「待て」
風とともに、鋭い静止の声が響く。由莉奈はぴたりと手を止めて、振り返った。
人通りのない道の上に、異質な存在が立っていた。
それは、ボロ切れをまとった男であるかのように思える。背は高く、おそらく屈強な体格をしているのだと思えるが、全身を覆う黒い布のせいではっきりとはわからない。ボロ切れは顔まで覆うという念の入用で、その奥から赤くギラついた双眸が由莉奈を睨みつけていた。おおよそ、平和な志茂の街にそぐわない、剣呑な雰囲気がある。
男が歩くたび、何やら金属同士のぶつかり合うような、しゃら、しゃら、という音が響いた。由莉奈は困惑する。昨晩、魔女に会った時の比ではなかった。白昼堂々、こんな姿で出歩くこの男は、いったいなんなのだ。
男はゆっくりと腕を掲げ、ぞっとするほどに尖った鉤爪で、由莉奈を指し示した。果たして疑問に対する回答を、男は口にする。
「俺は『スキルテイカー』。おまえの、〝業〟を奪う」