3-4 『異変』
酔っ払った駒場をアパートまで送った帰りである。スキルテイカーは、ホームレスのゲンさんと会った。
帰りと言っても、スキルテイカーの帰る先は高架下のダンボールハウスくらいでしかない。最近妙に羽振りの良いゲンさんが、またネットカフェに行こうと誘ってくれたのであれば、スキルテイカーに頷かない理由はない。例えそれが、12時間耐久ボカロ漬けであるとしてもだ。彼はほんの5日ほど前、『これならば野宿の方がよかった』と漏らしていたはずなのだが、喉元すぎれば熱さを忘れるものである。
前回同様カップル席に入り、ゲンさんはホットスナックの自販機へと走った。スキルテイカーはまたも奢るというゲンさんに好意に甘えることにする。バイトはしているが給料はまだ出ていないのだ。
スキルテイカーは少し迷ってから件の動画サイトを開く。彼自身はアカウントをもっていなかったのだが、とうとうこの間作ってしまった。とは言っても、マイリストも視聴履歴も、ほとんどカラである。
「お、スキさんもとうとうアカ作ったのか」
フライドポテトと骨付きチキンの箱を持ってきたゲンさんが、嬉しそうな顔を作って言った。
「あんま見てないけどな」
「スマホだけじゃ電池も持たないしなぁ。なんだ、履歴は歌ってみた動画ばっかりじゃないか。気に入ったのか?」
「ちょっといろいろ聞いてみたくてな」
スキルテイカーだって、特別素人の歌が好き、というわけではない。もともと上手い、下手を論じるほど音楽に強くもないのだが、それでも基本的にはプロの歌の方がいいんじゃないかな、程度に思っている。ただ、この動画サイトでは、『もうちょっと頑張ればプロになれるんじゃない?』といったレベルの『歌い手』がそれなりにいて、彼らの替え歌を聞くのはそれなりに楽しい。
もちろん、歌ってみた動画ばかり視聴している理由には、駒場の存在もあった。動画サイト上で絶賛されている歌い手と、駒場の歌には、どれだけの力量差があるのか、聴き試してみたかったのだ。
実際のところ、アビリキィを得た駒場の歌は、サイトで視聴できる多くの歌い手の歌よりは、上手かったように思う。だがやはり、その力を十全に引き出せていない現状では、しょせん〝そこ〟止まりだ。だからこそ、スキルテイカーも駒場の歌を好きでいられるのだが。
駒場は明日、歌を収録し動画としてあげると言っていた。最上位クラスの人気を誇る『歌い手』でも平然とアンチが沸くところを見るに、駒場がどれだけ上手に歌いあげたところで、絶賛されるとは到底思えない。スキルテイカーが不安に思うのは、そこであった。
「なぁ、ゲンさん」
スキルテイカーは、コミュニティの新着動画をチェックしているゲンさんに問いかける。
「どうした、スキさん」
「ちょっと前に、コメントで散々叩かれて引退した歌い手とかいなかったか」
「そんな話、しょっちゅうだからなぁ。だが最近有名になったっていうと、アレかな」
ゲンさんは、少し考え込んだ後に、動画検索を始めた。
「ああいや、ゲンさん。そいつはもう動画を削除しててだな」
「知ってるよ」
そういう動画マニア老人の口調は、どことなく陰鬱な色をはらんでいる。一体どうしたことだ、と思ってスキルテイカーがディスプレイを覗き込むと、予想に反して複数の動画が検索結果に表示されているのが見える。どれもこれも、タイトルには駒場から聞かされたアカウントネームが入っていたが、投稿者自体は駒場ではない。
「晒し上げ動画みたいなもんだよ」
ゲンさんは苦笑いを浮かべながら、困惑するスキルテイカーにそう言った。
「本人が動画を削除しても、面白がってコメントごと保存していた奴とかがいてだな。そういう連中が再アップロードしたりするから、ネット上の恥っていうのはなかなか消えないんだ。怖いもんだろう」
「ゲンさん、ちょっとこれ、開いてみてもいいか?」
「いいよ」
スキルテイカーが数ある動画の中のひとつを開き、再生ボタンを押す。始まっていきなり眉根をしかめたのは、サイケデリックな色彩の大文字が一斉に画面に流れ始めたからだ。いずれもが見るに堪えない、幼稚な罵詈雑言の数々である。それが、この動画に直接コメントされたものではなく、過去駒場が上げた動画につけられたコメントだと理解するのに、少し時間がかかった。
こんなに酷いことを書かれていたのか、と、スキルテイカーは思う。薄ら寒くもなった。正直、人間の悪意というものが透けて見える。同時に、駒場の歌はここまで罵倒されなければならないものなのか、とも思った。
イントロが始まり、さらにしばらくして、ヘッドホンに駒場の歌声が流れ始める。カラオケボックスで聞いた時に比べれば、やはりいくらか下手だったが、よく通る声で気持ちよさそうに歌うその声には変わりがない。動画の上では、ひたすら気分の悪くなるようなコメントが流れていくが、それでもスキルテイカーは、じっと黙って歌だけを聞いた。
おおよそ4分後。すべての曲がフルで流れ終わったあと、スキルテイカーはぽつりと呟く。
「悪くないじゃないか」
それはスキルテイカーの本音である。
正直なところ、スキルテイカーはもっと酷い歌を想像していた。これだけの罵詈雑言を浴びせられるのだから、よほど音を外していたり、するのではないかと思っていた。だが、駒場の歌は驚く程に普通である。アビリキィを使っての才能の上昇幅が、あまりにもみみっちいのではないかと思える程だ。
ゲンさんも頷いた。
「そう、悪くはないんだ。特別、よくもないだけでな」
それが駒場の歌に対する、評価の全てだろう。たまたま彼の声が好きという人間が数人いて、コメントを残し、マイリストに入れる。この動画はそんなものでよかったはずだ。他の人間からしてみれば、足を止めて聞くようなものでもなければ、下手くそと怒鳴りつけるようなものでもない。ごくありふれた、平凡な歌である。
「じゃあ、なんでこんなことになってるんだ」
なんで、駒場のことを放っておいてやれなかったんだ。
「たまたまだろうな」
ゲンさんは、ホットスナックのパックを開きながら、ぼそりと言った。
「みんな誰かを叩いて安心したいんだよ。そいつが、上手いか下手かなんてどうでもよくてさ。ただ『動画サイトに自分で歌った歌をあげている』ってだけで理由は充分なんだよ。まぁ俺も気持ちはわかるよ。例えば、プロの歌を探しているのに、そこで開いた動画が素人の歌ってみた動画だったりしたら、やっぱイラッとくるしさ」
「放っておいてやれなかったのか」
「どうだろうなぁ」
パックのビニールを破り、こもった熱が一気に広がる。ゲンさんはパックについてきた短い割り箸を割って、骨付きチキンをバラしながら、スキルテイカーや画面の方を見ようとはしていない。
「こういうのはイタチごっこなんだよ。水掛け論っていうかさ。『下手な歌なんかあげるな』って言ったら、『嫌なら見るな』とか『ならお前が歌ってみろ』とか来るだろ。それはそれで的外れな解答だよな。タダで垂れ流してるものをタダで見れるんだから、たまたま見ちゃうことだってあるし、別にコメントをつけること自体が悪いってことじゃない」
インターネットというオープンな文化ベースの上で、歌や創作物を公開する以上、それは避けられないことなのかもしれない。ゲンさんは言った。どちらの言い分にも、おそらく一定の理があって、しかしどちらも過剰な態度をとり始めると顰蹙を買う。
表現する側の人間はもう少し広い度量を持つべきだし、評価する側の人間はもう少し慎みを持つべきだ。そうすれば、もう少しすべてが丸く収まっていたかもしれない。だが、そうしたネット上の不文律が育まれるよりも、表現手段と評価手段が容易になる方が早かった。表現物はどこでも容易に投稿でき、そして感想をつけるにもまったく労力を要さない時代となった。
「だからなんだ。どっちにも甘えた気持ちみたいなのが出てきたんじゃないのかって思うんだが、まぁ、あいつらも40年以上ホームレス続けてる男に言われたくはないだろうなぁ」
最後にはそう言って、ゲンさんはヘラヘラと笑う。
だが、スキルテイカーはまったく笑う気になれなかった。駒場の人の良さそうな笑顔が脳裏をよぎる。彼は言っていた。『みんな歌が好きだから』と。それは確かにそうだろう。スキルテイカーも否定しようとは思わない。歌が嫌いな人間など、とてもいるとは思えない。だが、問題はそこではないのだ。
歌が好きであることと、無自覚な悪意で誰かを攻撃することには、なんのつながりもない。駒場の歌が叩かれたのは、彼が下手だったからではない。たまたまその時、たまたま叩きやすい位置に、彼の動画があったという、ただそれだけの理由なのだ。
ならば、駒場が次に歌う歌はどうなのだ。
自分にも他人にも努力を強いない、あの甘ったれた男が、しかしそれゆえに鍵に侵食されることのないあの男が、次に歌う歌は、果たしてネット上に蔓延る悪意に対して通用するのか。スキルテイカーは胸騒ぎに近いものを覚えていた。
その翌日も、スキルテイカーはバイトだ。新人の研修ももうすぐ終了し、彼自身はお役御免となる。居心地のいい職場でもう少し働いていたい気がしないでもなかったが、やはり定期的な拘束時間が発生するのは彼自身の活動にとっては都合が悪い。そのあたりの未練はきっぱり断ち切ることとする。
前日に言ったとおり、その日駒場は休みだった。きっと今ごろはどこかのスタジオで、歌の収録に励んでいるのだろうと思う。スキルテイカーは不安を感じながらも、ひとまずは目の前の仕事に従事した。
夕方頃にはようやく仕事が終わり、スキルテイカーはバイト先を後にする。彼のスマートフォンには、駒場からのメールが来ていた。収録が終わり、動画をサイトにアップしたらしい。是非、家に来て欲しいというのが彼のメールの文面だった。
「………」
スキルテイカーは『すぐに行く』と返信をし、重い足取りで駒場のアパートを目指した。
どのような結果なのか。あまり想像はしたくない。だが、彼が動画をあげれば、それで彼は満足しアビリキィを手放すというのが当初の約束であったはずだ。駒場が収録を終え、動画のアップロードを終えたなら、スキルテイカーは彼からアビリキィを回収しなければならない。
駒場の住まいは都心に近い場所にひっそりと建つ、古めかしい木造アパートだった。雑草の目立つ駐車場を抜けて、薄暗くじめじめとした一階の、駒場の部屋の前に立つ。呼び鈴を鳴らすと、中でバタバタと走る音がして、扉が開いた。
「やぁ、スキさん」
駒場の顔は存外に明るかった。酒もすっかり抜けた様子である。
「よぅ、反応は……どうだった」
「実はまだ見てないんだ。スキさんと一緒に見ようと思って。でも、いい歌が歌えたと思うんだよ」
彼の笑顔には、屈託というものが見られない。その様子を見ても、スキルテイカーの胸中に生じた不安は消えることがなかった。
ひとまずは、駒場に促されるまま、部屋に上がらせてもらう。
駒場の部屋は、意外とものが多かった。部屋の片隅には布団がたたまれ、中央に置かれたちゃぶ台の上には立派なデスクトップ式のパソコンがある。本棚には流行りの漫画がずらり。テレビにはゲーム機が繋がれていたが、少しばかり埃をかぶっていた。いかにも若者の部屋といった感じか。駒場自身がマメな性格なのか、整理整頓はしっかりされている。
「いろいろ考えたんだけどさ、この鍵を返したら、俺とスキさんの関係もそれまでだし。だったら一緒に動画を見てもらおうと思ってさ」
「そうか」
「スキさんぶっきらぼうだけど、俺、こんなにいろんな話ができたのはスキさんが初めてだよ」
スキルテイカーの不安は、苛立ちに近いものへ変わっていた。
なぜ、そんな笑顔でいられるのか。なぜ、アップロードした動画が叩かれている可能性があると、微塵にも思わないのか。いや、問うまでもないのだ。彼は信じている。みんな歌が好きで、きっとわかってくれるはずなのだと。駒場は、世間に蔓延る無自覚な悪意を知らない。
「俺も、久しぶりに友人みたいな奴ができたと思ったよ」
スキルテイカーは、そうした感情を表に出すことなく言った。駒場は照れくさそうに頭を掻く。
「俺もそうだなぁ。友達なんて、長いこと作ってなかったし」
彼がちゃぶ台の前に座り込み、パソコンを操作するまでを、スキルテイカーは黙って見つめていた。駒場は動画サイトを開き、マイページを開く。『投稿動画』を開き、マウスカーソルが、唯一その中に置かれたサムネイルの上まで移動する。
スキルテイカーは、不意に動いた。その鉤爪の生え揃った手を、駒場の手に重ねる。駒場は、一瞬驚いたようにスキルテイカーを見た。
「俺、そんな趣味ないよ?」
「バカ言え」
スキルテイカーの言葉はこうである。
「いいか駒場、何が書かれていたとしても……」
「あはは、やだなぁ。スキさん、大丈夫だよ。俺だってそんなに脆くはないし」
彼がそう言うならば、こちらからも何も言葉をかけられない。スキルテイカーは重ねた手を離し、駒場が動画を開く。彼が再生ボタンを押し、動画が始まる。代わり映えのない、静止画背景。ゆったりと流れ始めるイントロミュージック。
そして、一拍遅れて、動画の上に大小さまざまな、サイケデリックの色彩のコメントが流れ始めた。
駒場の動きが止まる。スキルテイカーは目を閉じた。それは、予期できていたことだったが、それでもスキルテイカーは、駒場の顔を覗き込むことなどできなかった。
『炎上王再臨』『よく帰ってきたなw』『wwwwwwww』『へったくそ』『前と変わんねぇ』『なんで今更www』『よう、インターネットカラオケマン』『ちょっと上手くなったじゃん』『なに? こいつ前なんかしたの?』『なんでこんなゴミ動画が上がってんだよ』『歌ってみたかよ死ね』『ツラの皮厚すぎ』『これでマシになったとかwww』『原曲レイプ』『俺はいいと思うよ』『生きてて恥ずかしいと思わないの?』『他にやることないのかよ』『うわぁ……』『くっそつまんねぇ動画』『作詞と作曲に土下座しろよww』
あいも変わらず幼稚で、稚拙な罵詈雑言の数々。
再生数とコメント数はうなぎのぼりだ。だがそれは決して、駒場の望んだものではないだろう。
わかっていたのだ。駒場の歌を叩いていた連中は、彼の歌が微妙だから叩いていたわけではない。彼の動画が、たまたま目に付いたから。己のつまらない人生の憂さを晴らすのに、都合がよかったから。一旦動画をすべて削除した駒場が、再度動画をアップロードしたという事実は、彼らにとっては格好の燃料でしかない。
もしも駒場の歌唱力が圧倒的なものであったならば、その無自覚な悪意すらもねじ伏せることができただろう。だが駒場の歌は、ちょっと上手い程度のものでしかなかった。何よりも、そう望んだのは駒場自身だ。結局、彼は甘いのだ。
「駒場……」
歌と動画は続いていく。駒場の歌は、確かに以前より上手くなっていた。耳心地も決して悪いものではない。
駒場は、マウスを片手に持ったまま、じっと動画と流れるコメントを見つめていた。一体彼がどのような心境かスキルテイカーに推し量ることなどできはしない。
「駒場……!」
もう一度、強く声をかける。彼はようやく振り向いた。スキルテイカーの紅い双眸に、泣き笑いのような表情を作った駒場が映る。
「違う、違うんだ。スキさん……」
振り絞るような声で、甘っちょろい男が言う。
「これは、ほら、えっと。俺がまだ、歌が下手だから……」
「おまえは上手くなったよ、駒場。いや、元からそんなに下手じゃなかった」
「じゃ、じゃあ、なんで……」
きっと駒場も、もうわかっているのではないだろうか。誰彼構わず叩きたがる、インターネット上の無自覚な悪意の存在に。だが認めたくはないのだ。自分がそんなわけのわからないものの、スケープゴートになったのだという事実を。駒場は信じたかったのだ。みんな歌が好きなはずだと。
「駒場、俺は……おまえの歌が好きだよ。それでいいじゃないか」
「違う……! 違う! 違うよスキさん! 俺は……でも……! 俺はもっと! もっと上手くなれば、こんな……!」
「駒場……!」
駒場の周囲で、不可視の力場が渦を巻き始める。スキルテイカーは目を見開いた。
「駒場、やめろ! おまえは……!」
バランスが崩れる。駒場の心の中で、奇跡的な均衡を保っていた何かが崩壊した。才能を欲する心に、天秤が強く強く傾いていく。駒場の体内に埋め込まれた鍵は、その欲望を餌にして、嬉々として禁断の扉を開いた。果たして開かれた扉から、大量の異物が駒場の体内に流れ込んでいく。
周囲に発生した不可視の力場は、すさまじい暴力を伴って室内の家具を叩きのめしていく。本棚が、テレビが、ゲーム機が、そしてパソコンとちゃぶ台が。強引に捻じ曲げられ、弾け飛んでいく。
きっと、こんな結果になるだろうなとは思っていた。心のどこかに、予感はあったのだ。
だが、なぜ。なぜこの男でなければならなかったのか。誰にも答えを出せないであろう疑問を抱く。
スキルテイカーの目の前で、駒場佳祐は異形と化した。