3ー1 『歌い手』
駒場佳祐は、動画投稿者である。
国内最大手の動画サイトに、自らうたった歌を動画編集して投稿するのが彼の趣味だ。駒場は昔から歌が決してうまかったわけではないが、それでも、歌をうたうことは好きだった。他に大した趣味を持たない駒場は、録音用の機材や編集用のソフトウェアを購入することにも、大して躊躇を持たなかった。どうせ歌をうたうなら、なるべく良い環境でうたいたいと、そう思っただけだ。
駒場は自らの力量をわきまえている。他の著名な動画投稿者のように、深夜アニメとタイアップしてその主題歌をうたわせてもらうなんて、大それたことは夢見ていない。だから、『歌い手』なんてこれまた大層な肩書きは、自分にはふさわしくないと思っていた。『インターネットカラオケマン』で十分だ。
それでも褒められれば嬉しいし、貶されれば凹む。ただ、投稿した曲の再生数が毎日ほんのちょっぴりずつ伸びていくのを眺めるのは、駒場にとっては至福の時間だった。マイリスト登録数が1から2に増えたときなど、この趣味を続けていて良かったと、生まれて初めて思えたものである。
駒場は自らが気持ちよくうたいたいだけであったので、歌が上手くなる努力というのを、それほどしたことはなかった。致命的に下手というわけではなく、自らの音域もそれなりに把握しているから、特別に聞き苦しい歌というわけではないが、しかし人を魅了する声であるかというと、そんなこともない。ただ、『聞くに耐えないということはない』という理由だけでも、それなりに再生数とコメント数は伸びた。
異変が起きたのは、再生数がようやく200に行くか、行かないかといった時である。
アルバイトから帰ってきた駒場は、動画サイトのマイページを見て驚愕した。再生数が一気に10倍、いや、20倍にもなっていたのである。どきどきしながら動画を開いてみると、彼の抱いていた淡い期待と興奮は瞬時に打ち砕かれた。彼の動画は、心無い誹謗と中傷にて荒れかえっていたのである。
『へたくそwww』『よくこんな歌あげられるな』『インターネットカラオケマンww』
可愛いところではこんなものだ。だが、それであったとしても、駒場の心をえぐるにはじゅうぶんすぎるものだった。
原因はすぐにわかった。某大手掲示板に、動画サイトの『歌い手』を小馬鹿にするようなスレッドが建てられ、その中でたまたま適度に再生数の少ない彼の動画が槍玉に挙げられたのだ。別にそれは、駒場の動画でなくても良かったのだろう。だが実際問題として、そこで取りざたされたのは駒場の動画であった。
駒場の動画は静止画一枚に歌詞を載せただけの簡素なもので、音声にしてもネット上で適当に拾ってきた音源の上から自分の歌を被せただけの、編集ソフトの無駄遣いと言われやむなしなものだった。
駒場も、それが真摯な指摘であれば、ぐらつく心を抑えながらう頷くことができたかもしれない。だが、書き込まれたコメントの多くは、彼の趣味を傍から嘲笑い、叩きのめしたいという邪悪な欲求のみが透けて見えるものであった。
中には、〝真摯な指摘〟もあったかもしれない。だがそれも、結局は悪意の濁流に飲み込まれて、心無い誹謗中傷の一節にしかなっていなかった。
まとめサイトでそのスレの存在を知った駒場は、記事のコメント欄に抗議の書き込みを行った。別に歌を絶賛して欲しいわけではない。ただ、そっとしておいて欲しい。彼はなるべく穏やかな言葉でそのように書き込んだのだが、自らの素性を明かしていたのがまずかった。結局、悪意ある人間たちにとって、それは炎上のための燃料でしかないのである。
彼の動画はさらに荒れた。再生数は驚異的な伸びを記録して、コメントにはもはや意味のある言葉など残ってはいなかった。結局駒場は、動画をすべて消した。動画を消した跡地にも、悪意のある暇人はひっきりなしに現れては、顔も知らない駒場を嘲笑するコメントを残していったが、それもやがていなくなる。飽きられたのだろう。
その時から、彼はこのようなことを思うようになっていた。
自分がバカにされたのは、歌が下手だったからだ。
歌が上手くなれば、自分の趣味を嘲笑われることだってない。見返してやりたい。手のひらを返させてやりたい。せめてひとことで良い。『やるじゃん』とだけ言わせてみたい。
彼がひときわ強く願ったある日、駒場佳祐の前に、〝魔女〟が現れた。
スキルテイカーには、密かに尊敬している男がいる。それが、この周辺一帯のホームレスを取り仕切るホームレスの長、ゲンさんだ。まるで枯れ枝のような老人だが、1960年代の始まり頃、東北より出稼ぎに来て以来の、筋金入りの日雇い労働者だ。長らく荒川区山谷のドヤ街に居つき、その変遷を見守ってきたなんだか仙人のようなヒトである。
スキルテイカーに日銭の稼ぎ方を教えてくれたのが、何を隠そうこのゲンさんである。ゲンさんはいま、その活動拠点を山谷からこちらの繁華街付近に移してはいるが、多くの日雇い適用事業とのコネクションは健在で、スキルテイカーに比較的ウマい仕事をいくつも紹介してくれた。そんなわけで、スキルテイカーはゲンさんに頭が上がらない。
で、そんなゲンさんが最近ハマっているというのが、某大手動画サイトの閲覧であった。
「な、スキさん。なかなかいいだろ?」
ネットカフェのカップル席でのことである。スキルテイカーの耳にヘッドフォンを押し付け、ゲンさんは満面の笑みで言ってきた。
正直、スキルテイカーにはボーカロイドの良さという奴がまったくわからない。人間のようで人間でない、上手いと言えば上手いがどこか無機質な声は不気味に感じるし、どちらかというと楽器の演奏か鳥のさえずりを聞いているようで、いまいち歌詞が聞き取れない。
「そ、そうだな。確かに、なかなかいいな……」
ただ、尊敬するゲンさんの手前である。スキルテイカーはこのように答えるしかなかった。
スキルテイカーの懐は寂しい。今夜の宿にも困る身であったところに、『俺がネットカフェおごってやるよ』との申し出がくれば、ホイホイついて行ってしまうのがスキルテイカーだ。だがまさか、こんな苦行が待ち受けているとは思わなかった。
「スキさん、腹減ってないか。ホットスナックの自販機でなんか買ってきてやるよ」
「羽振り良いなぁゲンさん。なんか悪いよ」
「気にすんなって。困ったときは助け合いだろ?」
「じゃあ、炒飯おにぎりと唐揚げの奴」
ゲンさんは『あいよー』と言って個室を出て行った。スキルテイカーは、鉤爪の生え揃った手で慣れないマウス操作に苦労しつつ、他の動画を閲覧する。先ほど、ゲンさんが見せてくれたボーカロイドの曲をたどっていくと、なかには人間が歌っているようなものもいくつか見受けられる。
スキルテイカーは、何のかんの言って先ほどの歌の曲自体はけっこう好みであったので、好奇心につられてその動画を開いてみた。
あんまり上手くないな。
正直な感想である。ただ、しょせんこんなサイトに投稿しているのは素人なわけだし、ボーカロイドの声よりはよほど聞き取りやすい。まぁ、あれはあれで、慣れればハマってくるものなのかもしれないが……。
動画に付けられたコメント数はそう多くなかったので、スキルテイカーは全部聴き終えたあと、『悪くなかった』とだけ打ち込んでおいた。金を払わずに聞ける曲なら、まぁ、こんなものだろう。
そうこうしてるうちに、ゲンさんがアツアツのホットスナックを持って戻ってきた。
「なんだ、歌ってみた動画を見てたのか」
ゲンさんが画面を覗き込んで言う。
「なんだそりゃ」
「おまえさんが見てるような動画のことだよ。自分が好きな歌をうたって動画にしてアップする。で、タイトルには【歌ってみた】とつけるから、歌ってみた動画だ」
さすがにこのサイトに入り浸っているだけあって詳しそうだ。とてもホームレス老人とは思えないネットライフの充実っぷりである。
「なんでそんなことするんだ」
「そりゃあ、聞いてもらいたいからだろ? 世の中にはいろんな奴がいるからな」
「聞いてみたけど、そんなに上手くはなかったぞ」
「それでも歌うのは気持ちいいし、聞いて褒めてもらえたらもっと気持ちいい。そういうもんだ」
ゲンさんから手渡されたホットスナックの箱を開きながら、スキルテイカーは『ふーん』とだけ応じる。開いた箱からはこもった熱気が立ち上り、ふたつの炒飯おにぎりとからあげがゴロンと顔を覗かせた。こんなものでも、スキルテイカーからすればご馳走である。
「ゲンさんも動画あげたことあるのか?」
「やりたかったが、録画環境や録音環境がなかった」
やりたかったのか。
「俺もなぁ、東京に来た頃はフォーク歌手を目指してたからなぁ。スキさんは知らないか。岡林信康とか」
「し、知らない……」
「フォークの神様なんだけどなぁ」
ゲンさんはそう言いながら、パソコンの操作に戻る。スキルテイカーとは打って変わって随分手馴れた手つきだ。マイページからマイリストを開き、適当な動画を選択して、またもスキルテイカーにヘッドフォンを押し付ける。スキルテイカーは紅い双眸を細めて苦笑いになった。
「またオススメの曲か?」
「そうだ。このPの曲はいいぞ。世界感が広くてだな……物語に奥行きが……」
ゲンさんは歯抜けの多い顔で神妙な表情を作り、滔々とボカロ曲の魅力を語り始める。
ひょっとして、一晩中ボカロ曲漬けだったりするのだろうか。スキルテイカーは、これならば一晩野宿をしたほうがマシだったかもしれない、と思い始めていた。
翌朝になり、スキルテイカーはようやく解放された。結局、一睡もできなかったのである。ゲンさんイチオシのボカロ曲を一晩中聞かされ、彼の脳内にはあの甲高い電子の歌姫の声が、延々と流れ続けていた。
「じゃあ、スキさんお疲れ」
「ああ、わりと疲れたよ……」
ゲンさんは皺だらけの顔をツヤツヤにして、スキルテイカーと別れた。
彼らの宿泊したネットカフェは、繁華街の中にある。キャバクラだのホストクラブだのが立ち並ぶこの周辺区域は、夜遅くまで様々な人種で盛り上がる反面、早朝はそれが嘘のように静まり返る。朝もやの中に昨晩の生ゴミ残りをあさりにくるカラス達が、この時間帯の主役だ。
スキルテイカーは肩をぐるぐると回しながら、今日一日をどうするか考える。
今日は特に日雇い労働に出かけるつもりはなく、かと言って、アビリキィに関する有力な情報を得ているわけでもない。ありていに言って、今日の予定は白紙であった。ひとまず、こんなところにいてもどうしようもないので、繁華街を抜けることにする。
繁華街の近くには公園がある。錆び付いたブランコと滑り台、それにトイレがあるだけのケチな公園で、深夜には『見られた方が興奮する』という、ちょっと変わった性癖のカップルが男女の営みに励む、大変教育上よろしくないスポットであった。
その公園を横目に通り過ぎようとしたスキルテイカーであるが、ふと足を止める。
彼の耳に歌声が届いた。それは、男の歌声であった。
一晩中ボーカロイドの合成音声を聞かされたスキルテイカーである。とっさに、その歌が、果たして人間のものとして上手いのか下手なのか、判断に迷った。一生懸命に歌っていることだけはわかる。
ただ、スキルテイカーにとって重要なのはそこではない。
アビリキィの気配があったのである。
才能を強奪するという、いささか傲慢な才能力を持つスキルテイカーは、アビリキィの気配に対して敏感である。それを使用している人間が誰であるのかまでは特定できないし、スキルテイカー自身がアビリキィを使用している間は、その気配を感じ取ることはできないが、それでもこの察知能力のおかげで、〝業を奪う〟ことを続けられていると言える。
今回スキルテイカーは、アビリキィの気配を敏感に感じ取った。それが、公園で歌っているあの男だという確証はない。だが、スキルテイカーはほぼ当たりをつける。真紅の双眸が極端に細められ、公園で気持ちよさそうに歌うその男を睨みつけた。
ヘタレホームレス・スキルテイカーは、この時、才能の強奪者・スキルテイカーへと変身していた。