2-5 『キーホルダー』
人の業を奪う怪物、スキルテイカー。
その存在を知る者は決して多くはない。彼が姿を見せるのは、尋常ならざる手段で才を切り開いた者の前だけだ。だがスキルテイカーは、そこに生じる不正を決して見逃しはしない。腕先に生え揃った鉤爪が、人の体内に潜り込んだ鍵を抉りとり、人々をあるべき姿に戻す。彼は残酷な裁定者であり、摂理の番人であった。
スキルテイカーの紅い双眸は、今や怒りに燃えていた。目の前には不二崎仁と、その腕の中でぐったりとし、何かにうなされている不二崎沙織。怒りの矛先は様々である。性懲りもなく娘に鍵を使った不二崎に、この不二崎に鍵を売った魔女に、あるいは、この一瞬に間に合うことができなかった自分自身に。スキルテイカーは割れたガラスを踏みしめて、一歩、また一歩と、薄暗い室内を歩いた。
「スキルテイカー、おまえがか……!」
不二崎仁が声をこわばらせ、幽鬼のような顔をさらに青く染める。
「魔女から話くらいは聞いているようだな。そうだ、俺が、スキルテイカーだ」
鉤爪の生え揃った指先をゆっくり掲げると、不二崎は沙織を庇うように抱き寄せた。
「茶番はよせ、不二崎。おまえに、その子の父親として振舞う資格はない」
紅い双眸には、不二崎の行いがそのように映る。
スキルテイカーからすれば、娘に対してアビリキィを使うこと自体が、許しがたい愚行である。ましてや、不二崎はその鍵によって何が引き起こされるかを知っている。ただただ己を満足させるために、娘を改造する男の行いにはおぞましささえ感じていた。
だが、
スキルテイカーの言葉は、彼の予想だにしなかった反応を不二崎から引き出す。
「おまえに……! おまえに、何故そんなことが言える!」
生気すら感じられなかった不二崎の瞳に、明確な感情の色が浮かび上がった。それは奇しくも、スキルテイカーが業を奪い取ってきた者たちと同じ表情である。自らの目の前に立ちふさがった理不尽な壁と、厳格なる世間の摂理を憎む、敗者の瞳だ。
スキルテイカーは歩みを止め、不二崎の瞳を真正面から睨みつけた。
「沙織を離せ。その子の中にある鍵を、すべて奪う」
「そんなことさせるか……!」
不二崎は腕の中の少女を、より一層強く抱きしめる。
「沙織も、鍵も、渡さない! この子は私の娘だ。私の……」
「黙れ!」
怪物は、いよいよ堪りかねた。燃えたぎる義憤の炎が口をつく。鉤爪は、不二崎の腕の中でぐったりとした少女を指した。
「その子を見ろ! ただでさえ身体と心に負荷のかかるアビリキィを、何本も宿して、無事でいられるはずがないんだ! おまえは娘を怪物にするつもりなのか! おまえは、娘をなんだと思って……」
「私は沙織を愛している!!」
だが、スキルテイカーの激昂は、それよりもさらに大きな不二崎の叫びによってかき消された。このやせ細り、衰えた男のどこにそれだけの声量を宿していたのだろう。言葉を遮られたスキルテイカーは、一瞬、次の語句を継げなくなる。そして、目を丸くしているのは、この怪物だけではなかった。
もはや意識など朦朧としているであろう沙織の顔は、驚きに満ちていた。まるで信じられない言葉を聞いたとでも言うように、彼女は父の顔を見上げていた。だが、スキルテイカーも不二崎も、その驚愕の中に潜むわずかな安堵と喜びを、読み取ることはできない。
不二崎はなおも続けた。
「何度でも言う。私は娘を、沙織を愛している! おまえに、私の何がわかる。スキルテイカー! 努力が報われず、妻に見捨てられ、会社に見捨てられ、世間の片隅でひっそりと忘れられたように生きる私の気持ちが! ただひとり、大切な娘だけが手元に残った私の気持ちが! せめて娘だけには、私のような惨めな生き方はさせたくないという、そんな父親の気持ちが! おまえにわかるのか! スキルテイカァーッ!」
不二崎の瞳には涙が浮かんでいた。
それはおそらく、娘にすら打ち明けたことのない本音であったに違いない。スキルテイカーは身動きがとれなかった。それでも男の言葉は、単なる自己満足に過ぎないものであると、否定しなければならないはずなのに。男の叫びは、スキルテイカーの脳みそから、反論の意思を跡形もなく消し飛ばしていく。
「この世界には、努力では埋まらない才能の格差があるんだ! 才能がないものは惨めに地面を這う。私は沙織に、そんな人生を歩ませたくはない!」
「そんなものは傲慢だ。親の勝手な……」
「娘の幸せを願うことの、何が悪い!」
「鍵を与えて、娘が本当に幸せになると思うのか!?」
「この私を見ろ、スキルテイカー!」
不二崎は、やせ細った己の姿を示して、なおも叫んだ。
「ならばこの私のような生き方をさせろというのか!? 娘に、地の底を這うような苦しみと屈辱を味合わせろと、そう言うのか!?」
「親ならば、自分の子供の才能を信じろ!」
「ああ、信じているさ! だがな、沙織は、私の子なんだよ!」
アパートの一室における、二人の男の幼稚な言い争いは、その瞬間わずかな停滞をみせた。不二崎の瞳からは、ぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ちていく。不思議そうに父親を見上げる沙織の顔に、涙が当たり、小さく弾けた。
「この、どうしようもなく無能な、私の、子なんだよ……!」
不二崎の言葉が、やがて絞り出すようなものへと変わっていく。
「この子が、私の遺伝子を受け継いでいなければ、どれだけ良かったと思う……! どれだけ幸せな人生を歩めたと思う……! だが、私がどんなに願っても、沙織は、私の子なんだ……! こんなどうしようもない父親のもとに生まれてしまった、私の子なんだよ……!」
男の言葉からは、苦悩と葛藤が滲んでいた。
すべてはスキルテイカーの見込み違いである。男は、この傲慢な社会とエリート達への復讐など、これっぽっちも考えていなかった。ただ愛する娘を幸せにしたいという一心で、幼い彼女に鍵を与え続けたのだ。才能さえあれば、きっと明るい未来が開かれるはずだと、愚かな思い込みのもとで、不二崎沙織を天才へと作り替えていった。
だがそれはやはり愚行だ。スキルテイカーは歯ぎしりをする。才能を得ても、決してそれが幸せにつながるとは限らない。ましてや、アビリキィによって拓かれた才能など。現に沙織は、鍵の副作用で倒れてしまっているではないか。
「それでも俺は、鍵を奪う」
スキルテイカーは、再び歩き出した。不二崎は沙織を抱き抱えたまま後ずさり、金切り声をあげる。
「やめろ! スキルテイカー、やめてくれ!」
その時、それまで一言も発さなかった不二崎沙織の身体に変化が起きた。全身から青白い光を放ち始め、目を見開いて大きく仰け反る。不二崎は異常に気づいて、にわかに狼狽する。
「沙織……!?」
まずい、とスキルテイカーは思った。神業化だ。
沙織の周囲に不可視の力場が発生する。非力な男くらい平気でねじ切ってしまいそうな強力なものだ。スキルテイカーは一気に駆け寄り、父と娘を強引に引き剥がした。暴走した力場が、スキルテイカーの腕を巻き込み、強引にねじ切っていく。
「ぐぅっ……!」
腕はちぎれたが、血は噴出さなかった。ねじ切られた右腕は、床に落ちると同時に、無数の鍵となって弾ける。だがそれは、すぐにスキルテイカーの肩に向けて飛び、突き刺さり、やがては結合して元の腕に戻った。
スキルテイカーがなんとか体勢を立て直した頃には、すでに不二崎沙織はそこにはいなかった。ただ、才能に飲み込まれた一体の怪物が鎮座している。
「見ろ!」
スキルテイカーは忌々しげに叫んだ。
「これがおまえの愚行が呼んだ結末だ!」
沙織が変化した神業は、複数のアビリキィが入り混じった結果、実に醜悪で巨大なものと化していた。
居間に鎮座した巨大な肉の塊から、腕が無数に生えており、塔のように積み上げられた塊のてっぺんに、沙織の上半身が埋め込まれている。生えた腕はわさわさと動きながら畳を這い、神業がゆっくりと移動を開始した。
急激な神業化の原因は想像がつく。父の本音を聞いたからだ。愛する父が、自分のためを思って渡してくれた鍵だと知ってしまったからこそ、沙織の中には鍵と才能への執着心が芽生え、結果としてそれを逆手に取る形で才能が彼女を取り込んだ。どのみち、ひとりの少女が複数の才能を御しきれるはずもないのだ。一度執着心が芽生えれば、このような結果に至るのは容易に想像ができていたことだったが。
最後のひと押しをしたのは、スキルテイカー自身だ。だが、あのまま放置しておくわけにもいかなかった。
スキルテイカーは、神業化した沙織に近づいていく。放たれた音波砲を跳躍で回避し、空中でくるりと回って重い蹴りを見舞う。確かな手応えと共に、巨大な才能のオブジェはバランスを崩した。
思った通りだ。複数の鍵が同時に埋め込まれているせいか、才能の統率が取れていない。スキルテイカーが自らに複数の鍵を差している状態とは、また状況が異なるのだ。スキルテイカーの場合は、彼自身が埋め込まれた複数の才能を制御することで統率を可能にしているが、才能それ自体が我を張っている神業では、互いに足を引っ張り合う結果にしかならない。
スキルテイカーは背後を振り向いた。不二崎仁は呆然としている。良かれと思っての結果がこうなのだから、当然か。苦々しい気持ちになる。だが、これで良いのだ。沙織から鍵を奪い、元の彼女に戻し、父と娘でささやかに暮らせばいい。少なくとも、二人の間にある愛情は本物だったのだから。
スキルテイカーは、床に倒れ込んだ神業に更なる追撃を加えていった。異形の全身には、徐々に鍵穴が浮かび上がってくる。こうなれば、あとは簡単だ。沙織の体内から、鍵を引きずり出す。スキルテイカーは鉤爪を鳴らした。
「やめろ、スキルテイカー……」
不二崎は力なく呟く。スキルテイカーは無視した。
神業に生じた鍵穴に、鉤爪を突き刺しアビリキィを引き抜く。ずるり、という音がして鍵が抜け、神業の肉体を構成する一部が粒子状に霧散した。さらにもう一本。スキルテイカーは容赦なく、淡々と沙織の身体からアビリキィを引き抜いて行った。
神業の身体は、徐々に沙織らしい形状を取り戻していく。彼女の身体に見える鍵穴の数が、残り三つとなったとき、スキルテイカーの足元に不二崎がすがりついた。
「もうそれ以上、沙織から才能を奪わないでくれ……!」
「いい加減にしろ!」
スキルテイカーは苛立ちもあらわに怒鳴り返す。
「まだそんなことを言っているのか! おまえが作り出したのは怪物なんだぞ!」
「たとえ怪物でも、私の娘だ!」
まとわりつく不二崎の身体を強引に引きずって、スキルテイカーは次の鍵穴に鉤爪を突き刺す。
「なぜだ、どうしてだスキルテイカー! どうしておまえまで、私の邪魔をする! 娘に才能を授けたいという、ささやかな願いも聞いてくれないのか!」
鍵穴からアビリキィを引きずり出した。残り二本。
「おまえこそ何故わからない! こんな姿になって、娘が本当に幸せをつかめると思っているのか!?」
「人並み以上の才能さえあればな! 私はそんな世界を嫌というほど見てきた! 才能のない人間の末路が、おまえの足にしがみついているみっともない男なんだよ!」
果たして議論は虚しくも平行線をたどる。愚かで醜く、そして虚しい言い争いを止める者はいない。スキルテイカーも、不二崎も、本当のところを言えばわかっているのだ。自身の言い分に潜む、忌むべき未来の可能性を。
スキルテイカーが鍵をすべて奪った結果、沙織は惨めな暮らしを強いられるかもしれない。
不二崎が鍵を与えた結果、沙織は怪物と化し人間として生きていくことができなくなるかもしれない。
では、この哀れな少女の幸福とは、いったいどこにあるというのか。
不二崎はやがて、スキルテイカーの腕にしがみつき、しかしスキルテイカーはそれを振り払って、鍵穴に鉤爪を差し込んだ。残り一本。次のアビリキィを引っこ抜けば、すべてが終わる。
「やめろ! スキルテイカー、やめろ!」
もはや議論をする気さえ、スキルテイカーには起きなかった。
体内に宿すアビリキィが残り一本となった沙織は、ほぼ元の姿に戻っている。ただ、全身はどこか金属質の光沢を帯び、腕の形状も大きく変質していた。鍵穴は額にある。スキルテイカーは、そこを目掛けて、鉤爪を伸ばした。
「こんな私が、娘にあげられるたったひとつのものだったんだ! スキルテイカー!」
鉤爪が、鍵穴へ届こうかという、その一瞬。閉じられていた沙織の両目が、ぱちりと開いた。スキルテイカーの指先が止まる。
「お父さん……」
少女の目に、ボロ切れをまとった怪物の威容は映し出されていない。彼女は、ただまっすぐ、みっともなく地面を這う父親を見ていた。異形化した腕を弱々しく差し出し、不二崎仁の手をつかむ。
「沙織……!」
「お父さん……、うれしい。ありがとう……」
まさか。
スキルテイカーは自身の心臓が跳ね上がるのを感じた。神業化は、才能に自身の意識を覆い尽くされることで発生する。すなわち、神業化した状態で、宿主の意識が戻ることなどありえないのだ。
たったひとつの例外を除いて。
「馬鹿な! やめろ、沙織!」
今度は、スキルテイカーがその言葉を吐く番だった。
「そんな決断は間違っている! たくさんのものを失うんだぞ! 鍵を手放せ!」
「嫌です」
沙織の額にある鍵穴から、しゅうしゅうと煙がのぼるのがわかる。きょとんとした不二崎を尻目に、スキルテイカーの焦燥はいよいよ本格化した。
「どうしてだ! そんなに才能が……」
「お父さんがくれたものだからです。私が大好きなお父さんが、私を大好きなお父さんが、くれたものだから……」
やがて、沙織の額から鍵穴が消えた。スキルテイカーの紅い双眸が、驚愕に見開かれる。彼はかすれた声でつぶやいた。
「才能が……癒着した……」
アビリキィによって拓かれた才能を、自分のものにする唯一の方法がある。
才能の癒着、あるいはキーホルダー化と呼ばれるそれは、才能に対する強い依存心と、それを明確に制御できるだけの強い意思を必要とするが、それは決して安易に才能を得るための手段ではない。神業化による暴走を避けられるという、ただそれだけのことであり、才能を拓く代償として失われたものは、もう二度と戻ってはこない。
そして、その異形化した姿から元に戻ることも、決してない。
スキルテイカーは、拳を握り壁を叩いた。不二崎は沙織を抱きしめ涙を流し、沙織は父の思いに応えながら、強い敵意をにじませた瞳でスキルテイカーを見ている。最後の最後で、沙織は自ら怪物となる道を選んだのだ。
「愚かだ……!」
「ええ、愚かよ」
スキルテイカーの吐き出した言葉に、鈴を転がしたような声が答えた。
全身をゴシックロリータファッションで包み、室内だというのに日傘をさした少女が、いつの間にか立っていた。口元には厭世的な微笑み。サファイヤのように透き通り、しかし底の見えない蒼の瞳が、この一部始終を映し出しているようであった。
チート売りの魔女は笑う。
「娘の才能が信じられなかった父親と、父の愛情が信じられなかった娘。実に愚かだわ。でもね、スキルテイカー。二人の互いを思う気持ちを否定することができるかしら? 人の気持ちを理解できない、あなたに」
スキルテイカーが双眸に燃えたぎらせる炎は、行き場のない怒りとなって、やがては魔女に向けられる。
「沙織はキーホルダーになったんだぞ! 彼女は怪物として一生を過ごすんだ! これが、沙織にとって本当に幸せだと思うのか!?」
「それを決めるのはあなたではないわ。スキルテイカー、おとなしく負けを認めなさい」
スキルテイカーは、もう一度拳を壁に叩きつけた。安アパートがずしん、と揺れる。
両者のやり取りを傍から見つめていた不二崎父娘に、やがてチート売りの魔女はそっと歩み寄る。彼女は優しく微笑むと、金属的な光沢を宿した沙織の髪を、いとおしげに撫でた。
「よく才能を自分のものにできたわ。がんばったわね」
「あの……」
「これからのあなたの人生は、きっと苦難に満ち溢れているでしょう。あなたは人間を辞めたのよ。神の業を得るというのは、そういうことなの。でも、自ら選んだ道だということを忘れないで。あなたが幸せな道を歩めるかどうかは、あなた次第よ」
沙織は、魔女の言葉をいまだによく飲み込めていない様子だ。魔女は次に、その父親へと視線を移した。
「不二崎、取引はもうおしまいよ。せめて娘が不幸を感じないように、愛してあげなさい」
「……あぁ」
不二崎仁はそれ以上、何かを言おうとはしなかった。ただ、異形と化してしまった娘の背中を、優しくさすっている。
魔女は最後に、再びスキルテイカーへと向き直った。彼は壁に拳を打ち付けた姿勢のままうなだれ、まんじりともせずにいる。魔女はしばらくその背中を見つめ、どこか寂しげな表情を作ったが、すぐにいつもの厭世的な笑みを取り戻すと、日傘をくるりと回して、父娘に別れを告げた。
「それでは、ごきげんよう」