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スキルテイカーとチート売りの魔女  作者: 鰤/牙
episode 1  スキルテイカーとチート売りの魔女
1/31

1-1 『魔女』

『あなたの才能の扉を拓く』


 その言葉に魅せられた者は多い。ある企業のキャッチフレーズでもなければ、自己啓発本の帯に書かれた文句でもない。漫画やアニメの台詞でもなく、胡散臭いカルチャースクールやセミナーの勧誘でもなかった。ただ、自然に生まれ囁かれる、都市伝説の一節。才能を売りさばく魔女が唱える、もっとも魅力的なフレーズ。

 茅ヶ崎由莉奈ちがさき・ゆりなは、サークルの飲み会で『チート売りの魔女』の話を聞かされた。彼女に話をしてくれた先輩はだいぶお酒が回っていたし、ときおり前後不覚に陥るほどの有様であったが、その饒舌さだけは失っていない。最初は話半分に聞いていた由莉奈も、次第に彼のトークに飲み込まれて、やがては真剣にその内容を吟味するほどになっていた。


 人は誰でも、幾多の才能スキルを眠らせている。だがそれに気づき、開花させて行くものはそう多くない。『チート売りの魔女』は、眠った才能の扉を開ける『鍵』を持っており、彼女から『才能を買う』と望んだ者は、もっとも欲していた才能の扉を開けてもらえるという。開けてもらった才能はみるみるうちに成長し、やがては神業チートと呼ばれる程になる。そうして、魔女に見初められた者は、成功を収めることができる。

 真剣に考える反面、胡散臭い話だな、と由莉奈は思った。都市伝説なんてそんなものだと言えば、そうだが。望んでいた才能が、自分の中に眠っていなかったらどうするのだろうとか、魔女が才能の代わりに要求してくるものが何であるかとか、そういった部分が気になってしょうがない。だいたい、こうした話には、何やら教訓めいたオチがついて終わるはずであったが、先輩の話にはそれもなかった。


「もしかしたら、本物なのかもしれないねぇ」


 酒で顔を真っ赤にした先輩は、そう言ってげらげらと笑った。


「でも、ユリちゃんだって気になるだろ?」

「はぁ」

「聞いたよー。高校の時、空手部でインハイまで行ったんだって? 何でこんな飲みサーなんかに来ちゃったの?」


 正直、そこはあまり、突っ込んで欲しい部分ではないのだけど。相手はいかにも『大学生活楽しんでます』と言った風貌のちゃらちゃらした先輩である。彼に悪気はないのだろうし、実際、笑顔にはイヤミも見られなかった。

 何で。と、言われてもな。

 由莉奈は、飲み屋の2階に設けられた、この24畳の和室を見回した。城南大学のテニスサークルの実態が、単なるコンパサークルであるというのは割と有名な話である。由莉奈も知らなかったわけではない。むしろ、だからこそ入った、という方が正しいかもしれない。由莉奈は、大学ではスポーツをやるつもりにはなれなかった。


「まぁ、先輩には関係のない話です」

「またまたー。そう言ってユリちゃん……うっぷ……」

「飲みすぎですよ」


 やんわりと、先輩からビールジョッキを取り上げる。彼の話にはまるで取り合わない風を装いつつも、由莉奈は、先輩の言葉によって呼び起こされた、ほんの2年前までの記憶を辿り始めていた。


 才能という点に関して言えば、自分は、あまり恵まれていたとは言えなかっただろう。

 だから、『才能の扉を拓く』という言葉に、少し魅力を感じてしまうのは確かにわかる。自分に、もっと才能があったなら。由莉奈は、自然と左手で右腕を抑えていた。才能があったなら、自分は、もう少し先を見ていられたかもしれない。

 でも、もう終わったことだから。由莉奈は、そう考えて、湧き上がりかけた感情を無理矢理に押さえ込んだ。諦めたのは自分だから。もう、夢を追う資格なんてない。才能が欲しいなんて甘えだ。


 せっかく大学に入ったのだ。もっと違うことをしてみたい。新しい友達を増やして、新しいことにトライする。それで良いじゃないか。今まであまりやったことのない、オシャレにだって手を出してみた。思っていたよりも、女の子らしくなったと思う。

 みんな自分の知らない人間で、自分を知らない人間であるということが、由莉奈にとっては気楽だった。大学デビューという言葉もある。そこまで大袈裟であるつもりはないが、ここは心機一転。生まれ変わった気持ちで大学生活を謳歌したい。そう思っている一年生は、自分以外にもいるはずだ。


「なんかユリちゃん、機嫌悪くした?」


 先輩が酒の回った顔でたずねてくる。別にそういったわけではないんだけど。ただ、つまらない顔はしていたかもしれない。


 飲み会のテンションから一歩引いた立ち位置にいるのは認めよう。バカ騒ぎに乗じきれないところだけは変わっていないのだ。思い切りも必要だが、手元ですっかりぬるくなったビールジョッキを一気にあおるだけの勇気は、まだ由莉奈にはない。なにせ未成年である。


「夜風にでもあたりにいく?」

「私はいいんですけど、先輩はそうした方がいいかもしれませんね」

「じゃあちょっと付き合ってよー」

「まったく……」


 自分以外の誰かを誘えばいいではないか、と思いつつも、ついていってしまうのが茅ヶ崎由莉奈の人の良さか。


 新人歓迎会の時期である。店前に出れば、既にすっかり出来上がったフレッシュマン達が、肩を組んで往来を歩いている。酒が回っているのは彼らだけではなく、それを後見監督せねばならない立場の、先輩学生・先輩社員も同様だ。シラフを保っている人間は見当たらない。自分の方が異質な存在に感じてしまうが、反面、ああいった風には見られたくないなとも思う。

 それとも、酔っ払った先輩に肩を貸しながら出てくる時点で、やはり同じように見られるだろうか。


「あー、やっぱまだ寒いなー」

「四月ですから。コート、貸します?」

「いや、良いよ。ユリちゃんも冷えるでしょ」


 そう言いながらも、先輩は夜風に身を縮こませる。彼がポケットからタバコを取り出すのを見て、由莉奈は少し距離を開けた。


「タバコいや?」

「家では誰も吸わないので」

「真面目ちゃんなんだ」


 先輩がニヤニヤと笑う。当然、由莉奈もあまり良い気分ではない。


「で、どうなの?」

「何がですか?」

「チート売りの魔女の話」

「チートって言葉自体が、なんかチープであまり好きじゃないですね」


 由莉奈ははぐらかすように、しかし本音を呟く。そんな彼女の様子を見て、先輩は調子のいい笑顔を浮かべたままタバコをふかした。


「また空手をやりたいって、思わないの?」

「……!」


 それまで話半分に聞いていた先輩の話だが、その言葉だけは無視ができない。由莉奈は、思わず険しい表情となっていたことだろう。顔をあげて、先輩を睨む。敵意を込めたつもりはなかったが、毛先の立つような感情だけは隠しようがなかった。


 由莉奈の右腕が、じくりと疼く。この先輩は、どこまで話を知っているのだろう。


「もう、終わったことですから」


 先ほど、心の中でつぶやいたひとことを、由莉奈は口にした。これ以上、こちらの話題を引っ張りたくない。由莉奈は反撃をするつもりで、先輩に対して同じ問いかけをする。


「先輩は、どうなんですか?」

「うん?」


 春先の冷えた夜空にタバコの煙を吹き出して、先輩は振り向いた。


「『才能』の扉を開いてくれるんでしょう? 先輩は何かないんですか?」


 言いながら、由莉奈はなんでこんな御伽噺に対して、ムキになるような口調になっているのだろうと思う。


「『才能』かぁー……」


 彼のチャラチャラとした笑顔に変化はなかった。だいぶ短くなったタバコをくわえ息を吸うと、その先端部が熱を帯びて赤く光る。その横顔に滲む感情を読み取れるほどに、由莉奈はこの先輩と深い付き合いをしているわけではない。ただ、宵闇に潜んだ笑顔の中には、一抹の寂しさがあるようでは、あった。


 その意味を探ろうと食い入るように見つめる由莉奈だが、先輩はそれを牽制するかのように言葉を発した。


「もうちょっとこう、上手に女の子をコマせるようになりたいんだけどなー」

「比較的最低ですね」


 何かをはぐらかすような態度であることは、由莉奈にもわかった。が、それ以上追及するつもりにはなれない。代わりに、ふと浮かんだ疑問を口にした。


「その『魔女』って、どうやれば会えるんでしょうね」

「なんか、才能欲しいって強く思ってれば来るらしいよ」

「肝心なところが雑な設定ですね……」

「都市伝説ってそういうもんだし」


 『チート〝売り〟』だからと言って、堂々と露店やインターネットショップを構えられていてもありがたみがないのは確かか。そこはやはり、『魔女』の神秘性を高めるために、そうしておくのが良いのかもしれない。由莉奈はちょっとだけガッカリした。具体的に会う手段がないのであれば、真偽の確かめようはない。


「じゃあ、先輩が本気で女の子と仲良くする才能があると思ったら、来るかもしれないんですね」

「そうだねぇ。そしたらまずユリちゃんに声かけるよ」

「やめてください」


 本気を込めたややキツめの口調で返してしまう。先輩は、ちょっとだけ傷ついた顔をして、タバコを携帯灰皿に押し込んだ。





 結局、飲み会は深夜まで続いた。由莉奈としてはさっさと途中で抜け出してしまいたかったのだが、なんだかんだで最後まで残ってしまう。結局、特定の誰かと親睦を深めたわけではなく、テンションに乗じ切れなかったこともあって、後悔じみたしこりだけが心の中に残った。出だしからこんなで、大学生活は大丈夫なんだろうか。いささか不安だ。

 由莉奈に『魔女』の話をしてくれた先輩はと言えば、せっかく夜風で頭を冷やしたにもかかわらず、戻ってそうそうビールの大ジョッキを飲み干して、終わる頃にはべろんべろんになっていた。救えない、と思いつつ、由莉奈は畳の上に寝っころがった先輩を見下ろす。


「こいつ、どうしようか」


 比較的意識のしっかりした他の先輩達が、由莉奈と同じように彼を見下ろしていた。


「さすがに、この時期に路上放置は、ねぇ」

「凍死はしないだろうけど風邪引きそうだな」


 ここで、誰ひとりとして家に送ろうと言い出さないあたりが、ちょっと冷たいんじゃないかと感じる。

 そう思った矢先、先輩の中のひとりが、転がった彼のポケットをまさぐり、財布を取り出した。会費の徴収かと思ったらそうでもないらしい。中から免許証を取り出して、住所を確認している。


「あー、こいつのアパート、俺んちと反対だなー」

「どこなん?」

「赤羽のほう。志茂二丁目だって」


 近所だ、と、由莉奈は不意に思ってしまった。彼女の賃貸アパートも北区志茂二丁目である。

 長居してしまったのは、やはり失敗だと思った。聞いていなければ気楽に帰れたのだが。この場にいる先輩たちは、誰も彼も帰宅方向との方角が合わないとして、あまり彼を送ることに積極的ではない。由莉奈は物事の進行が滞ることに苛立ちを感じるようなタイプではないのだが、この時、自分が申し出ることが一番効率が良いと思ってしまうと、もうその案を引っ込めることはできなかった。


「あー、あの」

「ん?」

「どうしたの? 茅ヶ崎さんだっけ」

「私も志茂の二丁目なんで。私が送りましょうか」


 由莉奈は曲りなりにも新一年生女子である。彼女に酔っ払った男を家まで送らせることに対して、遠慮の声が上がることも期待したのだが、


「そう? 悪いね」


 出なかった。

 まぁ如何に相手が男であるとは言え、前後不覚に陥るほどに酔っ払った人間を相手取ってどうこうされるつもりもないので、妙な心配も要らないのだが。筋力の衰えだけは不安要素ではあるか。


「鍵は多分これだよ。玄関開けたらそこに放り込んじゃって良いから」

「タクシー代もこいつの財布から取って良いよ」


 先輩がたの言動は、気を使っているのかいないのかわからない。サークル内の結束自体はあまり強くないんだろうなということは、おぼろげにわかる。飲み会サークルだからこうなのか、それとも大学のサークルがそもそもそういうものなのかは、知らない。

 ともあれ申し出てしまった以上は引っ込められない。由莉奈は酔っ払った先輩を家まで送ることになる。飲み会シーズンなこともあって繁華街を行き交うタクシーは多く、他の先輩たちは女の細腕を心配してか、タクシーを捕まえるまでの間はこの酔っ払いを運んでくれた。


「じゃあまた月曜にねー」

「襲われないように気をつけてねー」


 軽い挨拶と共に、別れを告げる。後部座席に件の先輩を乗せ、由莉奈はタクシーの助手席に座り込んだ。


「彼氏さんですか?」

「とんでもない」


 タクシー運転手の言葉を軽く払いのけるが、説得力はないなと思う。飲み会の流れで全員の判断力が鈍っていたとは言え、女子がひとりで男を家まで送り届けるというのはいささかまともな話ではないだろう。だが、ここで路上に放置するのも冷たい話だと思えば、由莉奈の選ぶ道はひとつしかない。


「北区の志茂二丁目までお願いします」

「はいはい。詳しい住所わかります?」


 運転手はカーナビを操作しながら言った。由莉奈は無言で、先輩の免許証を見せる。タッチパネルの操作が苦手そうな運転手は、しばらく苦戦した後に入力を追え、ようやく料金メーターを入れた。


 タクシーが発車する。由莉奈の難しい顔に気づいてか、運転手はあまり話しかけてこようとはしなかった。彼女としては、何かしゃべりかけてもらったほうが気は楽だったのだが、こちらから話題を作れるほど器用でもない。自然と、意識を思考の迷路に放り込む。

 意識の片隅には、ずっと『チート売りの魔女』の存在があった。飲み会の席で聞いた、ほんの他愛のない作り話。それが異様に気になってしまうのは、話をしてくれた当人が後ろでいびきをかいているからなのか、それとも。


 先輩はなぜ、あんな話を自分にしてくれたのだろう。高校時代の自分の話を聞いて、面白半分にからかってきたのだろうか。確かに、半年前の自分ならすがりつきたくなるような、夢のある話だっただろう。だが幸いにもというべきなのか、情熱は薄れている。まだ右手が疼くときはあるし、時折正体不明の焦燥感が心を苛むこともあるが、その程度だ。

 『才能』の扉か。チート売りの魔女は、才能を欲する者の前に現れるという。もしも魔女がいま、由莉奈の目の前に姿を見せるのなら、彼女はいったい、どんな才能の扉を開けてくれるのだろう。過去に焦がれた空手か、それともその空手と決別するための、新しい世界を見せてくれるのか。由莉奈は自分がいま真剣に欲しているものの正体さえわからない。


「到着しましたよ」


 タクシーの運転手がそう言って、由莉奈はふと我に返った。料金メーターを確認し、自分の財布から支払う。あとでその半分は、先輩の財布から抜き取らせてもらうが。

 後部座席から酔っ払いを引っ張り出して、背負うようにして道路に出る。タクシーの運転手はしばらく心配そうにこちらを見ていたが、しっかりとした足取りの由莉奈を見て、やがて安心したように車を発進させた。


 重心の取り方に関しては、さすがに昔取った杵柄である。自分よりもやや背の高い男を背負いながらも、由莉奈の歩調に危なげは無い。が、それはそれとして、意識の無い人間はやはり重い。肩越しにかかる息も酒臭く、由莉奈もさっさと送り届けを済ませてしまいたかった。


「意識がなくなるくらいなら飲まなければ良いのに……!」


 自然と悪態をつく。タチの悪いことに先輩の部屋はアパートの2階だった。さび付いた外付けの階段を上り、ようやく部屋の前まで来る。預かった鍵で扉を開けると、ようやく真っ暗な部屋に踏み込める。外気温とさして変わらない、肌寒い部屋ではあったが、周りに壁があるというだけで安心感はあった。

 明かりをつけ、靴を脱いで上がりこむ。さすがに玄関に放置するのは気が引けた。

 そこらじゅうにカップラーメンのゴミやら漫画雑誌やらが放置された〝男の子〟らしい居間だ。床のゴミを足で払いのけて、由莉奈は先輩の身体を下ろした。ため息をつく。押入れをあけて毛布を引っ張り出し、のんきにいびきをかく先輩の上にかけてやる。


「ふぅ……」


 ミッションコンプリートだ。さっさと帰ろう。鍵は……わざわざかけるまでもないか。ちゃぶ台の上にでも置いておく。

 他の先輩がたは冗談交じりに襲われる心配なんかをしていたが、驚くほどあっさりしたものだった。由莉奈は玄関に戻り、スニーカーを履きなおす。気取ったパンプスなんかではなくてよかった。


「お邪魔しまし……」


 灯かりを消し、ドアノブに手をかけた瞬間、由莉奈の視界に飛び込んできたものがある。薄暗い部屋の中ではっきりとはしないが、キッチンの片隅に立てかけられたそれは、テニスラケットであるように見えた。テニスラケットだ。

 自分の所属しているサークルがテニスサークルであることを思い出す。が、それはあくまで名目上の話だ。城南大学のテニスサークルでまともにテニスをしている学生など一人としていない。当然、ラケットを買っている人間なんかいはしない。


 もちろん、買っていたからといってなんだという話ではある。だが、由莉奈が気になったのは、ラケットと共に無造作に放置された四角い板。額縁のように見えるそれは、近づいてみれば……、


 いや、やめよう。


 由莉奈はかぶりを振った。これは詮索してはいけない部分であるように思う。自分は、詮索して欲しくはなかった。先輩もそうであるはずだ。だから、追及はしない。


「お邪魔しました」


 改めてそう言って、部屋を出る。足早に階段を降りる。かん、かん、という冷たい音が、春先の夜空に無機質に響いた。湧き上がる考えを無理やり頭の外に追い出して、由莉奈は薄暗い住宅街を歩いた。

 同じ町内なだけに、このアパートが自分の家から見てどのあたりにあるのかは、すぐに思い当たった。途中、自動販売機を前に立ち止まる。疲れた。コーヒーでも買おう、とポケットに手を当てて、由莉奈は眉をしかめた。財布がない。


 振り返ると、そこにはついさっき出たばかりのアパートがある。タクシー代を払うときまでは持っていたのだから、落としたのだとすれば間違いなくあのアパートだ。だが、急いで出てきたばかりのあの部屋に戻るのは、いささか気が引けた。

 いや、それでも戻るしかないか。この土日を財布なしで過ごすのはキツいし、先輩が起きているときに部屋にお邪魔するのは、もっと気まずい。何より、あの台所に置かれたテニスラケットと四角い板を、明るい時間帯に見かけてしまうようなことは避けたかった。


「はぁ」


 由莉奈は、出てきたときとは対照的に、重い足取りでアパートへ戻る。今日はなにやら散々だな。


 部屋の前に戻り、扉を開け、玄関に踏み込む。意識の片隅のテニスラケットのことがあるから、ここで電気をつける気にはなれない。


「お邪魔しまーす……」


 目を凝らしながら、上がりこむ。財布を落としたとすれば、先輩を寝かせて毛布をかけたときだと思うのだが。

 居間に意識を傾けた瞬間、由莉奈は、猛烈な違和感を覚えた。その正体はすぐに発覚する。中に人影がいたのだ。先輩のものではない。寝転がった先輩の枕元で、しゃがみこんでいる人影だ。

 まずい、と思った。物取りだろうか、と思った。鍵をかけずに出たところを見られたのか、と思った。身体が自然に空手の構えを取る。だが、その考えはすぐに打ち消される。その人影は、異様に小さかったのである。


 身長にすれば150センチをようやく超える頃だろう。ただの物取りにしては、シルエットにも違和感があった。由莉奈は頭上に浮かんだ疑問符を打ち消せない。それは、なにやら幼い少女のように見えたのだ。


 カーテンの開かれた窓ガラスの向こう、雲の隙間から月明かりが覗く。部屋の中に、青白い光が差し込んだ。


「………あら?」


 少女の発した声音は、その月明かりを思わせるほどに繊細で神秘的である。

 少女の年頃は、十代の前半に見えた。照らし出されたのは、黒を基調としたゴシックロリータ・ファッション。室内であるのにレースのついた傘を差している。生活ゴミの散乱する先輩の部屋にはとうていそぐわない少女の出で立ちが、なおさらに由莉奈の混乱を加速させた。この少女は誰だ。何故ここにいるのだ。先輩の枕元で何をしていたのだ。

 先輩は相変わらず寝息を立てたままだ。由莉奈の存在にも、少女の存在にも気づいていない。


「あの、君は」


 由莉奈がなんとか状況を整理しようと、辛うじて発した言葉だった。少女は『くすり』と小さな笑みを浮かべて、由莉奈のほうへと歩いてくる。由莉奈の発言には応じようとしない。


「今日は素敵な夜だわ。二人もお客さんにめぐり合えるなんて」

「お、お客さん……?」


 少女の声自体はとても幼いが、紡がれる言葉にはどこか大人びた艶がある。ミスマッチだ。

 少女は、再び『くすり』と笑った。


「そうよ。私は、あなたの望んだものをひとつ、提供することができるわ」


 そう言って少女が右手を掲げると、彼女の掌に青白い炎が生じる。まるで手品だ。炎はやがて鍵の形に収束していき、少女の小さな掌にぽとりと落ちた。由莉奈はその幻想的な光景を、息を呑んで見つめるだけだ。


 少女は、その鍵を由莉奈に向けたまま、妖艶な笑みと共にこう言った。


「私は『魔女』。あなたの、才能の扉を拓く」

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