4話
屋上へ連れ出されてから、三日経過した四時限目。
終盤を迎えつつある授業の中、遊真は黒板に書き記された数式をノートに書き写しながら欠伸をかみ殺す。
あれから天宮鈴音とは軽い挨拶こそ交わすものの、込み入った話をする機会は得られていない。避けられているわけではないのだが、正体が見えない以上不用意に近づくのも憚れ、世間話すらする気が起きなかったのだ。
彼女も聞きたいことが聞けた以上「これ以上の用は無い」と言わんばかりに、再び声を掛けてくる様子もなく、独り自席にて大人しい生徒を装っている。
無論、父親にも一切合財の報告を上げたのだが、「そうか」となんとも気の抜ける返事が返ってきただけに留まった。
肝心の倉科涼子も、今のところ学園生活において特筆すべき点は見当たらない。
実に古めかしい口調と少々神経質な印象を受けるのは気になるが、それでも間違いなく美人の部類に入る若い女教師である。既に一部の生徒からは受け入れられており、また、クラスを率いる担任教師としても、本当に新人教員なのかと疑いたくなるような堂の入った教職者ぶりだった。
つまり、入学式当日と前夜こそイベントに巻き込まれたが、それから今日に至るまではそれはもう至極平穏な毎日だったのだ。
今の自分は父親の思うところの監視という役目を果せれているのか。注視すべき部分を見逃しているのではないか。このまま何事もなく平凡な学園生活を維持し、すんなり卒業を迎えてしまうんじゃないか。
そんな不安が頭を掠めた時、四時限目の授業の終焉を知らせるチャイムが鳴り響く。
同時に、共鳴でもしているのか「ぐう」と抗議の声も遊真の耳を振るわせる。
どうも遊真の腹の虫はこの学園の学食に早くも餌付けされたようで、時間厳守を切実に訴えてくる。四時限目の後が昼休みだなどと教えた覚えもないのに、だ。
しかし、吝かではない。
空腹は思考をマイナス方面へと傾倒させ易い。脳を切り替えさせてやるためには、まず満腹中枢を刺激してやるべきだろう。
胃袋の意見に賛同し、授業の終わりを告げた初老の数学教師の退室を見届ける。続いて机に広げた筆記具を手早く片付け、さてランチを、と立ち上がろうと腰を浮かせかけたところで、「ゴンッ!」と臀部から脳天に掛けて垂直に持ち上がるような鈍い衝撃が走った。
そこそこの衝撃だが、驚きこそあれ痛みはない。
恐らく椅子の座面を真下から蹴り上げられたのだろう。
そんな芸当が可能なのは真後ろの席以外は考えられず、水平に振り向き、直ぐに視線を下に落とされた。
そう、未だ遊真の腰は椅子に預けられたままなのに、更なる下方修正を余儀なくされたのである。
「葛城遊真、だったっけ?」
着座姿勢のまま身体を捩った遊真を見上げる姿勢で迎え撃ったのは、遊真の席の一つ後ろに座る、満面の笑みを浮かべた小さな少女だった。
遊真がどうしようもなく違和感を感じるのも致し方ない。あまりに幼く、そして小さすぎるのだ。その容姿たるや義務教育を四、五年はすっ飛ばしてきたかのようなのだが、同じ社台学園のブレザーに身を包んでる以上、同級生なのだろう。
「ねえ、あんた最近恨まれるようなことした?」
藪から棒な物言いに面食らうが、少女の言葉が指す物騒なことに身に覚えはない。
即座、首を振って否定する。
「ふーん。ま、いいわ」
何のことやらさっぱりだが、彼女としてもさして重要ではなかった事柄のようで、えらく簡単にその話題を打ち切り、そして、
「で、今からランチに行くんだったら一緒にどお?」
と続けたのだった。
女子から食事に誘われるなど光栄の極みだが、幼女趣味を持ち合わせていない遊真にとっては素直に喜べない。だが、お守り、と大変失礼な単語を浮かべ直ぐに掻き消しながらも、その突然の申し出に、
「あ、うん、いいよ。じゃあ行こうか」
と愛想良く即答していた。
決して保護欲がそそられたわけでなく、ロリに目覚めたわけでもない。
確かに愛らしい顔の造りはしている。
しかし、整った眉は不敵に傾き、双眸は他者を射竦める威力を秘めた輝きを放ち、両サイドで一本ずつに纏めた栗色の髪があどけなさを演出して幾分インパクトを緩和しているが、隙あらば何か仕出かす、そんな不穏な気配をその小さな身体から多分に溢れさせているのだ。
何しろ人を振り返させるのに、声や手でなく足を使うような相手だ。
脊髄反射で認定した要注意人物。
機嫌を損ねるような事態になっては、それこそ毎日背後に怯えなければならない。ならば、話しかけられてしまった以上、遠ざけるより取り入る方を選べと、遊真の本能がそう応えさせていた。
「惑井流星よ。流星って呼んで。あたしも遊真って呼ぶから」
流星と名乗った少女は腰を上げるが、やはり遊真の目測は正しく、彼女の頭頂部は共に立ち上がった遊真の視線の下を大きく潜っていた。推定百四十五センチ以下、といったところか。
しかし、見た目小学生が同じクラス、しかもすぐ付近にいるとは今まで全く気付かなかったのは何故だろう。
そんな遊真の顔を下から傲然と見上げた流星は、腰元まで真っ直ぐ伸ばしたツインテールを揺らし、
「やっぱり。後ろの席にいるのがあたしって、今始めて知ったような顔してるわね」
と容赦なく痛い指摘を食らわす。
「あ、いや。まさか……、ははは」
「あんた、近くに担任がいれば凝視し、いなければいないで天宮とやらにご執心。授業中もボケ~ってしてる時間が大半だったのはわかってんだからね」
よく観察されてるな! と思わなくもないが、よくよく考えれば彼女の席はすぐ後ろ、遊真の生態が常々目に入ってしまうのも自然の流れと言わざるを得ない。
「そろそろ話し相手の一人や二人作らないと、クラスの中で孤立するわよ」
だからあたしが友達になってあげるわ、とでも言いたげな押し付けがましい笑みを見せ付けられては、遊真は苦笑を浮かべずにはいられなかった。
余計なお世話と言いたい。しかし、彼女の遠慮の無い指摘も一理ある。今後三年間、担任の動向ばかり窺っているのも不自然で、ある程度はクラスに馴染み、この学園の生徒として溶け込んでおくべきだろう。
この流星という少女が、その友人役に適任かどうかは別として。
そんな遊真に構わず、
「まあいいわ。さ、込み合う前に早くいきましょ」
流星は小さくも尊大な背中を見せ付けながら、食堂へと歩き始めていた。




