3話
目前に真新しいブレザーを纏った華奢な背中を眺めながら、遊真が行き着いた先は本校舎最上階である三階を更に登った果ての屋上であった。
「ここなら誰もこないと思う」
ノブを捻り、頑強そうな鉄扉を押し開いた天宮鈴音に促される。
今日は彼女にとっても入学初日。だというのによくこんな場所を知っているものだと感心しつつ屋上へ一歩踏み出すと、春特有の爽やかな風が心地良く頬を撫でていく。
視界に広がる屋外には周囲を囲う転落防止用フェンス以外何もなく、穏やかな太陽光がテニスコート程の面積を満遍なく照らしているばかり。
こんなところに連れ出して何をしようというか。出会ったばかりだというのに。
そんな漠然とした疑問が尽きないが、美少女と二人きりというこの状況が年頃の遊真に様々な期待を想像させてしまうのも仕方が無いことだろうか。
まさかと思いつつも、気付けば天宮鈴音は屋上のほぼ中央で足を止めている。ただ立っているに過ぎないのだが、その後ろ姿が遊真を手招きしているように見えるから不思議だ。
とりあえず招かれているという己の感性を信じ彼女の背後へと近づくのだが、あと数歩の距離にまで近づいたところで、彼女が静かにくるりと向き直った。
予備動作のない回れ右に不意をつかれる形で思わず足を止めてしまった遊真だが、今度は彼女が足を踏み出したことで再び二人の距離は縮められていく。その足取りはあくまで緩やかなのだが、しかしいつまで経っても歩調を緩める気配はなく、瞬く間に懐まで詰め寄せられていた。
「ちょっ、ちょっと! 天宮っ、さんっ?」
彼女の躊躇いのない踏み込みに気圧され、遊真が右足を一歩後ろに引かなければ、互いの唇は触れていたのではなかろうか。今も鼻先は触れる寸前、見上げる形の彼女の瞳に映る、狼狽した自分の目が泳ぐ様を観察できるほど身体を寄せられているのだ。
ごくり、と息を飲む。
いいのだろうか。と、据え膳という言葉が脳裏を占め、理性の破壊工作が開始された。
覗き込む彼女の深紫の瞳は光の加減か時折青緑色にも見え、金緑石を髣髴させる美しい輝きを放っている。
そんな魅惑の瞳を筆頭に、整えられたパーツが小顔の中で理想的に配され、吸い寄せられそうな不思議な引力を持っていた。
それが睫毛の本数まで数えられそうなまで間近に迫っているのだ。
大人しそうという第一印象は、えらく積極的な少女と書き換え済み。
既に鼓動は最高速に達しており、異様に顔を熱い。
遂に両の腕で少女の華奢な身体を抱き寄せようと――、
そして気付く。
じっと遊真を見つめるその瞳は、残念ながら異性が喜ぶような好意的な感情など微塵も浮かべていない。表情こそ優しげな笑みの形を作っているが、眼差しだけはやけに冷静な面を覗かせていて、こちらの心の内を全て見透かされているような錯覚さえ覚えた。
我に返り、淡い期待をした自分を悟られた気がして気恥かしい感情が心に湧く。誤解、とも言い切れないのだが、間違いが起こりえる現状からは早々に脱しておくのが無難であろう。
「あの……、ちょっと、近過ぎない……、かな?」
動揺を隠し切れないまま告げるが、天宮鈴音はさして気にした素振りを見せず、数度の瞬きを見せた後、
「そう? じゃあ少し距離をとる」
二歩程後退すると、その場にストンと腰を下ろした。
「えーっと……」
暫く天宮鈴音の表情を観察し、その場に座り込んだ意味を探るのだが、
「葛城君も座って」
「えっ?」
「聞きたいことがあるから座って」
「ここに?」
「いいから座って」
と、口調こそ優しいものの有無も言わさず促される。
彼女は聞きたいことがあると言った。ならば態々こんな場所まで移動しなくとも、生徒の捌けた教室でも問題なかったんじゃないじゃなかろうか。それにただ会話がしたいだけならば、先ほど間近にまで迫られた彼女の行動の意味もわからなくなる。
しかし、相変わらず毒気の抜かれるような笑みを浮かべられては、些細な疑問を吐露する気も起きず、わけもわからぬまま従うしかなかった。
吹きっ晒しの校舎屋上のほぼ中央で体育座りをする少女と、彼女と爪先をつき合わせ同様の姿勢を維持する遊真。真新しい制服なだけに互いのお尻の汚れも気になるところだが、それより奇怪な行動をとり続ける美少女の存在が遊真の中で大きく渦巻き、平常心を乱している。
もしかしたら見た目は良くとも、残念な部類にカテゴライズされる少女なのだろうか。
そんな失礼な考えを浮かべた時、なんの前振りもなく笑み顔の天宮鈴音が口を開き、
「昨夜、倉科涼子が何をしていたか教えて欲しい」
そのあまりに唐突な言葉に遊真は瞬間、呆気に取られる。
確かに昨日遊真と倉科涼子が出会っていた事は今朝、二人の間で交わされた会話からクラスの中では誰しもが知りえる事実と言えよう。
しかし、内容については一切触れていない漠然としたやり取りであったのは明白である。例え想像力を巧みに働かせたとしても、「道に迷った遊真を倉科涼子が案内した」程度の軽いノリであり、こうして呼び出されてまで問われる程、好奇心を刺激する要素はなかった筈だ。
目の前の美少女は、一体何を知りたがっているのだろうか。いや、彼女はどこまで倉科涼子という女性を知っているのか。とまで考えたところで、
「心配しなくても、私は倉科涼子が守部の一人だと知っている」
驚きの発言を続けるのだった。
「昨夜、【混沌なる妖】が多量染み出したのは知覚した。そして倉科涼子がそこへ赴いたのも把握していた。ただ途中見失い、肝心な事の終始だけ見届けられなかった。だから、貴方と折衝した後の倉科涼子の行動、言動を知りたいの」
知りたい、と簡単に言われてもそれは他人のプライベートである。そうですかと口を軽く出来るものではない。一体彼女は何者なのか。その愛らしい笑みの下で何を考えているのか。
その数々の疑念は、一つの言葉に集約されて遊真の口から吐き出された。
「そ、そんなの知ってどうすんのさ」
「私の役割は倉科涼子の監視、だから」
監視。聞き覚えのある単語。極最近、遊真が言い渡された役目であり、ここ社台学園に入学した理由でもある。
その監視という役目を、目の前の彼女もまた同様に担っているという。
それも昨夜、現場に居合わせなかった筈なのに【混沌なる妖】が染み出した事実を言い当て、倉科涼子が守部だと既に知り得ている正体不明の美少女。その迷い無き眼差しは、現状を把握しつつ己のやるべきことに自信をもって行動しているように見え、情報不足の上、具体性に掛ける役目に消化不良を起こし始めている遊真と比べるべくもない。
担任倉科涼子の監視者という似たもの同士、しかもわからないことだらけの遊真にとって一歩抜きん出た情報を持つ存在ではないか。
そんな正体のわからぬ彼女に一縷の望みを託し、
「監視の先は……、その先の目的は……、何なの?」
天宮鈴音という少女の目的に重ね合わせるように、自分の答えを求めてしまっていた。
しかし彼女からは、
「私の役割は倉科涼子を見て、今彼女が何を考えているかを知ること。その先の判断は委ねられて無い」
と遊真の期待に添えない、簡潔な答えが返されるに留まる。
当てが外れ、小さな吐息が漏れそうになるのだが、目の前の少女の手前ぐっと堪えた。
膝を抱えるように座り込む天宮鈴音は、身じろぎ一つせずに遊真へと視線を注いでいる。相変わらず柔らかな表情を作り出しているのだが、その中の瞳に浮かべているのは先ほどの問い、昨夜の担任倉科涼子の行動に対する質問の回答を要求する様がありありと見て取れる。
彼女は「その先の判断は委ねられてない」と言った。つまり天宮鈴音という少女は、これまた遊真と同様誰かに送り込まれてこの学園に来たと言え、何らかの組織に属していることを示唆している。
「ねえ、天宮さんって何者なの?」
単刀直入に問う。
しかし、問われた美少女は顔色を変えることなく、だんまりを決め込んだ。もうこれ以上は話す気がないと言わんがばかりに。
その態度は、ある意味遊真の意志を決定付ける反応でもあった。
同じ監視という役目を担っているといっても、彼女に指示を出す背後の存在が不明な以上、遊真がこの学園にきた理由と同義だとは限らない。
現状自分の立ち位置すら不明瞭な遊真だが、せめて監視対象である担任倉科涼子という人物を是とするのか、非とするのか、自分とこの天宮鈴音が同じ方向を向いていると確認出来ない限り、迂闊な事を漏らすべきではないのでは。
そう判断した遊真は彼女に対する答えを頭で纏め、小さく深呼吸した後ゆっくりと切り出した。
「さっき、天宮さんは先生のことを守部だと言った。そして昨夜【混沌なる妖】が染み出たことも知っている。で、今朝の会話からそこに僕が居合わせたと思ったからここに呼び寄せた。違う?」
遊真の質問に対し少女は顎を引き、首肯することで反応を示す。
「倉科先生は困りごとがあったらいつでもと言ってたけど、【混沌なる妖】と出会って困るって一つしかないよね?」
「では【混沌なる妖】に襲われたところを助けられた?」
「それ以外に何かある?」
「いえ、……そう、染み出た【混沌なる妖】は倉科涼子が退治しただけと?」
天宮鈴音が導き出した答えに、微笑むことで返事を曖昧にした。
遊真は彼女にわかりきっている情報の、当たり障りの無い部分だけ掻い摘んで提供するに留めている。後は彼女の想像力に補完させ、あくまで自分から明言をしない。また、その反応を見て、彼女と彼女の背後の実体が探り出せれば尚良し。
しかし、相変わらずの表情のまま考えに耽っているように見え、これ以上口を開きそうにない天宮鈴音を見据えていたが、大した機微は見出せなかった。
そんな遊真の視線をどう感じたのか、
「葛城君が何か不安を感じているなら大丈夫。倉科涼子は【混沌なる妖】から貴方達を護るべき存在。そして現状それが維持されれば、私はただ監視を続けるだけ」
とだけ言い残すや否や、天宮鈴音はすくりと立ち上がり、未だ腰を下ろしたままの遊真を迂回するように本校舎へ下る階段へと歩き出した。
遊真は遅れて立ち上がりながら、振り返ることのない背中を視線だけで見送る。
大きく息を吸い、そして無遠慮に吐き出す。
天宮鈴音が【混沌なる妖】を退治した倉科涼子を良しとしているのは理解した。が、人類の天敵たる【混沌なる妖】を排除するのは、抗う術を持つ守部としては当然な行動である。
ただ同時に、容易に退けるのも困難な相手であるのは周知であり、己の力量が及ばなければ自らの命が危ぶまれる。守部もまた人としての尊厳は護られるべき対象であり、無謀に命を散らすことを強要されているわけではない。当然、一時撤退は許される行為である。
無論、その後の応援を呼ぶなり対抗手段を講じるところまで責任を負うべきなのだが、それを誰かが監視する、というのは些か必要性を感じられないのだ。
何しろ【混沌なる妖】とは理性無くただ世界を汚し、穢し、腐敗させるだけの流行り病のようなもので、人類、いや地上界全て生命と相容れない忌むべき存在。放置しようものなら直ちにその土地を侵され、即座に居場所を失うような最悪の末路が目に見えている。
力及ばず、だから見なかったことにする、などと言い出す輩の心配などそれこそ杞憂というもの。
理解の及ばぬ点が多過ぎて、頭を掻く指先に自然と力が篭る。
先ほどの話振りから鑑みるに、遊真の素性もある程度知られていると見るべきだろう。
遠巻きにして監視を行う天宮鈴音とは一体何者なのか。
彼女の背後には何があり、何を目的としているのか。
「……わからない」
暗澹たる気持ちで見上げた空は、どこまでも突き抜けるような快晴だった。




