21話
取り急ぎ、天宮鈴音の後を追うようにして一年D組まで戻った遊真は、教室で待っていた倉科涼子へと完了の報告を齎せば、
「そうか、ご苦労じゃったな」
彼女には珍しく、表情に喜色を滲ませていた。
無表情とまでは言わないが普段、怒り以外の感情をあまり見せなかった担任なだけに、こんな表情も出来るのかと酷く失礼な感想を抱いてしまう。
そんな腕を組む倉科涼子の傍らには井中が俯いており、その顔面は蒼白で余程の恐怖を味わったと見える。今後、迂闊な行動は慎んで頂けるであろう。
怯える井中を横目に、報告を優先としたため未だバジリスク排除に使用した洗剤が床に撒かれたままなことや、化学実験室内に描かれていた召喚魔方陣の後始末がまだな旨を伝えれば、
「では、皆で協力して片付けてしまうとしよう。ほら井中、お主が当事者であろう。急ぎバケツと雑巾、それとモップを持ってくるのじゃ」
五人の生徒を率いて倉科涼子も自ら化学実験室へと赴く。
それから担任は、ただ掃除の指揮を取り仕切るだけでなく、モップを手にして液体洗剤に塗れた廊下を磨き、テーブル上に描かれていた魔方陣を雑巾で拭き取るなど、誰よりも率先して行動に移していた。
「何、担任のこと、ぼーっと見てんのよ」
流星の声に我に返った遊真は、特に隠す事無く答えた。
「なんかさ、今の先生ってなんか楽しげだよね」
「……よくわかんないけど、綺麗好きなんじゃないの?」
「いや、掃除じゃなくてさ。一所懸命、先生してるのが嬉しいっていうか、そんな感じに見えるんだけど」
「あー、何かスケベイヌが言ってたわね、教師になりたくてどうのこうの。っていうか、そんなのどっちでもいいわよ、付き合わされてるこっちは溜まったもんじゃないわ。もう」
早く終わんないかしらと、グチを溢しつつもモップで床を拭く手を休めない流星は、
「それより、天宮のことなんだけど。何かさっき変なモノ出したわよね」
急に神妙な面持ちに切り替える。
彼女の変なモノとは遊真がバジリスクの逆襲に遭った時、天宮が喚び出した輝白色のプレートのことを指すのであろう。パッと見は厚みを持たないA4コピー用紙のようなモノだったが、そんな柔なモノではなかった。宙空に固定され、バジリスクの一撃を受け止めながらも微動だにしなかったそれは、物質としての概念すら覆しそうなものだった。
「あれ、魔術なのかな?」
遊真が疑問を口にすれば、
「あのねえ、こっちが聞いてるんだけど」
呆れでもって返される。
遊真とて魔術全般に通じているわけでは無い。というよりこの世の魔術など星の数程存在し、全て把握している者など皆無である。当然、遊真の知らぬ魔術のが数多いと言った方が正解であろう。
「いや、全く聞いたこともないね。モノを浮かす魔術なら西洋辺りに在るけど、あんな薄っぺらいものが衝撃を受けても動かないってのは……」
「やっぱりアイツ普通じゃないわね」
「まあね。でも、それをいったら僕等も普通じゃないし」
それを天宮への擁護と捉えたのか、意表を突かれたように表情を変える流星。
「あら? 助けて貰ったら早速宗旨替え?」
「別に黒が白になったなんて言ってないでしょうに。それに元々グレーなだけで、知れば悪い子じゃないような気がしてきたんだ」
「ふーん。やっぱり可愛い顔してると何でも信じて貰えちゃうのね」
流星の話す声に抑揚が失われ、目を細めて軽蔑の眼差しを形作った面持ちは負の感情がダダ漏れで、あからさまに機嫌を損ねていた。
遊真も何か言い繕おうと考えるものの大して気の利いた台詞も思い浮かばず、乾いた笑いで誤魔化すしかなかった。
そして暗くなりゆく化学実験室で、周辺の後始末を終えた遊真達へ、
「皆、ご苦労じゃったな」
濯ぎ、絞り固めた雑巾を片手に、珍しく晴れやかな面持ちの倉科涼子が労う。
遊真も特に感慨を受けることもなくそれを耳にしながら、部活をしているわけでもないのに連日遅くなってしまったな、などと取りとめの無いことを考えていた。
そのため、
「この後始末も含め、本来はお主らがしなくとも良いことじゃ。幻獣退治の褒美といってはなんじゃが、儂が一食ご馳走してやろう」
と続けた担任の言葉が、直に理解出来なかった。
「ご馳走……、ですか?」
「そうじゃ。といってもホテルのコースなぞ期待するでないぞ。そうじゃな、今週の土曜日の昼前、儂の家に集合じゃ」
聞き返すも、倉科涼子の中では決定事項にしたようで、有無を言わさず予定をのみを告げられた。
急な展開についていけない遊真は、モップを握り締めたままの流星と互いの顔を静かに見合わせ、
「先生の家で食事だって」
「らしいわね」
無感情に受け入れる。
こうして遊真達は、突然ながら週末倉科涼子宅に招かれることとなった。




