20話
そんな彼等を頼もしく思いつつ、遊真は構えたスマホ越しに前方を覗き見ながら一人先頭を歩き出す。
「僕が先に行くから後からついて来て」
渡り廊下を渡り切り別棟の廊下にぶち当たるのだが、曲がり角から腕を伸ばしてスマホのみを送り込み、曲がった先、化学実験室に通ずる通路を覗き込む。
スマホを構えているからといって、流石にいきなりばったりは心臓に悪い。道中の安全を確保しながら、焦らずゆっくりと目標へと足を進めていった。
線と面だけで構成される無機質な廊下は温かみの欠片も無い。人気の無いのも手伝ってやけに寂しさが際立つ廊下を歩いた先は、やがて行き止まりに到達する。見上げればそこには白色のプレートが掲げられており、遊真達の目的地である「化学実験室」だと記されていた。
「さて、ここだ」
入り口で耳を押し当て室内の様子を窺えば、時折、硬いモノで軽く床を叩いているようなカツカツという音を拾う。始めそれが何の音なのかわからなかったが、自宅の座敷犬がフローリングの上を歩く時、足の爪が床に当たり似たような打音を響かせていたのを思い出す。
「いるの?」
流星の囁きに小さく頷いて返すと、歳蔵が何時の間に解錠したのか隣の準備室へと忍び込み、暫らくしてボトルタイプの食器用洗剤を人数分だけ手にして戻ってきた。
流星は渡されたボトルを受け取り怪訝な表情でそれを見つめた後、口元を遊真の耳元に近づける。
「で、何に使うのよ。こんなモノ」
「これでバジリスクの眼を狙って」
と、遊真は手にしたボトルの口元を前方に向け、狙いを定めるが如く構えて見せた。
「なるほど。要は、水鉄砲でござるな」
「洗剤で眼を潰せって解釈でいいわけね」
歳蔵と流星が手にしたモノの意味を飲み込むと、遊真は一人距離を空けて立ち竦む天宮鈴音へと確認する。
「天宮さんも一応洗剤は持ってて。ただ、バジリスクの相手は僕達三人でするから、後方で待機。うーんと、そうだね、化学実験室の中から廊下まで誘き出すつもりだから、こっちに誰かが来ないよう渡り廊下の辺りで見張ってて貰えるかな」
化学実験室は幅、奥行き共にそれなりの広さの中で、テーブルや椅子などがところ狭しと設置してある。只でさえスマホ越しの狭い視野なのだ。無用な障害物に気を取られるよりは、意識を一方向へと集中出来る前後に長い廊下で対峙した方のがやり易い。
そして天宮の笑み顔が小さく頷いたのを見届け、後顧の憂いにも備えた。
各々の準備が整ったのを確認して、互いに頷き合うと化学実験室の扉を静かに開け放つ。
「おお、いたいた」
夕焼けに染まるスマホ越しに捉えたバジリスクは、周囲の茜色さえも吸収しているような艶の無い黒鉄色の鱗に身を包み、イグアナと非常に酷似した姿を晒していた。似ている、と言ってもそれはあくまで外見上であり、尻尾を除いた身体の大きさだけでもトシの体躯と同じか、或いはそれを上回っている。
特徴的なのは、やはり頭部の中央で見開かれた一つ眼であり、赤というには鮮やかさの欠けたその色は腐りかけのトマトを彷彿させ、また頭頂部には同様の色味を放つ一際大きな鶏冠がより存在感を表していた。
入り口付近で集う遊真達の気配を感じ取っていたのだろう。バジリスクは既にこちらへとその危険な眼を向けながら、ゆっくりとした足取りで一歩一歩確めるように踏み締め、近づいてくる。
遊真達もバジリスクと歩調を合わせ、一定の距離を維持したまま抜き足で後退し、無駄な刺激を与えないよう赤独眼の幻獣を誘導して入り口を潜らせると、三人は誰として合図を送る事無く息を合わせ、左右に展開して迎え撃つ。
シャア、シャアと、左右に大きく引き裂かれた口の奥から空気が抜けるような音を漏らしているのは、こちらを威嚇しているのだろう、が。
しかし遊真達はバジリスクの手の届かない位置から、先手必勝とばかりに容赦なくボトルの先端を差し向けた。
「うりゃ!」
握力により外形を歪まされたボトルは瞬間、内容物に大きな圧力を齎す。
結果、中身である液体は逃げ道を求めボトルの先端に穿った小さな穴から溢れさせる事となり、勢い良く飛び出した洗剤が一筋の線を宙空に描きながら、スマホ内でデジタル処理をされたバジリスクの頭頂部へと襲い掛かった。
実際の距離と画面内とで見る距離感の違いで、初弾から目標たる眼を捉えることは叶わなかったが、
「ていっ!」
「ござるっ!」
遊真の左右からも一筋ずつ、計三方向から、しかも連続して繰り出されるのである。
絶え間なく浴びせ続けられれば、恐らく想定外の飛び道具にバジリスクは成す術なく、やがて眼に到達した一筋の洗剤の刺激による激痛に悶え、両前足で不器用に顔を覆い隠しながらのた打ち回った。
「チョロいもんね。で、これからどうすんのよ」
流星が洗剤ボトルを隙無く構えながら問えば、
「眼さえ潰せば、後は珠に封じちゃうよ」
遊真は穏便に済ます方向で提案する。
「なんだ、二度手間じゃない。最初から珠に封じちゃえばいいでしょうに」
「いや、レンズ越しだと術が上手く働かないんだ」
「まあいいわ、早く始末しちゃいなさいよ」
促され、苦笑をもって返事とすると、バジリスクへと一歩踏み寄る。
今は洗剤の刺激により瞼を下ろしているが、突然見開く可能性は十分ある。一瞬が命取りになるが故、自分の視線を妨げるスマホを除けるには覚悟が必要だが。
洗剤のボトルを床に置くと水晶球を取り出し、息を飲む。
暴れるバジリスクを観察し好機となるタイミングを計ると、意を決して術を行使しようと水晶球に魔力を送り込んだ、その刹那――、
「うわっ!」
最後の逆襲とでも言うのか、バジリスクがいきなり頭を大きく振って反転、そして黒鉄色に染まる尾で遊真の胴を薙ぎ払いにかかった。
眼が見えない故の闇雲な一振りだったのだろうが、不意を突かれた遊真にとっては不幸以外の何モノでもない。咄嗟に出来たことと言えば眼を閉じ身を強張らせる程度が限界だった。
「遊真っ!」
流星の注意を促す叫びが響くが時、既に遅し。
遊真の脇腹にバジリスク渾身の一撃がめり込んだ、と誰もが思った事だろう。
しかし、鈍い打音が鼓膜を震えさせただけで激痛には襲われず、それどころか遊真の身体には触れるような僅かな衝撃すら訪れなかったのだ。
「葛城君、早く」
不思議に思うのも束の間、背後から掛けられる静かな声に瞼を開く。
そして現状をその目で捉え、唖然とした。バジリスクの体から伸びる黒鉄色の尾は、寸瞬前に捉えた映像通り遊真の胴を捉え様として、奇妙なモノに遮られていたのだ。
簡潔に言えば白い板。A4コピー用紙と表現するのが最も近く。
その仄かに光る厚みを持たないプレートが宙空に固定され、面で受け止めるような形で尾からの一撃から遊真をしっかりと防いでいた。
「葛城君、早く術を」
再び掛けられた声に我を取り戻し、遊真は慌てて術を完成させてバジリスクに手にした水晶球を翳す。紡いだ魔力を押し放ち、術に捕らえられた赤独眼の幻獣は直ちに霧散、地上界よりその姿を消滅させていった。
一歩間違えば大怪我は免れなかった状況に膝が崩れへたり込む。決して気が弛んでいたわけではない。だが、油断があったと言われれば返す言葉は無い状況だった。
そんな遊真本人の無事に流星と歳蔵も安堵の吐息を大きく漏らす。
遊真は頬を伝う冷や汗を拭いながら、先ほどの声の主へと振り返った。
遠く後ろに微笑みを貼り付ける天宮鈴音の姿が眼に留まる。二度、遊真を呼び掛けた声も間違いなく彼女のものだった。遊真が傍らに浮かぶA4用紙ほどの輝白色プレートを指で指し示せば天宮は小さく頷き、改めて彼女に助けられたことを知る。
「あ、ありがとう。助かったよ、大怪我するとこだった」
遊真の感謝を、天宮はただ笑み顔を維持し、
「屋上のお礼」
短く答えた。
天宮が踵を返すと、輝白色プレートは淡い光を失いながら空気に溶け込むように消え失せる。彼女は遊真達を置き去りに、そのままここに至るまでの道を辿り、倉科涼子の待つ教室へと帰っていった。




