9話
今し方まで、流星と男との争いの場となっていた校舎裏。
遊真は他の二人の生徒と共に、剥き出しの地面の上で正座させられていた。
担任たる倉科涼子は校舎の内側に身を置き、窓枠の一つから上半身だけ覗かせている。
怒鳴りつけたのは第一声のみ。
その後静かに怒る様子は筆舌に尽くし難く、例えるなら首を氷の断頭台にでも晒しているような、いつでも切って落とされる状態でありながらも徐々に体温を奪われて命のカウントダウンが現在進行しているような感覚であり、とてもじゃないが生きた心地がしなかった。
「事の切欠が何かは知らぬが、この際原因は関係ない。喧嘩は両成敗と決まっておる。じゃが、それ以前に人としてやって良い事と悪い事があるのは、わかっておろうな」
やや語尾を強調した口調に反論や言いわけの余地は与えられず、口を閉ざし、俯き、地面を見つめながら怒り雲が通り過ぎるのをただ待ち侘びる。
これ以上の雷が落ちないのを祈り続けて。
その願いが通じたのか、三人に対して平等に向けられていた矛先が、不意に一点へと突きつけられるのだが、その先は流星と壮絶なる戦いを繰り広げた、校舎に壁立ちをして登場した男だった。
「服部、最早お主も生徒の一人じゃ。とやかく言うつもりはない。が、邪魔をしにきたというのなら、儂もお主の処遇を考えねばならんのう」
服部と呼ばれた男は倉科涼子に名を呼ばれるとびくりとその身を震わせ、小さくしていた巨躯を更に縮こまらせていた。
そして額に多量の脂汗を滲ませ、やっとの思いで搾り出した謝罪は、
「……も、申しわけござらん」
生徒と教師の間で生み出されるものでなく、もっと他人行儀な関係を窺わせ、そして倉科涼子の言葉が彼の立場を大きく左右する内容であることを匂わせている。
「ならばもう少し大人しくしておるのじゃな」
「以後、気をつけるでござる……」
額を地面に擦りつけるように平伏するが、倉科涼子はさして気にする素振りも見せない。
「もう良い。下校時刻は疾うに過ぎておる。反省したのならば早々に帰宅せい」
そうして漸く許しを得たのは、辺りがすっかり暗くなった頃だった。
倉科涼子が窓を閉め、彼女の姿が廊下の向こうに消えたのを確認してから遊真はゆっくりと立ち上がる。肺の中を総入れ替えする勢いで大きく嘆息し、精神的重圧から解放された安堵に全身を弛緩させた。
痺れかけた脚を伸ばし、膝についた土を払えば、遊真と共に倉科涼子の怒りに触れた流星も何時の間に着替えたのか、社台学園の制服姿を取り戻し、
「あー、あーゆー静かに怒るタイプ得意じゃないわー」
と抑揚の無い平淡な声で独白していた。
その憮然とした態度から彼女は反省の色などなくして見える。
天宮鈴音を出汁に自分を騙し、この場の囮に使ったことなど色々聞き出したかったのだが、そんな遊真をさておき、流星は左手を腰に当て、
「あんた、服部って言ったっけ? 色々聞きたい事があるから少し顔貸しなさいよ」
傍らで立ち上がった推定百八十五センチ超えの巨躯を見上げるが、彼は項垂れて極限まで生気を失わせていた。
遊真としてもこの服部と呼ばれた彼に聞きたい事が多々ある。
流星曰く遊真の動向を窺っていた彼。心当たりとしては倉科涼子絡みの線が濃厚なのだが、先ほどの倉科涼子と服部の会話の様子から二人が以前からの知人であり、改めて自分に接触する理由が思いつかない。
「ちょっと、そこのデカイの。聞いてんの?」
何度目かの、五月蝿いというべき流星の呼びかけ。
特に無視していたわけでもなく、彼が漸く反応を示すまでに少々時間を要してしまったのは、正気を取り戻すのにそれだけの時が必要なほど、彼の中で倉科涼子の言葉が堪えたのだろう。
「あ、ああ、聞こえてるでござる。が、否、でござる」
しかし、遭遇時の平静さを幾分取り戻した彼は、流星に対し否で応えた。
「はあ? バカ言ってんじゃないわよ。あんたあたしに負けた時点で、あたしに異を唱える権利なんてなくなってんの。さあ、洗い浚い吐きなさい」
「いや、勝ち負け云々関係なく、言えないことがあるでござる。というか、そもそもあれは二対一で卑怯でござる」
「卑怯なんて忍者の常套手段じゃない。自分の卑怯は良くても他人はダメ? はっ、とんだ甘ちゃん忍者がいたもんだわ」
「ぐ……」
鼻で笑う小さな少女に二の句を告げなくなる巨漢だが、返す言葉を失ったのを幸いにそのまま黙秘を貫く構えを見せる。
しかし黙りこくる相手にも流星は動じる様子を微塵にも見せず、寧ろ余裕すら漂わせて不敵な笑みを傲然と見せ付けられては、流星を見下ろす彼は勿論、遊真でさえ不安にさせた。
「あんた、忍者よね? そして担任と関わり合いがある、と」
「……」
「で、さっきの会話から特に対立してるわけでもなさそうだし……。忍者ってことだから多分その仕事は、諜報活動か担任の警護辺りが任務、といったところかしら」
「……」
「ということは当然、この学園なんて隅々まで調査済み。その中で遊真になんらか引っ掛かった点があり近づいて……、とその前に」
「……」
「あんた、忍び込んだでしょ?」
流星が両手を腰に当て、僅かに身体を前に倒し、小首を少しだけ傾げながら、含み笑いを浮かべた実にイヤらしい目付きで見上げれば、
「……どこ、……でござる?」
遂に黙秘を断念する。
流星は予め、その問いが発せられるのを予想していたのかのように口角を吊り上げて、イヤらしさをより強め、
「女子更衣室」
と手短に伝えた。
「……………………………………、だ、誰もいなかったでござる」
暫し沈黙を守っていたが、流星の下卑た視線に耐え切れなくなったのか、嫌な汗を流す服部から無実を訴える言葉が零れ落ちる。
だが、それがいけなかった。
「だから、入ったんでしょ?」
「何も見てないでござる!」
「今重要なのは『見た』『見てない』、ではないのよ。わかる? 誰かの許可なくして『侵入した』かどうかなのよ? あらあら、いくら調査と言えど女子更衣室に不法侵入は不味いわねー。これは早速担任に報告しないと」
「何もしてないでござるっ! 下心など皆無だったでござるっ!」
「悪くすれば退学コース、良くても停学は免れないわ。何より、入学早々担任に迷惑かけるわねー。そうそう、それ以前に担任がなんか言ってたっけ。あんたの居場所がどうたらー、こうたらー」
みるみる顔を青くしながら身の潔白を訴えるが、流星のまともに取り合おうとはしない態度が巨躯を更に追い詰める。
冷静に考えればこの場で真実を知るのは本人だけであり、証拠を何も持たない流星の通報だけでは立証など困難だと簡単にわかるのだが。しかしこの服部という男がそこに気付けなかったのは、先ほど倉科涼子に釘を刺された直後でもあり、もうこれ以上問題を起こせないという自らの精神が生み出した強迫観念からであろう。
付け入る隙を与えれば力ずくでこじ開け、全てを食らい尽くして平らげる。
そんな印象を植え付けた彼女の前では決して弱みを見せてはならない。遊真にそう心に決めさせるには十分だった。
「さあ、吐きなさい。全てを」
小さな少女は勝者の表情で告げる。
その短い台詞が、服部という男の耳には死の宣告にも等しく聞こえただろう。
断るという選択肢を失った彼は、苦悶に表情を歪めながら遊真と流星の二人の顔を暫し眺めた後、
「……仕方ないでござるな。ついてくるでござる」
と切り出し、遂に諦めたかのようにゆっくりと歩き出した。




