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第8話 狩りへ

 十一日目の朝、ホワイト宮殿の中庭はいつもよりだいぶ賑やかだった。

 皇太子殿下が泊まりがけで狩りに出掛けるので、皇室の狩猟場の森があるリーゼル城まで側近やら従僕やらみんながついていかなければならなかったからだ。


 馬たちが厩から引き出され、興奮した猟犬が走り回り、遠吠えして手がつけられない。革紐や締め金を持った厩番があっちこっちへ駆けずり回り、主の騎乗に手を貸す。下働きの少年たちは布を手に、馬の毛並みを最後にひと拭きして回っている。

 ベルフォレスト公妃の艶やかな青毛の愛馬は、主同様、そんな周囲の喧騒にも冷ややかなほど超然としていた。騎乗用の台の前でお行儀よく彼女を待っている。


 クリスもこの狩りに同行すると人づてに聞いた。

 絶え間なく揺れる巨大な振り子のように、彼に会える不安と喜びが交互に私を揺さぶっていた。


 いつもの癖で、ついクリスはいないかときょろきょろ見回していると、腰にそっと手が回され、耳元で抑えられた声がした。

「ビアンカ、僕だよ」

 振り向くとクリスがいた。私は彼の腕の中。あと半歩彼が近づいたら、私たちはぴったり密着するくらい間近にいた。彼の匂いにくらっときた。

 一瞬目を閉じ、やりすごす。すぐに目を開けると、クリスの瞳が爽やかな朝にそぐわない力強さで私を射抜いた。

「ビー、僕の手紙を読んでくれたかい?」

「お願いだから離れてちょうだい」

 愛しい男からの囁き。それを退けるときの苦しみ。

 彼は不承不承の態を隠さず、半歩下がった。

「僕たちはきちんと話をするべきだよ。僕は君にどうしても言わなければならないことがあるんだ」

「馬に乗りますので下がっていただけますか、ケアリー卿」

 私はクリスの言葉など何一つ聞こえないというふうに言った。

「どうぞ私の手におつかまりください、ミス・コンラッド」

 クリスはいつものように手を差し出した。

 婚約者の騎乗を手伝ってやることは、殿方としてむしろ好ましい振る舞いだ。見渡す限り宮廷で暮らす人間で埋め尽くされたこの状況で、この手を無下にするわけにはいかない。


 手袋越しにクリスに触れただけで、甘い震えが全身を駆け巡った。

 鞍に座ってしまえば、クリスから離れれば大丈夫。

 膝のガクガクも頭のクラクラも治るに違いない。


 なんとか鞍に乗り、鞍頭に脚を掛け、乗馬用のドレスがきれいに流れ落ちるよう整えた。彼がスカートの裾を引っぱり、私の足首をそっと包み込んだ。意を決した表情で私を見上げていた。

「手紙のことだけれど……」

「読んでおりません」

 つむじ風が立てた砂埃をとっさに払うように、私はクリスに冷ややかな返事を投げつけていた。彼の若草色の瞳に影が落ちた。


 そのとき、ラッパが鳴り響いた。思わず目を向ける。

 晴れやかな青空の下、太陽神の化身のごとき豪奢な笑みを浮かべた皇太子殿下が、珍しく乗馬用のドレスをまとったベルフォレスト公妃を伴って扉から出てきた。

 彼女は氷の山脈の頂に咲く百合のように中庭を見渡し、クリスと一緒にいる私と目が合うと、親しげでぬくもりのこもった優美な笑みを向けてくれた。

 彼女の真横にいた皇太子殿下はもちろん、それを目の当たりにした周りの貴公子たちや従僕たち、その場にいたほぼ全ての殿方たちが――同伴する妻や婚約者の存在を忘れて――女神を拝むように彼女に見惚れていた。


 どうせクリスも、夢見心地で公妃にうっとりしてるんでしょうね。

 そんな姿、こんな至近距離で見たくはないわ。

 私はあえて公妃たちの方を向いたまま、足元に視線を戻そうとはしなかった。


 不意に、私の足首を包んでいた手の力が強まった。

 かすかな痛みに思わず目を向けた。クリスが私を見つめていた。覚悟を決め、思い詰めたような眼差しだった。

 暗闇の夜空に光るただひとつの星を見上げるように、私を見ていた。


 元気な馬のいななきが、私たちの間に横たわる張り詰めた空気を割った。

 皇太子殿下が白毛の愛馬にまたがり、鞍に深く座って手綱を取っていた。まだ下にいた人たちも大慌てで鞍にまたがり、我先に列の良い位置につけようと急いだ。


「僕も行かなければ。それじゃあ」

 クリスが一歩下がった。私の足首を包み込んでいた温もりが消えてなくなった。


 不安も怒りも意地も何もかもかなぐり捨て、今すぐ馬から飛び降りたくなった。彼の浮気心も投げつけられた酷い言葉も忘れて、彼にキスの雨を降らせて彼の顔に笑みを取り戻してあげたくなった。

 でも結局、私は馬上にくくりつけられた荷物のように動けず、何も言えず、何もできなかった。


 クリスは振り返らなかった。

 名高い近衛騎士らしく助けも借りず颯爽と鹿毛の愛馬にまたがり、近くにいた貴婦人や宮廷女官たちを惚れ惚れさせていた。見事な手綱さばきで泳ぐように列の前方に滑り込み、さも一番乗りで馳せ参じていたかのように殿下や若い廷臣たちと歓談を始めた。

 リーゼル城への道中も森での狩りの最中も、クリスは私をちらりと一瞥すらしなかった。彼は皇太子殿下のそばに、私は公妃のそばに、それぞれ腕を伸ばせば指先が触れるかという距離に控えていたにもかかわらず。


 下らない意地と幼稚なプライドを張った結果がこれだ。

 あと二日間、私を無視するクリスを目の前に、彼とともにここリーゼル城で過ごさなければならない。


 そんな憂鬱な時間を思うと、城を囲む大濠に投げ込まれた小石のように気分が暗く沈んでいった。

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