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第6話 若草色

「ミス・コンラッド。今少しお時間をいただけますか?」

 遠乗りからホワイト宮殿に戻ると、クリスが私を呼び止めた。


 皇太子殿下やベルフォレスト公妃の目の前で、彼がこんな行動に出たのは初めてだった。私は少しばかりびっくりした。

 その驚きはもちろんのこと、目の前にいる彼の男前な姿にあらためてうっとりせずにいるのも大変だった。


 クリスはこの遠乗りに、近衛騎士としてではなく皇太子殿下の友人ケアリー子爵として参加していた。だから、この日の彼は毛皮の襟がついた幅広の膝丈の上着(シャウベ)をまとっていて、その貴公子ぶりといったらいつもに増して素敵だった。おまけに、彼は房飾りが垂れるベルベットの帽子を斜め目深にかぶり、その下から若草色の瞳で真っ直ぐ私を見つめているの。


 この後に予定されている歴史の授業なんて放り出したい。

 今すぐ彼と寝室に飛び込みたい。

 そんな気持ちでいっぱいになってしまった。


「公妃様、よろしいでしょうか?」

 欲望が顔に出ないよう注意しながら、私は公妃にうかがいを立てた。

「えぇ、歴史の授業までには戻っていらっしゃい」

 私の真情を知ってか知らずか、公妃はにっこり微笑むと皇太子殿下とともに宮殿の中に入っていった。


 クリスは私の手を取ると、そのまま無言で回廊をずんずん進んだ。

 彼のたっぷりした袖飾りが風に吹かれ、彼と私の手に縄のようにまとわりついた。

 仰々しい毛皮の襟と大きく膨らんだシャウベのせいかしら?

 彼の肩が、やけに強張って見える。


「ケアリー子爵、いかがなさいましたか?」

 心配になって、私はクリスに問いかけた。彼は返事を返さなかった。


 晴れやかな陽射しと回廊の柱の影が、彼の端整な横顔に交互に差した。唇を真っ直ぐ引き結んだ、引き締まった近衛騎士らしい面差し。

 でもいつもと違った。

 どこか不安を与える硬い表情だった。


 私は戸惑い、引っぱられるまま黙って彼について行った。


 空き部屋に私を押し込むと、クリスは後ろ手にドアを閉めた。部屋は分厚いカーテンが隙間なく閉じられていたため昼間なのに暗く、クリスの表情がよく見えなかった。私はますます困惑した。


「クリス、ねぇ、どうしたの?」

「さっき、アレックスと何を話していたの?」

 私の質問には答えず、クリスは抑揚のない声で私に問いかけた。

「アレックス? ……あぁ、セイルマス伯爵のことね」

「そうだよ」

 クリスは苛立たしげに認めた。


 ようやく目が慣れて彼の表情を見て取れるようになってきた。彼の表情をしっかりとうかがうことができた。寄せられた眉根。石のように固く結ばれた唇。怒りをたぎらせてすがめられた瞳。


 どう前向きに解釈しても、これ以上ないというほど不機嫌なクリスがそこにいた。


「シャムネコっていうタイランドの猫のこと、とか」

 彼の不機嫌の理由がわからず、私の頭の中はもはや混乱の域に達しようとしていた。

「それだけ?」

「あぁ、それとこの前の舞踏会のドレスを褒めてもらえたわ。妖精とか精霊とか、相変わらずお口がお上手――」

「何をへらへら笑っているんだ」

 サーベルの刃のように鋭い声が私の言葉を遮断した。


 聞いたこともないほど冷たい声だったから、クリス以外に誰かこの部屋にいるのではないかと錯覚したほどだ。いつも穏やかにきらめく若草色の瞳は、怒りと不快感でくすぶり歪んでいた。

 私は怖くなって、思わず一歩後ずさった。


「君は僕の婚約者じゃないか。なのに他の男と、よりにもよって僕の友人とあんなふうに親密に接するなんてどういうつもりなんだ?」

 友人の膝に乗ってキスを交わしていた妻を問いただすようにクリスは私を責めた。


 彼の言っていることがよくわからない。

 だってそうでしょう?

 遠乗りの最中、たしかに私はセイルマス伯爵とおしゃべりをした。でも、あの首飾りとシャムネコのやりとりだけだ。彼の馬に乗り換え、二人で一緒に馬上でいちゃついてなんかいない。

 私のどの振る舞いが「僕の友人とあんなふうに親密に接する」に当たるのか、私にはまるで見当がつかなかった。


「クリス、何を言っているの? そりゃあ、セイルマス伯爵とおしゃべりはしたけど、でもそれだけよ。あなただってすぐそばにいたから聞こえていたでしょう?」

 しどろもどろになって弁解をしながら、私の胸に年若い娘らしいささやかな期待がともった。


 もしかして、クリスはセイルマス伯爵にやきもちを焼いているのかしら。切迫した状況にもかかわらず、かすかな期待で胸が弾んだ。


「あぁ、聞こえたよ。君たちがとても楽しそうに語り合っているのがはっきりと。僕だけじゃない、皇太子殿下や周りにいた廷臣全員の耳にしっかり届いていたよ。君と、婚約者の僕じゃない男とのまるで恋人のようなやり取りがね」


 私はせせら笑った――自分自身を。

 クリスが私にやきもちを焼くはずないじゃないの。だってそれは彼が私を愛しているという前提で成り立つことなのよ。その前提がないのだから、ありえないに決まっているじゃないの。

 彼は皇太子殿下や側近たちの目の前で私に恥をかかされたと怒っているだけ。


 そりゃあそうよね。

 彼にしてみれば、婚約者である自分が目の前にいるにもかかわらず、私が自分以外の殿方と「まるで恋人のよう」に親密に「楽しそうに語り合って」いたんだもの。面目をつぶされれば不愉快にもなるわよね。


「“若葉の妖精”だの “マリーゴールドの精霊”だの、馬鹿馬鹿しい」

 クリスは忌々しげに吐き捨てた。


 あの日の舞踏会、クリスと二人で参加できることになったから、大急ぎでドレスを新調した。季節と彼の瞳の色に合わせて、美しい若草色の生地を選んだ。クリスはそんなことには気づかず、ベルフォレスト公妃に見惚れてばかりいたけど、二人でワルツを踊ったとき、耳元で「今日のビーはとても綺麗だ」って優しく囁いてくれた。


 だから、すごく嬉しかった。

 嬉しかったのに。


「そうね。馬鹿みたいね」

 ちょっと褒められただけで大喜びして、すっかり舞い上がってしまった。

「それならクリスだって同じじゃない。いつもいつも、私の目の前でベルフォレスト公妃に見惚れて、彼女を称賛するばかり。私のことなんてちっとも見てくれない。私が格下の男爵家の娘だから、幼馴染みで気安い女だから、何を言っても、何をしても平気だと思っているんでしょ」

「ビー、何を言ってるんだ」

 しかめっ面のままクリスが私を見据えた。

「たしかにそのとおりよね。でも私からはこの婚約をどうにもできない。今となっては解消することもできやしないのよ」


 ダンレイン伯爵夫妻から婚約の申し出を受け取ったとき、私にはお断りするという選択肢はなかった。


 だってそうでしょ?

 ちっぽけな男爵家の娘の私が、名門伯爵家の跡取り息子であるクリスを望むことなんてできない。でも信じられないことに、あちらが望んでくれた。


 男爵家が伯爵家の申し出を断ることなんてできない。

 身分の違いを逆手に取った。

 たとえ私を望んだのが伯爵夫妻であっても、私はクリスと結婚できる。初恋の男の妻になれる。それだけで十分幸せ。

 そう思っていた。


 だから今こうして、自分自身の稚拙な浅慮に苦しめられている。

 喜び勇んで緑豊かな森に飛び込んだのに、道を見失ってさまよい鳴く愚かな仔猫のように。


「ビー、まさか君は僕との婚約を解消するつもりなのか!?」

「できるものならそうするべきなんでしょうね」

 クリスが息を呑んだ。我ながら氷柱のように冷たい声だった。


 そうよ。

 やっぱりこの婚約の申し出を受けるべきじゃなかった。


 クリスの妻になるべきなのは、それこそノーサンバーランド公爵家のレディ・アデレードのような生粋の貴婦人なのよ。幼馴染みという偶然がもたらしただけの関係しかない、彼に地位も権力も富も与えてやれない私ではなく。

 身の程知らずに分不相応な幸運に手を出したりしたから、私はこんな惨めな思いを味わう破目になったんだわ。


「ケアリー子爵、わたくし、そろそろ失礼いたしますわ。ベルフォレスト公妃と歴史の授業を受けなければなりませんの」

 いかさまの貴婦人の仮面を貼りつけ、私はクリスをにらんだ。つまらない意地だ。でも、そうでもしないとあまりにも悲しくて悔しくて、この場で声を上げて泣いてしまいそうだった。


 なぜかひどくうろたえた様子で立ち尽くす彼の横をすり抜け、ドアノブを握った瞬間、ものすごい力で腕をつかまれた。


「ビー、待ってくれ! 僕は……」

「触らないで!」

 声の限りに叫び腕を振ると、二の腕をつかんでいた手がゆるんだ。その手を振り払い、私は蜜蜂のように素早く部屋を飛び出した。


 最後に一瞬だけ、ぼやけた視界にクリスの若草色の瞳が映った。

 どうしてか深く傷つき、霜に覆われたヒイラギの葉のように凍りついて見えた。

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