表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/13

第4話 朝の出仕

 あれからすぐ、やけに興奮した様子のクリスが「ビー、すぐ終わらせる」と私にのしかかって欲望をぶつけてきた。

 そのせいで、自分の部屋に戻るのがいつもよりだいぶ遅れてしまった。

 ほてった頬を冷ますのに難儀したわよ、まったく!


 でも、明け方だろうといつだろうと、クリスの誘惑を拒むことは至難の業だ。ただでさえあまり頑丈とはいえない私の全ての理性を奮い立たせても、到底打ち勝てるものではない。

 たとえその日一日中、後ろめたさに苦しめられ、彼の欲望に濡れた眼差しや逞しい裸体を発作のように思い出して、そわそわ落ち着かない心地になると分かっていてもね。


 両手をシーツに縫いつけられ、厚くて硬い胸板に押しつぶされる。男の重みに酔う。欲望に曇った瞳で見下ろされるときの歓び。彼とつながり、揺さぶられるときの快楽と熱……

 あぁ、思い出すだけでぞくぞくしちゃう。

 彼の隆起した背中の張り具合や、夜明け前の薄明かりの中で裸身を伸ばす様を思い返せば、欲望が顔に出るに決まっている。あからさまに。そんな顔で公妃の前に出仕するわけにはいかない。

 私は頬を軽くはたいた。


 ホワイト宮殿で舞踏会が催された日、私が彼の部屋で一晩過ごすことは、同僚の宮廷女官たちはもちろんベルフォレスト公妃さえ承知している。でもだからって、数刻前の情事の空気を引きずって出仕するなんて、決して許されない。


 当たり前よね。私だって嫌よ。

 そんなだらしない気持ちで女官奉公しているんじゃない。

 いやしくもコンラッド男爵家の名前を背負って、将来のダンレイン伯爵夫人として相応しい振る舞いを身につけるために、こんな物騒な場所で窮屈な侍女生活を送っているんだから。


 いくら寝不足で腰が重かろうと、朝の出仕くらい完璧にこなせなきゃケアリー家には嫁げないわ。


「おはようございます。ベルフォレスト公妃様」

 三人の侍女全員が声をそろえてコーラスのように挨拶をする。

「おはよう」

 ベッドの中、起きぬけの公妃はあからさまに眠そうにあくびをかみ殺した。


 この様子だと、昨晩も皇太子殿下に激しくいたぶられ――あら失礼、間違えた――熱烈に愛されたご様子ね。あら、まぁ、ネグリジェからのぞく豊満な胸元に赤い欲望の痕跡がちらほら散らばっているわ。メリッサもそれに気付いたのか、まるい頬をほんのり赤らめている。


 朝の光の中にいらっしゃる公妃は、国中の画家たちが絵筆を取らずにはいられないほどの神々しい美しさだ。豊かに波打つ淡い金髪は朝日を浴びて輝き、薄桃色の肌はその真下に清流が流れているかのようにしっとり潤っている。極上のブルーサファイアをはめこんだような瞳が、不意に私をとらえた。逃げることが非常に難しい、湖の底に舟人を溺れさせる美しい人魚のような眼差し。


「ミス・コンラッド、あなたもだいぶ眠そうね」

 蜂に刺されたようにぽってりと肉感的な唇から、低く落ち着いた声がこぼれた。公妃は声さえも澄んで美しい。そこには冷笑も揶揄もない。まるで仲間をいたわるような優しさがあった。


 こういうとき、私はどう転んでもこの御方に勝てないと実感する。

 ベルフォレスト公妃は敗戦国の王女だ。婚約者は戦死し、戦争には敗れ、父である国王は処刑され、祖国はこの帝国の統治下に置かれている。王位継承者として将来は女王となるはずだったのに、戦利品のように皇太子殿下の愛人にされ、このホワイト宮殿では四六時中危険と敵意と嫉妬と蔑視にさらされている。まだたったの十八歳なのに。

 それでもなお、私たち侍女に優しい笑顔を向けるこの御方。


 私が彼女の立場だったらと思うと、身震いする。

 もし故郷をめちゃくちゃにされたら。お父様を殺されたら。クリスがいなくなってしまったら。考えるだけでも耐えられない。周囲をぐるりと敵に囲まれながら、これほど優雅に毅然と振る舞うなんて、私なら絶対できない。


「冷水で顔を洗いはいたしましたが、お恥ずかしい限りです、公妃様」

 私は恥じ入る気持ちをどうにもうまく隠せなかった。まるでおぼこい田舎娘だ。

「あら、そんなことないわよ」

 ベルフォレスト公妃は、大輪の白百合がほころぶように私に微笑んだ。「たっぷり愛されたからかしら。お肌がつやつやしていて、とても素敵だわ」


 小さくも歴史ある北方の王国の王女だったのに、彼女はとても率直なの。宮廷社交界の大多数を占めるお上品でお高くとまった、もったいぶった物言いしかしない姫君や貴族令嬢たちとはまったく異質の、一線を画す魅力だ。


「あなたとケアリー子爵は本当に仲が良いのね」

 ベルフォレスト公妃の口から、唐突にクリスの名前が飛び出した。不覚にも、私は激しく動揺してしまった。

「ゆうべ、あなたたちはとても楽しそうだったわ」

 胸や腹部、太腿の内側にまで散らばる赤い痕に恥じらう素振りも見せず、下着を替えさせながら公妃が私に言った。

「はい。昨晩の舞踏会では、ケアリー子爵との同伴をお申し付けくださいましたこと、あらためてお礼申し上げます」


 宮廷の舞踏会なら通常、未婚の侍女である私はベルフォレスト公妃のそばに控えていなければならない。でも昨晩は、クリスが出席するからたまには婚約者同士二人で楽しみなさい、ってベルフォレスト公妃のご厚意で付き添いを免除してくださったの。


「あなたの婚約者殿は馬術に大変秀でていらっしゃるんですってね。今度遠乗りに出掛けるときには、ぜひご同行願いたいものだわ」

 きわめて女性的な美貌に反して、ベルフォレスト公妃は殿方のように馬に乗って駆けることが好きだ。晴れた日などは、よく皇太子殿下たちと遠乗りに出掛ける。

「ケアリー子爵の馬術は超一級とうかがっております。弱冠二十二歳ながら近衛隊第一竜騎兵隊、隊長首席補佐官を務めていらっしゃるとか」

 メリッサが――おそらく私に気を利かせてくれたのだろう――、公妃にクリスの輝かしい経歴を伝えてくれた。

「あら、それなら腕前はお墨付きね」

 砂時計のようにくびれた胴部をコルセットで締めさせながら、公妃は私に優美な笑みを向けた。「遠乗りでお会いするのが楽しみだわ」

「公妃様がそのようにお申し出くださいましたこと、ケアリー子爵に申し伝えておきますわ。きっと光栄なことだとお喜びになるでしょう」


 そりゃあ、クリスは飛び上がって踊り出さんばかりに大喜びだろう。彼も馬で駆けることが好きだし、それが憧れのベルフォレスト公妃とご一緒できるとなれば、近衛隊の職務をなげうってでも馳せ参じるに違いない。


 私はこのとき、声が震えないよう受け答えできていたかさっぱり自信がない。

 予想だにしなかった不安と新たな苦悩が、私の中に絶え間なく浮き上がってきた。


 正直に打ち明けるけど、クリスがどれだけベルフォレスト公妃に夢中だろうと本気で心配はしていなかった。

 だって、彼は伯爵家の跡取り息子。この帝国の皇太子殿下の愛人に手を出すなんて、貴族としての信用、近衛隊での経歴と宮廷での評判、廷臣としての将来をドブに投げ捨てるようなものだ。

 クリスはちゃらんぽらんなお坊ちゃんだけど、そこらへんの優先順位づけは冷静で的確なのよ。


 でも、ベルフォレスト公妃ご本人がクリスに興味を持ってしまったら?

 万が一――あくまで万が一だけど――彼に惹かれて接近するようなことがあったら?


 まずい、まずい、まずい! そんなこと、絶対だめよ!

 朝食前のお茶と果物を用意しながら、私は内心、密かに恐慌状態に陥っていた。


 ベルフォレスト公妃の真っ青な瞳と女神のような微笑みにかかれば、クリスなんて魂ごと引き抜かれて跡形もなく心を奪われてしまう。そんなことになれば、私ごときの存在なんて、きれいさっぱり忘れちゃうんじゃないかしら。


 どうしよう。ありえないと言い切れない。

 どうしたらいいの?

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ