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第3話 瞼の裏

「ビーはぼくのおよめさんになるんだよ」

「なんで?」

「ぼくがビーのこと、すきだから」

「わたしもクリスのこと、すき」

「ほらね、ビーとぼくはなかよしだもん。ビーはおんなのこでぼくはおとこのこ。だからビーはぼくのおよめさんになるんだよ」

「そっかぁ。いいよ。わたし、クリスのおよめさんになってあげる」

「わぁい、ありがとう! じゃあ、やくそくのちゅうしよう」

「うん、いいよ」


 金褐色の巻き毛がふわりと揺れた。つぶらな若草色の瞳とふっくらまるいアプリコット色の頬が近付いて、唇にやわらかくあたたかいものが触れた。

 背中に翼が生えて、ふわふわと宙を漂っているような温かく甘い心地。綿菓子の雲の上にある天国の地を歩いているのかしら? 馥郁(ふくいく)とした花々の香りで満たされた楽園にいるみたい。


 次の瞬間、ダンレイン城の緑豊かな中庭の景色が一変した。


 薄暗い。まばたきをする。夜明け前、スミレ色の部屋に淡い光が静かに漂っていた。

 最初に見えたのはひどく着痩せする逞しい肩。それから弓のような鎖骨。大きな喉仏。うっすら髭の生えた顎。やわらかそうな唇。クリスの寝顔。彼は向き合って私を抱きかかえるようにして眠っている。密着した肌のぬくもりが心地いい。いつものように厚い胸板にすりよってしまう。


 目線を上げて、クリスの寝顔を盗み見た。

 金褐色の巻き毛がはねて目元にこぼれ落ちている。あぁ、なんて長い睫毛なの。何度見てもうらやましくなっちゃう。クリスの寝顔はとんでもなく愛らしい。


 ここだけの話、クリスは服を着て宮廷や舞踏会にいるときはおっとりしたお坊ちゃまって雰囲気がぬぐえないんだけど、裸でベッドの中にいるときはちょっと強引で荒々しくて、すっごく男前なのよ。彼に見下ろされると――ときどき見上げられるときもあるけど――何でも言うことを聞いてあげたくなってしまうのよね。

 もう一度、クリスの寝顔を見上げた。ふっくらしていた頬は青年らしく引き締まり、まるかった輪郭はほどよくがっしりして、あの頃のあどけなさはどこにも残っていない。でも、この唇はあの頃と変わらない。ほんのり赤らんださくらんぼみたい。甘くて、おいしくて、きもちよくて、いつまでも味わっていたくなる。

 クリスを起こさないよう、そっと首を伸ばす。触れるだけの口づけ。


「ビー…… ビアンカ……」

 クリスがもごもごと私の名前を呼んだ。


 私の夢でも見ているのかしら? そう思ったら、頬や耳がチリチリ熱くなってきた。つい数時間前の熱情を思い出し、足の付け根の間がむずむずし始めた。目を閉じて、熱をやり過ごす。


 瞼の裏に、さっき見た幼い頃の夢がよみがえった。懐かしい。あの頃は結婚がどんな意味と役割を果たすかなんて、これっぽっちも知らなかった。ただ、仲の良い男と女が一緒にいるための約束、くらいにしか考えていなかった。


「ぼくがビーのこと、すきだから」

「ほらね、ビーとぼくはなかよしだもん。ビーはおんなのこでぼくはおとこのこ。だからビーはぼくのおよめさんになるんだよ」

 かつてのクリスの余りの無邪気さに口元がほころんでしまう。


 もし、それがこの婚約の理由だったら、どれほど嬉しかっただろう。

 この婚約はダンレイン伯爵夫妻が決めたこと。クリスが私を望んだわけじゃない。

 貴族の結婚なんてみんなそんなものよ。彼にしてみれば親が決めた相手だし、私なら気心が知れているし、家格が同等以上の貴族の娘を娶って気を遣うより楽ちんでいい。そんなところだろう。


 だから、私の目の前で堂々と他の女に目移りして、それを隠そうともしないのよ!


 あぁ、もう。思い出したらまた腹が立ってきたわ。

 夫の浮気にも優雅に悠然と構え、愛人相手にも女主人として堂々と振る舞えてこそ、一流の貴族の妻の証。それくらいわかっている。


 でも、私はそんなことは到底できそうにない。

 ベルフォレスト公妃にうっとり見惚れるクリスを見るだけでもつらい。


 本当は「私以外の女なんて見ないで!」って叫びたい。

 だけど、そんな恥ずかしい姿を彼には見せたくない。気楽な幼馴染みの私からそんなドロドロした醜い感情をぶつけられたら、クリスはきっと恐れをなして私との婚約を破棄してしまうだろう。だから、私はいつも怒りと悲しみを仏頂面に押し隠すので精一杯。


 ……なんて、純情ぶっても仕方ないわよね。

 私はまだ十九歳だし、クリスも二十二歳になったばかり。こういう問題はこれから先いくらでも出てくるはず。この男が誠実に私一筋になるなんて高望みはせず、私はどんな女が出てきても伯爵夫人らしく毅然と対処できるよう心積もりしておくべきよね。


 まぁ、簡単にそれができれば世の中の女は誰も苦労しないって話なんだけど。


 それにしても、ずいぶん幼い頃の夢を見てしまった。

 十五年くらい昔のことよ。今も鮮明に覚えているなんて、私もなかなか一途じゃないの。私みたいな一見ハスッパな女が、実は初恋の男をずっと想い続けているなんて、たいていの殿方は憐憫を催してちょっとくらっとくるんじゃないかしら。


 もっとも、そんな私の実情を私以外の誰かに――こうして肌と肌をくっつけて眠りこけている初恋の男本人にも――お知らせするつもりはまったくない。


 と、そのとき、私よりいくらか体温の高い二本の腕が私をきつく抱き締めた。


「ビー、おはよう」

 私の苦悩なんてこれっぽちも気付いちゃいない呑気な声だ。恨めしい気持ちで視線を上げると、案の定、ぬるいワインのようなだらしない笑顔があった。

「おはよう、クリス。腕をほどいて。私、もう行かなきゃ」

 こういうときかわいく甘えた声を出せないから、私って女としてダメなのよね。

「もう行ってしまうのかい?」

 懇願と非難が入り混じった声。飼い主を引き止めようとするいたいけな仔犬のような眼差しで、クリスが私をじぃっと見つめ返した。

「もうちょっと一緒にいようよ。ね?」

 それから、若草色の瞳が甘えるように私をのぞきこんだ。


 彼のベッドで一夜を共にした翌朝はいつもこうだ。

 願いさえすれば何でも手に入ると疑わない子供のように、クリスは私の立場や義務なんて考えもせずこうして留め置こうとする。

 しかし、彼はすでに立派な大人の男だ。そして、願いさえすれば大抵のことは何でも聞き入れられ、いとも簡単に手に入れられる立場にある。だからこんなふうに臆面もなく、厚かましく私に甘えてくるのよ。


 このとき、私はこう言い返すつもりだった。

 私はあなたの大好きなベルフォレスト公妃が目を覚ます前に、部屋に戻って身支度を整えて出仕しなきゃいけないの。だから、いつまでも婚約者のベッドの中で、素っ裸のままぐずぐずしちゃいられないのよ。

 だいたいクリス、あなた、こんなときだけ婚約者づらしてベタベタするなんて都合がよすぎるんじゃなくて?

 あなたはもうちょっと礼節というものを学ぶべきよ。

 なぜなら、あなたは一応、私の婚約者なんですからね!


「もう、あとほんのちょっとだけね」

 ところが、予想だにしなかった甘ったるい声が出て、私自身かなり驚いた。

 それを誤魔化すべくクリスの胸に顔を押しつけると、かすかに汗と白檀の香油が混じった匂いが鼻をくすぐった。

 クリスの肌に、私の香りが移ったんだわ。


 まるで彼が私だけのものになったみたい。ちょっと嬉しい。

 これくらいの錯覚なら構わないわよね?


 彼のたくましい筋肉に覆われた背中に腕をまわし、そっと(まぶた)を閉じた。

 すると大きな手が私の背中を包み込み、優しくなでてくれた。

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