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第2話 ひどい人

 クリスはほかの近衛隊騎士たち同様、ホワイト宮殿の西の翼棟に居室を構えている。一方の私はというと、お仕えするベルフォレスト公妃や同僚の侍女たちとともに、反対側の東の翼棟で暮らしている。


 だから普段、私たちが互いの部屋を行き来するようなことは当然、まったくない。

 だって、そのためには皇族のみなさまの居住区――この国で最も警備が厳重で侵入者に容赦のないことで名高い――を通り抜け、ホワイト宮殿を横断しなきゃならないんだもの。

 いくら野育ちの私とて、さすがにそこまで怖い物知らずじゃないわ。


 ただしこうしてホワイト宮殿で舞踏会が催された晩は、クリスは招待客のケアリー子爵として東の翼棟の客室を与えられる。そういうときはたいてい、私がその部屋まで真夜中にこそこそ出向いていくことが私たちの習慣として定着していた。


「ビアンカ、今夜はケアリー子爵のところに行くの?」

 手早く入浴を済ませ、鏡台の前に腰かけて首筋と胸元に白檀の香油を塗っていると、二人部屋の同室者が背後から話しかけてきた。鏡越しに瞳をきらきら輝かせたメリッサ・アロースミスと目が合う。

「えぇ、夜明けまでには戻ってくるわ」


 同じ部屋でベッドを並べる彼女の目を盗み、夜中に部屋を抜け出して夜明け前に帰ってくる、なんて夜の妖精みたいな芸当は私にはない。

 下手に隠すことはせず、舞踏会の晩に私がどこで誰と何をしているか、彼女にはすべて打ち明けてある。


「ビアンカがうらやましいわ。私も早く恋人がほしい」

 ベッドに寝転がって頬づえをつきながらメリッサが言った。

「恋人じゃない。婚約者よ」

 そんなロマンチックな関係じゃありません。

「うふふ、ビアンカったら、わざわざ訂正したりして。でも、そこは重要よね。恋人より婚約者の方がずっと素敵だもの!」


 私の訂正をおめでたい方向に勘違いしたメリッサは、うきうき上機嫌そのものだ。そしてベッドの上で野ウサギのように跳ね起きると、妙にかしこまった顔つきで私を見つめた。


「ねぇ、ビアンカはいつもどれくらいしているの?」

 ソバカスの散った頬をほんのり赤らめ、メリッサが問いかけてきた。

 やれやれ、真剣な顔つきになったと思ったらこれか。

「踊りの練習はいつも一時間程度よ」

「もう、はぐらかさないで! ケアリー子爵とは何回したの? いつもどれくらいしてるの? 朝までするの?」

 興味津々な様子で、メリッサは矢継ぎ早にずいぶんとあけすけな質問をしてきた。品行方正でお行儀のいい彼女にしては、やけに踏み込んだ振る舞いだ。

「何回したかなんてわからないわよ。数えてないもの。それと朝までするわけないでしょ、猿じゃあるまいし。多くてせいぜい二回、終わったら夜明け前まで寝るだけよ」

「ま、まぁ、そうなの…… そういうものなのね……」

 なにを想像しているのか、メリッサは顔を真っ赤にして枕を抱え込んでしまった。

 この子、こんなに初心(うぶ)で大丈夫かしら? 私は思わず心配になった。


 だって、ここは権力闘争と謀略と愛憎が渦巻くホワイト宮殿。欲望の伏魔殿。

 壮麗にして典雅なホワイト宮殿の美しさに騙されてはいけない。

 ここは王子さまとお姫さまが暮らすおとぎ話のお城などではない。


 帝国屈指の大富豪アロースミス家の娘であるメリッサは、良くも悪くも貴族社会とは縁が薄い。だから、いくら大金持ちとはいえ、ここでは多少肩身の狭い思いをしているようだ。でも、何不自由なく愛されて育ってきた人間特有のおおらかさで、だいたい誰とでも打ちとけて味方につけてしまう。

 ホワイト宮殿に宮廷女官として出仕している目的も、純然たる行儀見習いだ。アロースミス家なら、娘一人のためにそこらへんの貴族の娘五人分くらいの持参金を用意できるはず。それに彼女は美人ではないけれど、人懐っこい仔犬のような笑顔がたまらなく愛らしく魅力的。宮廷の貴公子たちからの人気もなかなか高いのよ。つまり、妻としてあらゆる殿方から引く手あまたってわけ。だから、ここで躍起になって結婚相手を探す必要はない。


 そうしたゆとりがあるからか――いいえ、生まれ持った気質でしょうね――さもない男爵家の娘の私に名門伯爵家の跡取り息子の婚約者がいることを妬んで、陰口を叩いたり嫌がらせをするといった姑息なところも一切ない。私みたいに()れていないし、ほがらかで本当いい子なのよね。


 この子と話をしていると、嫌な気分がやわらいでいく。


「あそこにいらっしゃるのは伯爵家に取り入った男爵の娘ではなくて?」

「満足に持参金も用意できない幼馴染みに手を差し伸べるなんて、ケアリー子爵はずいぶんお優しいこと」

「あのドレスの胸元をご覧になって。今にもこぼれ落ちてしまいそう」

「まだ結婚していないのに夜毎ケアリー子爵の寝室に忍んで行っているともっぱらの噂ですわ。さすが田舎の男爵の娘は自由奔放でいらっしゃること」

「ミス・コンラッドは踊りが大層お上手なんですってね。やっぱり身体を動かすことがお得意ですのよ」


 舞踏会でクリスが私からちょっと離れた途端これだった。

 もうすっかり慣れたとはいえ、同じ女から悪意をぶつけられるのは楽しいことじゃない。運に恵まれていることは自覚している。それが原因で少なからぬ貴族の娘や宮廷女官たちから嫌われていることも。


 私のような娘がクリスのような殿方と結婚できるなんて、滅多にあることじゃない。

 我が家は貴族とはいえ爵位は一番下の男爵。そこそこ歴史はあるけど、とくに高貴な血を引くとか宮廷で権力を誇るわけでもない。小さな領地で小作人たちと仲良くやっていければいいや、という能天気な家系だ。

 ところが、たまたま隣の領地にこの帝国で名門と呼ばれるダンレイン伯爵家があり、ひょんなきっかけで伯爵夫人と私の母が親しくなり、娘がほしかった伯爵夫人が私を娘代わりにかわいがるようになり、去年の春、私が十八歳になったとき、ひとり息子のクリスとの婚約が成立した。


 誰もが認めざるをえない家柄や血筋も、ベルフォレスト公妃のような圧倒的な美貌も、メリッサのような莫大な持参金も、私には何もない。それにもかかわらず、私が将来のダンレイン伯爵の妻という身分を手に入れたことが彼女たちにはおもしろくないのだ。


 気持ちは分かる。

 だからってこの幸運をみすみす手放すほど、私は親切な女じゃない。


 ネグリジェの上にたっぷりしたガウンをきっちり巻きつけると、私は召使いが使う裏の通路に忍び込んだ。

 壁に沿って小さなろうそくが等間隔で灯っているものの、召使い用の通路はひどく暗い。足下はほとんど見えない。だから私は、いつもガラスの筒の中にろうそくを立てたランプをさげている。炎が消えないように慎重に、決して走ってはいけない。でも逸る気持ちを抑えられず、くるぶしが丸見えになるほどネグリジェをたくし上げ、私はクリスがいつもあてがわれる客室に向かった。


 クリスがいる客室のドアに私だと知らせる秘密のノックをすると、すぐにドアが開いて彼が顔を出した。洗いざらしの髪。やわらかそうなガウンをゆったりとまとい、若草色の瞳を悪戯っぽくきらめかせていた。


 素早く彼の部屋に入るとランプに蓋をして明りを消し、すぐそばのチェストの上に置いた。普段は仰々しいケープに隠されている逞しい二本の腕が、強欲な悪魔のように私をさらって抱き締めた。


「ビー、君に触れたくてうずうずしていたんだ」

 私をドアに押し付け、首筋に鼻先をうずめながらクリスがささやいた。

「あら、そうだったの。私もよ、クリス。奇遇ね」

 笑顔を見られないよう、彼の頭を抱え込んだ。

 するとクリスはそのまま膝を落として私の腕から逃れ、下からすくい上げるように私を抱えた。小猿のように彼の日に焼けた首にしがみつくと、彼はそのまま大股でずんずん私をベッドに運んだ。


「君はいつも僕を待たせるひどい人だ」

 手早く私のガウンをほどきネグリジェごとはぎとると、クリスは私の膝を割って腰と腰を密着させた。硬いふくらみを押しつけられると、私はいつも口元をほころばせてしまう。「ほら、もう待ちきれないよ」


 見上げると、若草色の瞳が無邪気な欲望できらめいていた。

 私の胸やお腹を舐めるように見つめる正直で猛々しい眼差し。

 ぞくぞくする。火が点いたように肌が熱くなり、ちりちりと焦がされるような欲望が身体の奥へ、奥へと染み渡ってゆく。その熱で、私は内側からとろとろ溶かされてゆく。


 この瞳はずるい。クリスこそひどい人だ。


 どれだけ意地悪な言葉を投げつけられ、傍若無人な振る舞いで苦しめられ、節操のない浮気心を目の前で見せつけられても、私はこれにめっぽう弱い。


 クリスのこの瞳に見つめられると、私は何もかも全部なかったことにして彼を許してしまうのよね。

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