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第11話 確認

 私の手を包むクリスの手が、ぎゅっと力を強めた。

「あのとき、ちょうど僕の縁談が進められていたんだ」

「まぁ! あなた、すでに婚約者がいたの?」

 過去のこととはいえ、私はひどく動揺した。

「違う。父上が勝手に進めようとしていた縁談だ。首都生まれで生粋の宮廷育ち、趣味が刺繍なんて娘は僕には荷が重すぎるよ」

 クリスはうんざりした様子で吐き捨てた。


 まぁでもそのとおりかも。

 クリスが生まれ育ったダンレイン伯爵領は、 “帝国の庭園” と称えられる緑豊かな美しい田園地帯だ。彼は領民に紛れて田畑で泥んこになり、馬にまたがって丘を駆け、森や川で擦り傷をこしらえながら遊んで育った。隅から隅まで洗練され、王侯貴族ばかりの宮廷で育った深窓の令嬢と相性がいいとは考えにくい。


「だから私?」

「え?」

「ほら、私ならほぼ同郷だし、外を出歩くのが好きだし、馬に乗って襲歩(ギャロップ)もできるし」

 クリスにとって私が彼の婚約者で都合が良さそうなことを指折り挙げてみる。「それに、なにより幼馴染みだから気が楽だしね」


 うん、やっぱり最後のこれに尽きるんじゃないかしら。

 というか、それだけ、と言われても納得せざるを得ないのが情けないところなんだけど。


 頬をやわらかな力で押し上げられた。クリスが私の頬を両手で優しく挟んでいる。そこから伝わった体温が、熱病のようにたちまち私の全身を駆け巡った。

 美しい若草色の瞳は ――月明かりの魔力かしら?―― 丹念に磨き上げた宝石に見入るようにうっとり甘くとろけ、情愛とかすかな欲望で曇っているように見える。


「ビー、たしかに君の言うとおり、君と僕は幼い頃からずっと一緒に時間を過ごしてきた幼馴染みだ。それゆえの気安さがあることは認める。でもそれ以上に、僕たちが共に過ごしてきた時間が、僕にこの上ない喜びを与えてくれるんだ」

「喜び?」

「僕はこの宮廷の誰より君のことを見てきた。まだ赤ん坊だった頃の君も、森や川で遊んでいた君も、馬に乗る練習をしていた君も、礼儀作法の教師から逃げ出した君も、領民と笑い声を上げる君も。だから、仔猫のようにお転婆だった君が、こうして見事な貴婦人に成長していく様子に誰よりも感動できる。それが嬉しい。芽吹いた頃からずっと見守ってきた花が、美しくほころぶ様を愛でるような喜びだ。だからこそ、君を誰にも渡したくなかった。僕以外の男と結婚し、そいつと愛し合い、そいつに抱かれ、そいつの子供を産む君を想像しただけで、僕は耐え難い苦痛で胸が張り裂けそうになった。物心ついた頃から、いつも君に触れたくてたまらなかったんだ。今もその気持ちは変わらないよ」


 クリスは何を言っているの?

 これではまるで、幼い頃からずっと彼が私を想い続けているように聞こえてしまう。


「だから、あんな愚かな真似をしてしまったんだ」

 クリスの顔にたちまち後悔が広がった。

「コンラッド男爵が君の婚約者を探していると聞いて僕は焦った。君をどこの馬の骨とも知れない男にさらわれるなんて冗談じゃないと怒りさえ覚えた。だから、婚約の申し込みの書簡を偽装したんだ。両親を説得する時間さえ惜しかったし、下手にそんなことをしたら僕の縁談を早められかねない。僕は八方塞がりで、完璧に冷静さを欠いていた。そのうえ身分を笠に着て、卑劣な手段を取ってしまった。我が家からの婚約の申し込みなら君の家は断れないと思ったんだ。おまけに婚約が公に成立したら、すぐさま君の純潔を奪った。それを周囲に隠そうともしなかった。そうしたのは、万が一、僕の所業が君や男爵夫妻に露見しても、君が僕以外の男と結婚できなくさせるためだ。君と僕が夫婦と同じ行為をしていると知ったら、コンラッド家側からこの婚約を解消しようとは絶対しないだろうと踏んだんだ。ビー、君を手に入れるために、僕は卑劣極まりない振る舞いをしてしまった。そのことがずっと胸につかえていたんだ。早く君に全てを打ち明けて謝らなければならないとわかっていたのに、君に嫌われたくなくて…… 君に軽蔑されるのが怖くてできなかった」


 私の目の前にいる男は誰?

 私に嫌われることを恐れ、全身で私の許しを乞うている。こんないじらしくひたむきな男は、見たことがない。

 私の頬をはさんでいたクリスの両手が遠慮がちに下がっていき、なだめすかすように私の両肘をそっとつかんだ。

「今朝、手紙を読んでもらうことさえできないと知って、君に嫌われた、軽蔑された、終わった、と絶望したよ。僕はもう謝罪すら受け入れてもらえないのか、とね。僕を蔑む君を見るのが怖くて、道中も狩りの最中も君を見ないよう、必死に心を抑え込んでいた。なのに、アレックスめ、君が何をした誰と話していると僕に逐一報告してきて…… そのたびに君への恋しさが増すばかりだった。認めたくはないけれど、あいつのおかげで僕はやはり君でなければ駄目なんだと腹を括ることができた。それだけはあいつに感謝してもいい」

 クリスとともに思わず苦笑いだ。

 セイルマス伯爵は、思いのほか世話焼きで面倒見がいいらしい。


「さっき、僕との婚約を解消したくなったら遠慮なく言ってくれ、などと言ってしまったけれど、本当はそんなことは耐えられない。ビー、お願いだ。どうか僕を見限らないでくれ。僕には君しかいないんだ」

 擦りガラスのような月明かりの中、私はクリスの瞳を真っ直ぐのぞきこんだ。熱望と意志が宿った若草色の瞳は一点の曇りもなく澄んで、真摯で正直で誠実に見えた。

「ねぇ、クリス」

「何だい?」

「念のため確認しておきたいことがあるのだけれど、構わないかしら?」

「……何だい?」

 クリスは不安げに身構えた。


「あなた、もしかして私のこと、好きなの?」


 クリスの瞳が愕然と見開かれた。そしてすぐさま困惑と動揺、少しばかりの怒りを滲ませて私を見返してきた。

「君はいったい何を言っているんだ……」

「あぁ、そうよね、ごめんなさい。ばかなことを言ったわ。わかっているわよ」

 親しみ慣れた虚しさと寂しさが、私の胸の中を再び満たした。

 クリスが柄にもなくやけに情熱的なことをまくしたてるから、もしかして、と思っただけだ。決して本気で期待したわけじゃない。

 唇を噛む。顔のどこかに力を込めていないと、睫毛の間から涙がこぼれそうだった。だから、うつむいて誤魔化すことはできない。仕方なく瞬きして払おうとしたけれど、睫毛に1粒こぼれてしまった。

 クリスが顔を近づけ、その涙に口づけた。

「ビアンカ」

 優しい声だった。

「僕は君のことが好きだ。誰よりも好きだ、だから君や君の家族を騙してまで君を手に入れようとしたんだ。愛しいビアンカ。幼馴染みとして、婚約者として、そしてひとりの女性として、君を心から大切に思っているよ」

 聞いたこともない異国の言葉なのになぜか意味がわかる。そういう心地、わかってもらえるかしら?

 クリスは若草色の瞳を潤ませ、慈愛のこもった甘い眼差しで私を見つめた。

「ビー、君が僕の愛を疑って、いや、知らなかったなんて思いもよらなかったよ。どうしてそんな寂しいことを言うんだい? 僕は君を蔑ろに扱ったことなんて――」

「蔑ろにしていたでしょ!」

 礼儀も慎みも忘れて彼の声を遮り、私は怒りもあらわに叫んだ。

「あなたは私の目の前でベルフォレスト公妃に目移りばかりしていたわ! 浮気心もあらわに彼女に見惚れ、彼女を称賛し、私にはこれっぽっちも見向きもしなかった。婚約者にとって、いいえ、女にとってこれほど屈辱的なことはないわよ!」


 彼はちょっと顔をしかめ、それから合点がいったという様子で眉間を開き、そしておおいにうろたえ始めた。

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