最高の契約主 5
「……ねえ、この世界でも、私は誰かを殺さなきゃだめなの?」
悲しそうな声で霜華は床を見ながら問いかける。
霧矢は力砲を眺めた。霧矢も人を容易に殺せるという状況にある。まだ、誰も殺してはいないが、今は誰かを殺さなければならないという事態にある。
「そんなことはない。絶対にない」
霧矢は小さな声で、しかしはっきりと答える。
「…嘘だよ。誰かを殺さなきゃ、私たちは平穏を得ることができないじゃない……」
「そうかもしれない。でも、殺す必要はどこにもない。殺さずに倒せばいい」
理由なんてどこにもない。納得もさせられるわけはない。それでも、霧矢はそう言い続ける。たとえ、殺さなければ平穏を得られないとしても、そう信じたい。
エゴイストの戯言かもしれない。でも、それならそれで構わない。
「今は、ただ死神の出番を与えずに、逃げる。僕たちは誰も殺さない。それでいいだろ」
力砲をくるくると手で回しながら、霧矢は目を閉じた。
銃口を機械に向けると、霧矢は引き金を何度も引く。霜華も何本もの氷の矢を機械に撃ち込む。機械は完全に破壊され、使い物にならなくなった。
「さて、みんなを運ぶぞ。お前も手伝え。そして、ここからさっさとおさらばするぞ」
霜華はうなずくと、ユリアを背負う。霧矢も護の手を肩にかけると、ゆっくりと歩き出す。
「塩沢さんを止めないと、誰かが死んじゃう前に」
人気のない廊下をゆっくりと歩いていく。階段まで来ると、霧矢は疲労を感じ、壁に寄りかかって息を吐いた。
「さすがに、霧君でも疲れるよね。ここまで大暴れして、護君を運んでるんだから」
「何のこれしき……さっさと行くぞ」
息を切らしながら霧矢は階段を上る。左手で護を支え、右手で力砲を構えながら一歩一歩段差を上っていく。霜華も後ろから続く。
上っていくにつれて、喧騒が大きくなっていく。塩沢が戦っているのを感じることができる。金属音がこだまし、魔生体が斬られている。
「塩沢!」
「まだ早い! そこで待っていろ!」
階段の出口からエントランスホールで戦っている塩沢の姿が見えた。剣で魔生体を次々に切り伏せ、順調に敵の数を減らしていく。
自分を取り囲む数多の敵を臆することもなく倒し続ける。並の人間ではない強さだ。本来、頭脳を持たない魔生体もそれを感じているのか、塩沢に対してこころなしか引け腰になっている気がする。
一体一体と敵は確実に減っていく。斬られた魔生体は光の粒となって薄暗いホールの中で立ち上るように消えていく。
「とどめだ!」
両手剣を片手で投げる。最後の魔生体を貫通し、剣は壁に突き刺さる。頭を貫かれた魔生体は光と消え、そして、ホールに静寂が訪れた。塩沢は壁から剣を引き抜いた。
「魔生体はすべて片付けた。人間は外にいるようだがな」
塩沢は剣を壁に立てかけると、腕組みする。霧矢の顔をまっすぐに見ている。
「俺に何か言いたいことでもあるんじゃないのか? そんな顔をしている」
霧矢は霜華の肩を叩く。霜華は塩沢の顔を直視すると、
「塩沢さん、私たちは誰も殺さない。あなたも誰も殺さないで」
塩沢は奇怪なものを見るような目つきを見せた。この期に及んで誰も殺さずに切り抜けようとするなど、非現実的にも程があると言いたいのだろう。
「つまり、君たちは俺に死ねと言いたいのか? さっきも言った通り、殺しを封印するなど自殺行為だ。誰かを殺す覚悟は常にしておかなければならない」
「あなたは強い。だから相手を殺さずに何とかできるはず。私も誰も殺さないようにする」
「魔族と人間は違う。傷の回復力もはるかに劣る。やらなければやられる状況でそんな悠長なことを言っている暇はない」
塩沢は真っ暗な外を見つめる。木々に隠れて敵はこちらを狙い撃ちにするかもしれない。暗いとはいえ、暗視ゴーグルなどで狙撃されたりしたら手も足も出ない。
「俺は俺の仕事を果たさなければならない。だから、殺しを封印するわけにはいかない。君たちを無事に家まで送り届けるまで、俺は君らを守り抜く。たとえ敵を皆殺しにしてでもな」
塩沢はベルトのホルダーから拳銃を取り出す。相川から命じられた仕事は必ず果たす。かつて、それができずにあんなことが起こったのだから。
三条霧矢と北原霜華を守り抜け。
(……使命を果たす。それがお前たちへの供養だ)
時計を見ると、九年目になるまであと一分。かつての仲間は守れなかったが、この子たちは守り抜きたい。悪の手をもって、悪の手から守る。
「今、八時五十二分だ。少しだけ時間をくれ。俺は息を整える。そうしたら出よう。君たちはとにかく走れ」
「で、お前は十人の敵を必要とあれば殺すんだろ。その拳銃で」
霧矢はトゲのある口調で塩沢に詰め寄る。塩沢は拳銃をポケットにしまう。言い返そうとするが、いきなり目を閉じて下を向いた。
「お…おい……」
黙ったまま塩沢は動かない。握り拳を胸に当て、ただ立ち尽くしている。
しばらくして、塩沢は目を開けた。二人は怪訝な表情で塩沢を見ている。塩沢は口を開いた。
「確かに、命とは尊いものだ。そこにあるだけで素晴らしいものだ。他人が勝手に奪っていいものではない」
「……し…塩沢…?」
いきなり、いつもとは違って感情を込めた声を出した塩沢に霧矢は驚く。
「先ほど、あの事件から九年目を迎えた。おそらく、リリアンの復讐対象もたった今死んだだろう。上手くやれていればの話だがな」
「………それで、塩沢さん、あなたは何が言いたいの?」
「尊いものを奪おうとする連中は、その尊いものを享受する資格などない。俺もそんなことは言えたことではないが」
霜華は黙っていた。塩沢は続ける。
「今更、殺すことに何のためらいがある。無抵抗の相手を一方的に殺すのは問題だが、同じ死闘の場にいる相手にそんな感情を抱くのはおかしい。相手は自分を殺してもよく、自分は相手を殺してはいけないなんて」
塩沢は霜華に向き直った。
「では、君に聞こう。君が敵を殺さないことで、霧矢君、護君、あるいはユリアの誰かが死んだとして、君は生き残ったとしよう。それで君は何を得る?」
霜華はうつむいてしまう。
「自分の力不足で守れなかったのではない。力があったのに守らなかったという罪悪感が残るだけだ。君もむこうの世界でそれは十分感じていたはずだ」
霧矢はついに黙っていられなくなり、力砲を撃ってしまう。壁に命中し大きなひびが入った。
「おい塩沢! もういいだろ。僕たちは誰も殺さないって決めたんだ! 殺されたって文句はない。お前がお前のために殺すならそれは僕たちの知ったことじゃない。でも、僕たちのために敵を殺すなんてやめてくれ。そんな十字架を背負いたいなんてこれっぽっちも思ってない!」
霧矢は踵を返すと、魔力分類器で外を覗く。魔力を放っている人間が十人ほど近くの茂みに隠れているのが見えた。全員が、こちらが屋敷から出てくるのを狙い撃ちにしようと、今か今かと待ち構えている。
「この近くに敵が全員いる。全員生かしたまま動けなくするぞ」
霧矢は魔力分類器を暗視ゴーグル代わりに使いながら、力砲で魔力の発生している場所を狙う。しかし、急所に当たってしまうと、この力砲の威力では確実に殺してしまうという問題点に気が付く。
霧矢が困っていると、霜華は深呼吸した。