平穏の終わり 12
ガス漏れ事件における、救世の理の関与に関する報告書 古町水葉・塩沢雅史
二〇XX年十二月二十四日、午後八時五十三分、新岡市中央区西町通り三丁目アーケード付近で致死性の有毒ガスが発生し、通行人二十三名が巻き込まれた。全員が同区東町二丁目の新岡大学附属病院高度救命センターに搬送されたが、うち二十一名が死亡した。二名うち一名は、翌年、意識を取り戻した一週間ほど後、二月十四日に死亡した。もう一人の生存者は三月二十九日に意識を回復し、四月二十日に退院、現在平穏に生活している模様。
被害者の氏名・年齢等は別紙に記載の通り。
東京都在住の会社員、橋野友成、当時二十八歳、を県警は証拠不十分のまま逮捕に踏み切り、地検も遺族の声を背景に起訴に踏み切った。
特筆すべきは、大規模な弁護団が組織されたことと、報道が事件の規模に反して著しく不透明かつ小規模であったことである。
調査の結果、弁護団を組織した市民団体「冤罪・死刑粉砕全国ネット」の構成員に多数の教団関係者が含まれており、また、橋野友成の勤める会社、株式会社ハートセイバーは、名目上は貿易商社となっているものの、実際は教団の下部組織であることが判明した。
さらに、橋野友成は契約者であり、契約異能を保持している。能力は残念ながら不明である。
以上のことより、橋野友成は教団と密接な関わりを持つことがうかがえる。
なお、本件において、地方裁判所は被告人に無罪判決を下している。検察は最高裁まで争ったが、一審は覆らず、東京高等裁判所で控訴棄却、最高裁判所で上告棄却となった。
本事件において、使用された毒ガスは、既存の化学物質のいずれにも該当せず、分析も不可能であった。科学では解析できず、異能の力を使用したものと考えるのが妥当と思われる。ゆえに、一切の事件の詳細が科学的に説明不可能なため公表されていない。警察上層部が報道制限をかけた一因であると思われる。
そこまで読んで、雨野は途中で紙をめくった。詳細な被害者のリストが載っていた。
「……子供が多いわね。中学生・高校生だけで十人近くもいる」
「そうだ。当時、俺と同じくらいの年だ」
「この中にリリアンの弟もいたわけ?」
塩沢は答えなかった。代わりにコーヒーをスプーンで乱暴にかき回した。
「……何か言いなさいよ。イエスかノーかでいいから」
仏頂面で手を動かしている塩沢を見ながら、相川は物憂げな表情を浮かべる。
「答えたかったら相川さんが答えてください。俺はあの事件に関して彼のことを口に出したくはない。無論、他のみんなもです」
それだけ言い残すと、塩沢は部屋を出て行った。雨野は残された塩沢のカップを見ながら、相川へ、
「彼も、関係者なんですね。そんな感じがします。見た感じ、リリアンの弟は彼の後輩、そんなところでしょうか」
すべての子供の犠牲者の経歴には、新岡市立南中学校という文字が入っていた。
「君は、私が今まで出会った一般市民の女子高校生の中で一番賢い。ここまで物事を深く見通せる子は珍しいものだ。将来大物になるぞ、君は」
あの事件の犠牲者には、塩沢の中学校時代の同級生と後輩が多くいた。塩沢が中学校の時に所属していた部活のクリスマスパーティ兼同窓会のようなものの後に起きたのだが、塩沢があの事件に巻き込まれなかったのは、事務所の仕事が入っていて会に出られなかったからだ。
その仕事が、近々、街にて起こる可能性のあるテロ事件の調査。見事に任務失敗、まさにそのテロ事件で、多くの人が亡くなってしまった。部活のかつての仲間の多くも亡くなった。
犯人があの場所で実行に移すとわかったのは、事件が起こる直前。タッチの差で間に合わず、リリアン同様に、かつての仲間が倒れるのをこの目で見てしまった。トラウマにはならなかったものの、彼らを亡くしたことを今までもずっと悔み続けているらしい。
「彼が、うちの事務所で働き始めたのは、八年前の春だった。あの時はごく普通、悲しいときには悲しみ、楽しいときには笑う男だった。人を殺したり傷つけたりすることを嫌っていた。しかし、あの事件以来」
途中まで言いかけて、相川は黙った。雨野はキョトンとした表情を浮かべる。
「君はここにいたまえ。どうやら面倒なことになったようだ」
塩沢が戸を開けて中に入ってくる。
「どうしますか、相手は六人。うち、一人は魔族もしくは契約主ですが、ここで騒ぎを起こすのは得策ではないかと。まさか、とんだ命知らず、いや物知らずがいたようですが」
「私は万が一に備えて彼女のそばにいよう。できるだけいつも通りにしたまえ」
「了解。では」
廊下に出て、塩沢はホルダーから拳銃を取り出し、弾倉を交換する。
(主力が全員出払っている時を狙ってきたか。まあいい)
「相川探偵事務所を甘く見るとどうなるか、とくと知るがいい」
*
晴代は一通りワックスがけを終わらせ、風華と一緒にテレビを見ていた。霧矢はうるさいので部屋に引き上げようとしたが、風華が晴代に何か教育上よろしくないことを吹き込まれてしまったあとでは遅い。見張っている必要があった。
集中しようにも、テレビの音が響き、頭の思考回路が混線する。耳栓を使うことも考えたが、前にそれで霜華を家に泊めることになってしまった苦い教訓があるので、そう簡単に使うことはできない。かといって、集中できないのも困る。
ベストな選択肢はないかと霧矢は考え、ある方法を導き出した。
結論、上川晴代に退場してもらう。
「晴代。お前、いつになったら宿題をやる気だ?」
「そのうちやるわよ。気が向いたら」
「言っておくが、木村も僕もお前がピンチになっても助けてやる気はないからな。今のうちに進めておかないと厳しくなるのはわかってるだろ」
「うるさいわね。そんな同じことを何回も繰り返さなくても、あたしはそれくらいわかるわよ」
「本当か? お前のその言葉も何回も繰り返されたことなんだがな」
「ああ、もうわかったわよ! 帰るわよ。帰って宿題やればいいんでしょ!」
腹立ち紛れに立ち上がり、晴代は帰り支度を始めた。霧矢は内心で作戦成功、と喜んだ。晴代の性格から考えて、挑発するのが一番だ。
「そうそう、明日午後一時、浦沼温泉スキー場の第一ペアリフト前に集合。いいわね」
「お前なあ……スキーと勉強を両立できるなら、僕は何も言わないけど、実際はそうじゃないだろ……」
「あ、そうだ。明日って、護君の退院日だったよね。やっぱりスキーもいいけど、退院パーティの方がいいかな?」
「護は僕たちのことなんて知らないんだぞ。いきなり見ず知らずの他人に祝われても混乱するだけだろう。それに、きっとかえって気を使わせるだけになると思うぞ」
霧矢が呆れた表情で反論すると、晴代はぶすっとした表情で携帯電話を取り出した。
「どこにかける気だ。会長か?」
うなずくと、晴代は端末を耳に当てる。
つながったようだが、あっという間に切られてしまったらしい。
「何か、とても忙しいみたい。また後で、って切られちゃった」
返事がないのなら、イエスってことで、とつぶやくと晴代はそのまま出て行った。