三万の兵を率いて魔王を討伐した勇者が帰還した。生き残ったのは百名だけだった
三万の兵を率いて魔王を討ち果たした勇者が、凱旋門をくぐる。
だが、民衆が期待した歓声は起きない。
帰還した兵は、わずか百名。
その誰一人として笑っていない。
勝利の行進のはずが、まるで葬列のようだった。
民衆は戸惑う。
どう声をかければいいのか分からない。
「おめでとう」と言っていいのか。
「ありがとう」と言っていいのか。
その空気を切り裂くように、一人の中年女性が前に出た。
「……あの、うちの息子は?
あの子は、後から帰ってくるんですよね?」
勇者は立ち止まる。
だが、何も言えない。
喉が張り付いたように動かない。
代わりに、軍の大将が前に出て答えた。
「……ここにいない者たちは、魔王討伐にすべてを捧げました。
彼らは……もう帰りません」
女性はその場に崩れ落ち、泣き叫ぶ。
その声に呼応するように、他の家族たちも次々と声を荒げた。
「うちの子は?!」
「夫はどこ?」
「返してくれよ……!」
勇者はただ立ち尽くす。
叫びは、すべて自分に向けられているように聞こえた。
胸の奥で、ひとつの思いが静かに形を成す。
――ああ、生き残るとは、こういうことか。
叶うなら、自分もあの地獄で終わりたかった。
その言葉を口にした瞬間、
民衆は誰一人として、何も言えなくなった。
勝利の凱旋は、完全な沈黙に包まれた。
玉座の間は祝勝の空気に満ちていた。
王も大臣も、勝利の余韻に酔っている。
だが勇者の声だけが、そこに馴染まない。
「……戦士隊は魔王城へ向かう途中、伏兵により壊滅しました。
魔導士部隊は……魔王軍の炎に包まれ……」
王が手を上げて遮った。
「よい、もうよい。
それより、どう魔王を倒したのかを聞きたい」
勇者は一瞬だけ目を伏せ、淡々と続けた。
「魔王との戦いでは……パラディンが盾となり、胸を貫かれました。
僧侶は、私に回復魔法をかけながら……魔王の爪で……」
再び、大臣が声を荒げて止める。
「こんなめでたい日に水を差すな!
我々は勝ったのだぞ、勇者よ!」
勇者は答えない。
ただ、魔王の最期を淡々と語った。
「魔王は……最後まで立ち上がってきました。
倒れたのは、私が剣を振り下ろした後です」
その瞬間、勇者の脳裏に焼き付いた光景がよみがえる。
――魔王の亡骸に泣きつく、魔族の幼い子ども。
――その隣で、崩れ落ちるように泣き叫ぶ魔族の女性。
だが、それは口にしなかった。
言えば、この国の“勝利”が崩れてしまう気がした。
王は満足げに頷き、言った。
「今夜は宴だ。
英雄よ、存分に楽しむがよい」
大広間には酒と料理が並び、音楽が鳴り響く。
だが勇者は、誰の問いにも答えられない。
「勇者様、魔王はどれほど強かったのですか」
「仲間との絆は深かったのでしょう」
「勝利の瞬間はどんな気持ちでしたか」
すべての声が遠く聞こえる。
杯を持つ手が震える。
笑えない。
喜べない。
祝われる資格などない。
勇者は、ただ椅子に座り続けた。
宴が終わり、勇者は実家へ戻った。
母が心配そうに迎え、優しく背中を押す。
「……疲れたでしょう。
自分の部屋で休みなさい」
扉を閉めた瞬間、勇者の膝が床についた。
暗闇の中で、戦場の記憶が一気に押し寄せる。
胸が締め付けられる。
息ができない。
勝利の余韻なんて一つもない。
ただ、生き残った罪悪感だけが濃く残る。
勇者は顔を覆い、声にならない声を漏らした。
「……どうして、俺だけが帰ってきたんだ」
部屋の静寂が、その言葉を飲み込んだ。
王都の門をくぐった瞬間、生き残った兵士たちは解散を告げられた。
「ゆっくり休め」と言われても、その言葉がどれほど空虚か、誰も口にしない。
宴に呼ばれることはなかった。
彼らの沈んだ顔は、勝利の祝福にはあまりにも不釣り合いだった。
街に入ると、人々は道を開けた。
感謝の言葉をかける者はいない。
どう声をかければいいのか分からないのだ。
兵士たちの歩みは重く、目の焦点はどこにも合っていなかった。
家が近づくにつれ、足を止める者がいた。
扉を開ければ、家族が泣いて抱きしめてくれるだろう。
だがその温もりは、戦場で冷たくなった仲間の身体を思い出させる。
彼は家の前に立つことすらできず、街外れの石段に座り込んだ。
別の兵士は、震える手で扉を開けた。
妹が飛びつき、母が泣きながら抱きしめる。
だが兵士の腕は宙に浮いたまま、抱きしめ返す力がどこにもなかった。
母の肩越しに、崩れ落ちた友の顔が浮かぶ。
「ただいま」
その声は、ほとんど聞こえないほど小さかった。
丘の上では、ひとりの兵士が沈む夕日を見つめていた。
隣には、戦死した親友の剣が置かれている。
「……お前の家族に、なんて言えばいいんだよ」
風が吹き、返事はない。
彼はその剣を抱きしめたまま、夜になるまで動かなかった。
酒場の裏では、兵士が膝を抱えていた。
酒を飲んでも何も感じない。
笑い声が聞こえるたびに胸が締め付けられる。
「俺が……もっと強ければ……」
誰にも届かない声で呟き、涙を止められなかった。
街の壁にもたれ、拳を震わせる者もいた。
怒りなのか悲しみなのか、自分でも分からない。
ただ胸の奥で、何かが壊れ続けている。
通りすがりの人々は、その目を見て道を避けた。
家に帰った兵士の中には、布団に横たわっても何も感じない者もいた。
家族が話しかけても返事ができない。
食事の匂いも、家の温かさも、すべてが遠い。
天井を見つめながら、彼は呟く。
「……俺は、まだ生きてるのか」
仲間の家の前で立ち尽くす兵士もいた。
扉を叩く勇気が出ない。
中から聞こえる泣き声が、胸を刺す。
「……ごめん」
そう呟き、彼は踵を返した。
夜になっても、兵士たちは眠れなかった。
それぞれの場所で、同じ地獄を見ていた。
仲間の断末魔。
焼け焦げた匂い。
崩れ落ちる兵士の顔。
「帰ったら酒を飲もう」と笑っていた男の最期。
勝利の余韻など、どこにもない。
ただ、生き残った罪悪感だけが、静かに胸を締め付けていた。
王は、国民の不安を鎮めるために、勇者に演説を命じた。
そして、生き残った百名の兵士たちを勇者の背後に並ばせることにした。
「英雄の姿を見せれば、民は安心する」
王はそう言った。
当日、勇者は壇上へ向かう途中で兵士たちを見た。
誰もがひどい顔をしていた。
夜も眠れず、涙も枯れ、心がどこかへ置き去りになったような顔だ。
勇者自身も同じ顔をしていることを、彼らは互いに理解していた。
兵士の一人は、勇者に言ってやろうと思っていた。
「なぜ俺たちだけが生き残ったのか」
「お前は本当に魔王を倒す価値があったのか」
「仲間を救えなかったくせに英雄面するな」
そんな言葉を胸に抱えていた。
だが、勇者と目が合った瞬間、何も言えなくなった。
勇者の目は、兵士たちと同じだった。
深い後悔と、終わらない痛みと、言葉にならない罪悪感。
そのすべてが沈んでいた。
勇者は兵士たちの前に立ち、静かに言った。
「……今日だけでいい。
国民を安心させよう。
死んでいった仲間に恥じないような顔をしよう。
それが……俺たちに残された最後の務めだ」
誰も返事をしなかった。
だが、誰も否定しなかった。
勇者はゆっくりと壇上へ歩き、演席に立つ。
背後には、百名の兵士たち。
その誰もが、心に深い傷を抱えたまま、ただ前を向いて立っていた。
国民は歓声を上げた。
英雄の帰還を祝う声が、空へと響く。
だが、壇上に立つ者たちの胸には、
勝利の喜びなど一つもなかった。
勇者は深く息を吸い、
国のためではなく、
死んでいった仲間たちのために、
ゆっくりと口を開いた。




