第九章 さくらとの喧嘩
九月になった。
大阪に来て二ヶ月が経っていた。安アパートを借りた。六畳一間、風呂トイレ別で月四万八千円。狭かったが、ネットカフェよりずっとましだった。
さくらから時々、メッセージが来た。
「最近どう?」 「ちゃんと飯食えてる?」 「大阪、慣れた?」
俺は返信するたびに、愚痴を書いた。
「バイト代が安い」 「大阪は物価が高い」 「尾鷲にいた頃は良かった気もしてきた」 「でも戻りたくはない」 「なんか宙ぶらりんで嫌になる」
さくらはそのたびに「そっか」とか「大変やな」とか返してきた。
ある夜、電話をした。
「なあさくら、俺って何がしたいんかな」
「それ、私に聞く?」
「誰かに聞きたかっただけや」
「悠斗がしたいことは悠斗にしか分からんよ」
「そんなんわかっとる。ただ話したかっただけや」
電話口のさくらは少し黙ってから、言った。
「最近、愚痴しか言ってこないね」
「……そうか?」
「うん。毎回、お金がないとか、しんどいとか、宙ぶらりんとか」
「実際そうやもん」
「分かるけど、それを私に言い続けてもしょうがないやん」
俺は少しむっとした。
「じゃあ誰に言えばいいんや」
「そういう話じゃなくて。……悠斗、なんか行動してる? 愚痴言う以外で」
その言葉が、棘のように刺さった。
「行動って何や。俺はちゃんと働いてるし」
「バーのバイトでしょ。それで満足してるの」
「満足とかじゃなくて、今はそれしかできることがないんや」
「そっか」
また間があった。
「さくらは大学どうや」
「楽しいよ。忙しいけど」
「どうせ大学って授業出て、友達と飲んで、サークルでしょ。気楽でいいな」
言ってから、しまったと思った。
電話口が、しんと静まり返った。
「……今、なんて言った」
さくらの声のトーンが変わった。
「いや、別に悪い意味じゃなくて」
「授業出て友達と飲んでサークルって、それが大学やと思ってるの」
「違うの?」
「違う」
さくらの声は静かだったが、その静けさが怖かった。
「私が今どんな気持ちで大学にいると思う。この町で笑われて、親に反対されながら奨学金借りて、一人で大阪来て。教員免許取るために毎日勉強して、教育実習の準備して。そんな私に向かって、気楽でいいなって言える?」
俺は何も言えなかった。
「悠斗は何も知らんくせして」
「……ごめん」
「いい。もう切る」
電話が切れた。
俺はしばらく、スマホを持ったまま動けなかった。
それから一週間、さくらからも俺からも連絡はなかった。
メッセージを送ろうとして、何度も書いては消した。「ごめん」だけ送っても意味がない気がした。でも他に何を書けばいいか分からなかった。
ある夜、仕事が終わってアパートに帰ってきてから、天井を見上げた。
俺は何も知らなかった。
さくらが尾鷲で笑われていたことは知っていた。でも彼女がどんな気持ちで大阪の大学に行って、何を目指して毎日を過ごしているかを、俺は一度も聞いたことがなかった。聞こうとしたことも、なかった。
自分の愚痴を聞いてもらうことしか、考えていなかった。
それに気がついた時、胸の中で何かが、静かに崩れた。




