第八章 田所龍二という男
BAR「Port」の常連客の中で、最初に俺に声をかけてきたのが田所龍二だった。
四十五歳。中小企業の営業部長。毎週火曜と金曜に来て、決まってウイスキーのロックを三杯飲んだ。背が高くて肩幅が広く、声がよく通った。笑い方が豪快で、店に来るたびに空気が変わった。
「おい、新しいの。お前、どこ出身や」
初めて話しかけられた夜、田所さんはカウンターに肘をついてそう言った。
「三重です。尾鷲という町で」
「尾鷲? 漁師の町やろ」
「よく知ってるんですね」
「営業で回ったことがある。いい魚食ったわ。で、なんでそこから出てきた」
「……なんとなく」
「なんとなく」
田所さんは繰り返して、ウイスキーを一口飲んだ。
「なんとなくで大阪来るやつがおるか。正直に言え」
俺はしばらく黙ってから、答えた。
「地元で仕事してたけど、半年で辞めました。合わなくて」
「合わない、ね。で、大阪で何がしたいんや」
「それが……まだ分からないんです」
田所さんは俺をじっと見た。それから、低く笑った。
「正直なやつやな。まあ、それはそれでよし。お前、いくつや」
「十九です」
「十九か。まだまだ若いな」
その「まだまだ若いな」という言葉は、馬鹿にしているようでもあり、羨ましがっているようでもあった。
田所さんは、週に二回来るたびに俺に話しかけてきた。
「浜田、今月いくら稼いだ」
「バイト代ですか。十七万くらいです」
「十七万でこの街で生きていけるか」
「……ぎりぎりです」
「ぎりぎりで生きてる間は、何もできんぞ。金がないやつに余裕はない。余裕がないやつに、いい仕事はできん」
田所さんはそう言って、ウイスキーをまた一口飲んだ。
「金を稼ぐっちゅうのはな、人に感謝されることや。感謝してもらえることをして、その対価をもらう。それだけや。お前は今、客に感謝されてるか」
俺は少し考えた。
「……たまに『ありがとう』って言ってもらえます」
「たまにじゃ足りん。毎回言ってもらえるようになれ。そしたら自然と稼げるようになる」
その話は、単純だったけれど、なぜか頭に残った。
尾鷲の水産会社では、誰かに感謝されたことがなかった。怒鳴られるか、無視されるか、そのどちらかだった。感謝してもらうために仕事をするという発想が、そもそも俺にはなかった。
その夜から、俺は少しだけ意識を変えた。
客がグラスを空にする前に次の一杯を聞く。灰皿が汚れる前に取り替える。帰り際に一言、その日話した内容を覚えて声をかける。小さなことだった。でも田所さんが言った通り、少しずつ「ありがとう」が増えた。
マスターはそれを見ていたはずだが、何も言わなかった。




