第七章 BAR「Port」と、マスターの目
店の中は薄暗かった。
カウンターが八席。テーブル席が二つ。壁一面にボトルが並んでいて、間接照明の橙色の光がそれを照らしていた。煙草の煙が薄くたなびいている。客は誰もいなかった。
カウンターの中に、男が一人いた。
五十代だろうか。白髪交じりの短い髪、彫りの深い顔。グラスを磨きながら、俺を一度だけ見た。値踏みするような目だった。
「求人の紙を見たんですけど」
俺が言うと、男は磨いていたグラスを棚に置いた。
「座れ」
俺はカウンターの端の席に腰を下ろした。
「名前」
「浜田悠斗です。十九歳で、三重から来ました」
「バーで働いたことは」
「ないです」
「飲食は」
「ないです」
男は少し間を置いた。
「何もできんのか」
「……今のところは」
男の口元が、かすかに動いた。笑ったのかもしれなかった。
「なんで大阪に来た」
「地元を出たくて」
「理由はそれだけか」
俺はしばらく黙った。
「今のところは、それだけです」
男はしばらく俺を見ていた。それから、また別のグラスを手に取って磨き始めた。
「明日から来い。十八時に。愛想だけはいっちょまえみたいやから、まあ使えんことはないやろ」
それが、大西誠マスターとの出会いだった。
翌日から俺はBAR「Port」で働き始めた。
仕事は思ったより覚えることが多かった。ウイスキーの種類、カクテルの作り方、グラスの磨き方、氷の扱い方。マスターは一度教えたことを二度は教えなかった。メモを取っていないと、あっという間に忘れた。
「浜田、さっきのモヒートの砂糖の量、何グラムや」
「……えっと」
「覚えてないんか」
「すみません」
「覚えてないなら聞くな。メモ見ろ」
怒鳴らなかった。ただ静かに、淡々と言った。その静けさが、かえって刺さった。
尾鷲の水産会社では怒鳴られても「うるさい」と思っていた。でもマスターの一言は、不思議と「ちゃんとしなければ」という気持ちにさせた。何が違うのか、最初は分からなかった。
仕事を覚えるのに必死だったせいか、遅刻はしなかった。十八時の開店に間に合うように、十七時半には店に来た。マスターは何も言わなかったが、ある日「早いな」とだけ言った。
褒め言葉なのかどうか、判断できなかった。




