第二部 夜の街、毒と薬 第六章 大阪、最初の夜
バスが大阪に着いたのは、夜9時半過ぎだった。
梅田のバスターミナルを出た瞬間、俺は立ち止まった。
人がいた。こんな夜遅くでも、人がいた。スーツ姿のサラリーマン、大きなキャリーバッグを引く旅行者、イヤホンをしたまま足早に歩く若者。誰も彼もが、どこかへ向かって動いていた。立ち止まっているのは俺だけだった。
尾鷲の夜は静かだ。海の音と、風の音。それだけだった。ここにはその代わりに、地下鉄の振動と、排気ガスと、何十人もの靴音が重なった低い騒音があった。
俺はリュックを背負い直して、歩き出した。
とりあえず安い宿を探した。スマホで調べると、難波の方にネットカフェがあった。一泊八百円。財布の中身は三万二千円。貯金と言えるほどのものはなかった。水産会社で働いた三ヶ月分の給料のうち、実家に入れた分と遊んだ分を引いたら、これだけしか残っていなかった。
ネットカフェのブースに荷物を押し込んで、俺は初めて息をついた。
天井を見上げた。低かった。尾鷲の家の天井は、もっと高かった。古い木造の家だったが、空気の抜け方が違った。ここは空気が澱んでいる。煙草とコーヒーと、何かよく分からない匂いが混ざっていた。
眠れなかった。
夜が明けても眠れなかった。スマホでアルバイトの求人を眺めながら、俺は自分が何をしたいのかを考えた。答えは出なかった。ただ、尾鷲には戻りたくなかった。それだけは確かだった。
三日間、ネットカフェで過ごした。
昼間は街を歩いた。難波、心斎橋、アメリカ村。人の波に押されながら歩いていると、自分がどこにいるのか分からなくなった。尾鷲では、歩いていれば必ず誰かに声をかけられた。「悠斗くんやないか」「浜田の息子か」。顔も名前も、全部知られていた。ここでは誰も俺を見なかった。視線がすり抜けていく。存在していないみたいだった。
それが最初は解放感だった。でも三日目になると、少し怖くなってきた。
四日目の夜、南堀江の細い路地を歩いていた時、小さな看板が目に入った。
「BAR Port スタッフ募集 経験不問」
手書きの紙が、扉の横に貼ってあった。
俺はしばらくその紙を見ていた。バーで働いたことなんてなかった。でも「経験不問」と書いてある。他に当てもなかった。
ドアを開けた。




