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いつも雨  作者: 猫の尻尾
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第五章 出発の夜


七月の初め、俺は会社を辞めた。


退職届を出した日、村瀬主任は「予想通りやな」と言った。慰留する気もないらしかった。垣本先輩は何も言わなかった。ただ一度だけこちらを見て、すぐに目を逸らした。


会社を出た時、夏の日差しが眩しかった。空が青かった。海の方から風が吹いていた。俺はそのまま歩いて、尾鷲湾の岸壁に行った。


海は静かだった。遠くで漁船が一隻、ゆっくりと動いていた。あれは父の船じゃないかと思ったが、確かめる気になれなかった。


さくらに電話した。


「辞めた」


電話口でそう言うと、少し間があってから、さくらの声が聞こえた。


「そっか。これからどうするの」


「大阪に行こうと思う」


「……大阪」


「なんか仕事探す。ここにいてもしょうがないし」


「それ、ちゃんと考えた上での結論?」


俺はしばらく黙った。


「考えてる途中やけど、ここにいたら考えも止まる気がする」


「そっか」


さくらの声は責めていなかった。でも応援もしていなかった。ただそこにあった。


「さくらは大学どうや」


「楽しいよ。大変やけど。教育学、思ってたより奥が深くてさ」


「そうか。さすがやな」


「……悠斗は、なんで辞めたん。本当の理由」


俺はしばらく黙った。


「合わなかった、としか言えんな。今は」


「そっか。……大阪、気ぃつけてな」


「お前も勉強頑張れよ」


「うん。——悠斗、無茶しいや」


電話が切れた。


出発は三日後の夜だった。


親父には「大阪に行く」とだけ言った。それ以上の会話はなかった。祖父母には「また来るから」と言った。祖母は何も言わずに、俺の好きなさんまの干物を袋に詰めて持たせてくれた。祖父は玄関先で俺の背中を見送って、一言だけ言った。


「体に気ぃつけや」


俺は振り返らなかった。


夜の国道42号線を、俺はリュックを背負って歩いた。高速バスの停留所まで、徒歩二十分。山の匂いと海の匂いが混ざり合った夜風が、俺の横をすり抜けていった。


振り返ると、尾鷲の町の灯りが見えた。


小さかった。こんなに小さい場所で、俺はずっと息をしていたのか。


でも同時に、こんなにも灯りが温かいことを、今まで知らなかった気がした。


バスが来た。俺は乗り込み、窓際の席に座った。


「俺はこの町で終わる男じゃない」


さっきと同じ言葉を、今度は声に出さず、胸の中でつぶやいた。


バスが動き出した。窓の外に、尾鷲の灯りが流れた。海が見えた。山が見えた。雨の多い町の、夜の空が見えた。


俺は目を逸らした。


その時はまだ、気づいていなかった。


この夜の出発が、自分の人生を根こそぎ変えることになるとは。そしていつかまた、この灯りの下に戻ってくることになるとは。


ただ俺は、自分が信じる「もっと大きな何か」に向かって、バスに揺られていた。


どこへ向かうのかも、何になるのかも、まだ何ひとつ分からないまま。



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