第四章 軋轢と、町の声
一ヶ月が過ぎた。
俺の遅刻は、週に二、三回のペースになっていた。自分でも「まずい」と思う気持ちはあった。しかし目覚ましを止めて二度寝する瞬間の誘惑に、いつも負けた。
村瀬主任には毎朝のように怒鳴られた。垣本先輩には作業の手が遅いと言われた。同じ作業の繰り返しに、俺はどうしても集中できなかった。頭の中が別のことを考え始める。何を考えているわけでもないのに、手が止まる。
「浜田、ぼさっとしてるな。何回言わすんや」
「……すみません」
「すみませんで済むか。昨日も同じミスをしとったやろ」
怒鳴られるたびに、俺の中に妙なものが積み上がっていった。反省ではなかった。反発でもなかった。ただ、この場所が自分には合わないという確信が、日に日に強くなっていった。
そんなある日、母から電話があった。母は俺が中学の時に家を出ており、今は大阪にいる。普段はあまり連絡してこない人だった。
「悠斗、仕事はどうや」
「まあまあ」
「お父さんから聞いたで。遅刻が多いって」
「親父に言ったんか、誰が」
「近所の人から聞いたって。お父さん、気にしてるよ」
電話を切った後、俺はしばらく壁を見つめた。
近所の人間が、俺のことを父に告げていた。この町では何もかもが筒抜けだ。俺が遅刻したことも、仕事ができないことも、もう町中に知れ渡っているに違いなかった。
その夜の夕食の時間、父は何も言わなかった。ただ黙って飯を食い、缶ビールを飲んだ。その沈黙が、俺には怒鳴られるより辛かった。
数日後、近所のおばさんが家に来た。俺が縁側で昼過ぎまで寝ていた休日だった。
「浜田さん、悠斗くんは元気にしてますか。会社の方がうまくいってないって聞いたけど」
障子越しに聞こえてくる声が、俺の耳に刺さった。
「心配してますよ。あの子、ちゃんとやれるんかなって。まあ若いうちはしょうがないけど、一郎さんの顔もあるし」
父の顔がある。その言葉が、頭に残った。
俺がうまくできないことが、父の恥になる。この町では、個人の失敗が家族の失敗になり、家族の失敗が一族の恥になる。そういう構造の中で、みんなが生きていた。
六月になった。
俺は工場の更衣室で、ロッカーに鍵を刺したまま、動けないでいた。今日も遅刻だった。今日も怒鳴られる。今日も同じ作業を繰り返す。明日も、明後日も。
これがずっと続くのか。
俺はロッカーの扉を静かに閉めた。
その週末、父と大喧嘩になった。
きっかけは些細なことだった。夕食中、父が「明日の朝は早く起きろ」と言った。その一言に、俺は「なんで」と返した。
「なんでじゃない。仕事があるだろ」
「俺の仕事の話はしてない」
「してる。村瀬さんから聞いた。お前、また今週も遅刻したそうやな」
俺は箸を置いた。
「なんで村瀬さんがおやじに直接言うんや。俺の話を本人に言わんで」
「それはお前が信用されてないからや」
父の声は低かった。
「信用って何。俺は別に信用されたいわけやない」
「悠斗」
「最初から向いてなかったんや。あんな仕事、俺には合わない」
「合わないとか合うとか、そういう問題じゃない。やると決めたならやり通すのが筋やろ。働くっちゅうのはそういうもんや」
「そのセリフ、もう聞き飽きた」
父が立ち上がった。
その迫力に、俺は思わず後ずさりした。父は何も言わなかった。ただ俺をじっと見た。
「お前は俺の仕事が嫌いか」
唐突な問いだった。
「……違う」
「じゃあ何が嫌いなんや」
俺は答えられなかった。本当は何も嫌いじゃなかった。父が嫌いなわけじゃない。この町が憎いわけでもない。ただ、何かが違う。何かが窮屈だ。この空気の中でずっと息をしていたら、いつか俺は、俺じゃなくなってしまう気がする。
そんな言葉が、うまく出てこなかった。
「俺はこの町で終わる男じゃない」
気がつくと、そう言っていた。
父の顔が、少し変わった。怒りでも悲しみでもない、どこか遠くを見るような目になった。
「そうか」
父はそれだけ言って、居間から出ていった。




