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いつも雨  作者: 猫の尻尾
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第二十一章 帰郷

四月になった。


俺は尾鷲に帰った。


高速バスで四時間。窓の外に紀伊山地の緑が広がってきた頃、俺の胸の中に何かがこみ上げてきた。懐かしさでも、安堵でもない。もっと複雑な、言葉にならない感情だった。


バスが尾鷲のターミナルに着いた。


外に出た瞬間、潮の匂いがした。


九年ぶりだった。何度か帰省はしていたが、この春から本格的に地元に戻ることにしていた。尾鷲の調剤薬局から採用の連絡をもらっていた。小さな薬局だったが、地域の高齢者と長く付き合っていける場所だった。


家に帰ると、祖母が玄関に出てきた。


七十三歳から、九年が経っていた。祖母は八十二歳になっていた。腰が少し曲がって、歩く速さが遅くなっていた。でも顔を見た瞬間、表情は変わっていなかった。


「悠斗、帰ってきたか」


「ただいま、ばあちゃん」


祖母は俺の顔をしばらく見て、それから泣いた。声は出なかった。ただ目から涙が流れた。俺は何も言えなかった。


居間に入ると、祖父が縁側に座っていた。八十六歳。松葉杖から車椅子になっていた。膝だけでなく、腰も悪くなっていると聞いていた。


「じいちゃん、ただいま」


祖父は俺を見て、目を細めた。


「悠斗か。大きくなったな」


「九年経ったからな」


「薬剤師になったそうやな」


「なった」


祖父はしばらく黙ってから、言った。


「あの薬局の先生に、よろしく頼むぞ。膝の薬が合ってるかどうか、最近気になっとる」


俺は笑った。


「診てやるよ、じいちゃん。俺が」


翌日、父と二人になる時間があった。


縁側に並んで座った。父は六十一歳になっていた。漁師をまだ続けていた。背中の大きさは変わっていなかったが、白髪が増えていた。


しばらく、二人とも黙っていた。海の方から風が吹いていた。


「父ちゃん」


俺が言うと、父は海の方を見たまま答えた。


「何や」


「昔、俺はこの町で終わる男じゃないって言った。覚えてるか」


「覚えてる」


「あの時の俺は、この町を馬鹿にしてた。小さいとか、狭いとか、そういう意味で言ってた」


父は何も言わなかった。


「でも今は違う。この町で誰かの役に立ちたくて戻ってきた。それが俺の道やった」


父はしばらく黙ったままだった。


それから、缶ビールを一口飲んで、静かに言った。


「そうか」


それだけだった。でもその「そうか」は、あの夜の「そうか」とは違った。俺には分かった。


父は俺を見た。


「仕事、頑張れよ」


「ああ」


二人でまた黙って、海を見た。


四月の尾鷲の海は、穏やかだった。


薬局に出勤した最初の日、俺は白衣を着た。


鏡の前で、その姿を見た。


浜田悠斗、二十八歳。遅刻ばかりして半年で仕事を辞めた男。大阪のバーで皿を洗い、グラスを磨き、夜中に中学の教科書を開いた男。喧嘩して、泣いて、笑って、転んで、それでも歩き続けた男が、今ここにいる。


白衣は、思ったより重かった。


いい重さだった。


午前中の調剤が終わった頃、一人の老婆が薬局に入ってきた。七十代くらいだろうか。杖をついて、少し息を切らしながらカウンターに近づいてきた。


俺は立ち上がって、声をかけた。


「いらっしゃいませ。処方箋をお持ちですか」


老婆は俺を見て、少し驚いた顔をした。


「あら、新しい先生ですか」


「はい、今月から着任しました。浜田と申します」


「浜田さん。浜田の……一郎さんのとこの?」


俺は少し笑った。


「そうです。息子です」


老婆はしばらく俺を見てから、嬉しそうに言った。


「そうか、悠斗くんか。大きくなったねえ。薬剤師になったんか。ええ仕事に就いたね」


俺は処方箋を受け取って、薬を確認した。血圧の薬、コレステロールの薬、胃薬。三種類。


「このお薬、最近変わりはありませんでしたか。飲んだ後に気分が悪くなるとか、めまいがするとか」


「そういえば、朝飲んだ後にちょっとふらつく時があってね」


「いつ頃からですか」


「一ヶ月くらい前から、かな」


俺はカルテを確認した。血圧の薬の量が、三ヶ月前に増量されていた。


「先生に、ふらつきの症状をお伝えになりましたか」


「言いそびれてた。大したことないかなと思って」


「大切な情報ですので、次の診察で必ずお伝えください。もしかしたら、薬の量の調整が必要かもしれません。私からも先生に確認しておきます」


老婆は「ありがとうね」と言って、薬の袋を受け取った。


帰り際、老婆は振り返って言った。


「悠斗くんが帰ってきてくれて、よかったよ。これからよろしくね」


「こちらこそ、よろしくお願いします」


老婆が薬局を出た後、俺はしばらくそのドアを見ていた。


これだ。


これが、俺のやりたいことだった。


大阪のバーで岸本さんが言っていた。患者のことを思う心がなければ、薬は届かない。田所さんが言っていた。なんでやめられんのかを聞いてやれよ。マスターが言っていた。いろんな人間を見てきたことを、忘れないように。


全部が、今ここに繋がっていた。


その日の仕事を終えて、薬局を出た。


夕方の尾鷲の空は、曇っていた。


雨が降りそうだった。いつもそうだ。この町はいつも雨が降る。日本一雨の多い町。子供の頃から嫌いだったこの空の色が、今日は不思議と、悪くなかった。


雨は海から来る。山に降り、川になり、また海に返る。この町の雨は、どこかへ向かっている。流れている。止まっていない。


俺もそうだった。


流されて、はじかれて、それでもどこかへ向かっていた。この町で生まれて、この町を出て、遠くへ行って、また戻ってきた。それが俺の道だった。


スマホにメッセージが来た。さくらからだった。


「悠斗、今日初出勤やったよね。どうだった?」


俺は少し笑いながら、返信した。


「最高やった。尾鷲で会おう。お前の話、ゆっくり聞かせてくれ」


すぐに返信が来た。


「うん。待ってる」


俺はスマホをポケットに入れて、空を見上げた。


雨粒が一つ、頬に落ちた。


冷たかったが、嫌じゃなかった。


この町の雨だった。

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