第十九章 国家試験前夜
六年目の冬が来た。
俺は二十七歳になっていた。
薬剤師国家試験は、二月の末に行われる。全二百三十問、二日間にわたる試験だった。合格率はその年によって変動するが、受験者の三分の二程度が合格する。難しいと言えば難しく、しっかりやれば受かると言えば受かる試験だった。
問題は、「しっかりやれば」の「しっかり」の基準が、人によって大きく違うことだった。
俺は十一月から、バイトのシフトを週二回に減らした。マスターは何も言わなかった。ただ「試験終わったら戻ってこい」と言った。
坂井と図書館で勉強を続けた。六年間、ずっと一緒に勉強してきた。坂井は病院薬剤師を目指していた。俺は調剤薬局で地域に根ざした薬剤師になりたいと思っていた。方向性は違ったが、勉強への姿勢は同じだった。
「浜田さん、薬物動態の計算、ここ合ってますか」
「計算式はあってるけど、単位の変換が一個ズレてる」
「あ、本当だ。ありがとう」
こういうやり取りを、何百回繰り返しただろう。
一月の終わり、さくらから電話があった。
「悠斗、試験近づいてきたね。調子はどう」
「まあまあや。範囲が広すぎて全部は無理やけど、できる範囲はやってる」
「そっか。無理しすぎんようにな」
「さくらこそ。三重の採用試験、来月やったよな」
「うん。緊張してる」
さくらは大学を卒業してから六年、大阪府内の小学校で教師をしていた。子供たちと向き合う毎日の中で、いつかは尾鷲に帰りたいという気持ちが、ずっとくすぶっていたらしかった。今年、三重県の教員採用試験を受け直すと聞いたのは、去年の秋のことだった。
「大阪での経験が六年あるんやから、大丈夫や」
「そう簡単にはいかないよ。三重の採用試験は倍率も違うし、面接の雰囲気も違う。大阪でやってきたことが、そのまま通じるとは限らない」
「でもさくらが子供に向き合ってきた六年間は本物やろ。それは変わらない」
さくらは少し黙ってから、言った。
「悠斗も、絶対受かる。本気でそう思ってる」
「ありがとう。お互い、あと一踏ん張りやな」
「うん。二人とも、故郷に帰ろう」
電話を切った後、その言葉が胸に残った。
二人とも、故郷に帰ろう。
俺たちは同じタイミングで、同じ場所へ向かっていた。
試験の前日の夜、俺は参考書を閉じた。
もうこれ以上やっても、変わらない。そう思えるくらいにはやってきた。
岸本さんの言葉が浮かんだ。
薬はね、知識が命を救うんだ。でも、愛がなければ薬は届かない。
田所さんの言葉が浮かんだ。
怒るんじゃなくて、なんでやめられんのかを聞いてやれよ。
マスターの言葉が浮かんだ。
この店でいろんな人間を見てきたことを、忘れないように。
そして祖父の、あの夜の薬を飲み込む音が聞こえた気がした。
水で流し込んで、小さく咳払いをする。当たり前のように繰り返されてきたその動作。あの薬があるから、じいちゃんは今日も生きている。
俺は電気を消した。
長い夜だったが、よく眠れた。




