第十五章 さくらの夢
大学二回生になった春、さくらからメッセージが来た。
「難波の方に出てくるんやけど、会えない?」
さくらの大学は大阪の南の方にあった。普段は難波まで出てくることはあまりないらしかったが、教育実習の事前説明会が大阪市内であるとかで、ついでに会おうということになった。
待ち合わせは、難波の喫茶店だった。
さくらが来た。
高校の時と同じ顔だったが、どこか違った。髪が少し短くなっていた。表情が、あの頃より落ち着いていた。尾鷲にいた時の、少しだけ緊張したような目が、今は柔らかかった。
「久しぶり」
「久しぶり。元気そうやな」
「悠斗こそ。なんか顔が変わった」
「そうか」
「うん。ちゃんとしてきた感じがする」
俺たちはコーヒーを飲みながら、しばらく近況を話した。俺の予備校生活、バイト、勉強の話。さくらは笑いながら聞いてくれた。
「化学を中学から勉強し直したの、すごいやん」
「恥ずかしかったけどな」
「でも、それができるのが大事やと思う。プライド捨てて最初からやり直せる人って、意外と少ないよ」
俺は少し照れた。
「さくらの話も聞かせてくれ。大学どうや」
「忙しいけど、楽しい。教育学って、思ってたより広くて。子供の心理とか、発達段階とか、授業の作り方とか。全部繋がってるんやなって最近分かってきた」
「先生になりたいって、いつ頃から思ってたの。俺、そういえば一度もちゃんと聞いたことがなかったな」
さくらはコーヒーカップを両手で包みながら、少し遠くを見るような目になった。
「小学校三年生の時の担任の先生が、すごく好きやったんよ」
「へえ」
「授業が面白くて、でもそれだけじゃなくて。クラスで誰も友達がいない子がいたんやけど、その子をちゃんと見ていてくれた先生で。こっそり声をかけたり、席替えを工夫したり。子供だった私には分からなかったけど、後から思えば、あの先生は一人ひとりのことを本当によく見てくれてたんや」
「それで先生になりたいと」
「その先生みたいになりたいと思った。誰かを見ていてあげられる大人に」
俺はその話を黙って聞いた。
さくらにはずっと、この話があった。俺が愚痴ばかり送り続けた時間、さくらの中にはこの夢があった。聞こうとしなかったのは、俺だった。
「さくら、すごいな」
「すごくはないよ。まだ何もできてないし」
「でも信念がある。俺には、そういうのが全然なかった」
「今はあるやん」
「今はある。でも遅かった」
さくらは笑った。
「みんな遅いんよ。早い人の方が少ない。悠斗のペースがあるんやと思う」
その言葉が、じんわりと染み込んできた。
別れ際、難波の駅の改札の前でさくらが言った。
「悠斗、薬剤師になったら、尾鷲に帰るの?」
俺はしばらく考えた。
「帰りたいと思ってる。じいちゃんばあちゃんが待ってるうちに」
「そっか」
「さくらは?」
「私も、いつかは帰りたい。尾鷲で先生になりたい。あの町の子供たちに、外の世界があることを教えてあげたい」
俺はその言葉を聞いて、何かが腑に落ちた。
俺たちは二人とも、この町を捨てたんじゃなかった。戻るために、出てきたのかもしれない。
「また話しような」
「うん。勉強、頑張りや」
「さくらも」
改札を抜けるさくらの背中を見送って、俺は駅の外に出た。
春の大阪は、少し風が強かった。




