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いつも雨  作者: 猫の尻尾
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第三部 白衣への道、そして故郷へ 第十四章 昼は参考書、夜はグラス

一月になった。


俺は予備校の資料を三校分取り寄せて、机の上に広げた。六畳一間のアパートに、参考書と予備校のパンフレットと、バイトのシフト表が並んだ。我ながら、妙な組み合わせだと思った。


薬学部に入るためには、化学、生物、数学が必要だった。高校の時に、どれもまともに勉強していなかった。化学は元素記号すら怪しかった。生物は教科書を開いた記憶がほとんどなかった。数学にいたっては、三年生の授業を半分以上寝て過ごしていた。


村田に相談した。


「化学と生物と数学、全部一から始めるってどのくらいかかる」


村田は少し考えてから答えた。


「どのレベルの大学を目指すかによりますけど、本気でやって一年半から二年は見た方がいいと思います」


「二年か」


「焦って受けても、受からないですよ。薬学部は偏差値高いところが多いので」


俺は黙って、その言葉を飲み込んだ。二年。二十歳から勉強を始めて、早くて二十二歳で入学。薬学部は六年制だから、卒業は二十八歳。そこから国家試験に合格して、ようやく薬剤師になれる。


長い道のりだった。


でも不思議と、怖くなかった。尾鷲の水産会社でベルトコンベアの前に立っていた時の、出口のない感覚とは違った。遠くても、そこに道がある。それだけで、息ができる気がした。


予備校は昼間部に通うことにした。バイトは夕方から夜。朝起きて予備校へ行き、夕方から「Port」に出勤する。帰宅は深夜。それを繰り返す日々が始まった。


最初の一ヶ月は、地獄だった。


予備校の講師が黒板に書く化学式を、俺は何一つ理解できなかった。隣の席の浪人生たちが当たり前のように問題を解いていく中、俺だけがページをめくる手が止まった。


「浜田さん、ここの反応式、分かりますか」


予備校の化学の先生に当てられた。


「……分かりません」


「どこから分からないですか」


「最初から、です」


クラスの何人かが、小さく笑った。俺は顔が熱くなるのを感じた。でも、尾鷲の水産会社で怒鳴られた時とは違った。あの時は反発した。今は、ただ「理解したい」という気持ちがあった。


恥ずかしかったが、先生のところへ居残った。


「先生、最初から教えてもらえますか」


先生は少し驚いた顔をしてから、「どこまで戻ればいいですか」と聞いた。


「中学の理科からお願いします」


また少し驚かれた。でも先生は笑わなかった。「分かりました」と言って、中学の教科書を一冊持ってきた。


その夜、バイトが終わった後、俺はその中学の教科書を開いた。


原子と分子の違い。電子の配置。化学結合の種類。子供向けの内容だったが、俺にはそれが土台だった。土台のないまま、ずっと積み上げようとしていたのだと分かった。


気がつくと、夜中の三時になっていた。


三月になった。


化学の基礎が、ようやく見えてきた。元素記号を覚え、反応式を書けるようになり、問題を解くと半分くらい正解が出るようになってきた。完璧にはほど遠かったが、何かが繋がり始める感覚があった。


村田が言っていた通りだった。


知れば知るほど、もっと知りたくなる。


化学の面白さが、少しだけ分かってきた。物質が反応して別の物質になる仕組み。薬が体の中でどう動くか、その予備知識としての化学。点と点が繋がる瞬間が、気持ちよかった。


バイトの帰り道、俺はよく夜の大阪の街を歩いた。


南堀江の細い路地、心斎橋の賑わい、道頓堀の橋の上。この街に来た最初の夜、人の波に押されながら自分が透明になっていくような感覚があった。今は違った。この街の人の流れの中に、俺もいる。小さくても、ここにいる。


そう思えるようになっていた。



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