第十一章 村田健人と、夜中の教科書
十一月。バイト仲間に村田健人が入ってきた。
二十二歳。大学受験のために一度社会に出てから、もう一度挑戦しているという。目標は医学部だと言った。
最初、俺は村田のことを少し苦手だった。
仕事が丁寧で、要領がよくて、マスターにも客にも好かれた。俺が二ヶ月かけて覚えたことを、二週間で覚えた。それが悔しいというより、なんとなく自分と比べてしまって、居心地が悪かった。
「浜田さん、何歳ですか」
ある夜、バイト上がりに村田が聞いてきた。
「十九」
「じゃあ俺の方が上ですね。タメ口でいいですよ」
「……じゃあ、けんとでいいか」
「どうぞ」
村田は屈託なく笑った。こういう人間は嫌いじゃなかった。
その夜、二人でバイトが終わった後、村田は鞄から分厚い参考書を取り出した。生物の教科書だった。付箋が無数に貼ってあって、余白に細かい字でメモが書き込まれていた。
「それ、毎日やってるの?」
俺が聞くと、村田はページをめくりながら答えた。
「バイト終わった後、三時間は勉強します。朝もやります」
「バイトしながら受験勉強って、きつくないか」
「きついですよ」
村田は当然のことのように言った。
「でも、きつくない方法がないんで。お金も必要だし、勉強もしないといけない。どっちかを削る余裕がないんですよね」
「医学部ってそこまでして行きたいの」
俺が聞くと、村田は少し考えてから言った。
「行きたいというより、行かないといけない気がするんです。なりたいものがあって、そのためには医学部しかない。だから行くしかない。それだけです」
「なりたいものって何」
「外科医。父親が手術で助かったのを見てから、ずっとそれだけ考えてます」
俺は黙って、その参考書を見つめた。
ページの端まで書き込まれたメモ。付箋の数。この男が費やした時間の重さが、そこに詰まっていた。
「勉強って、やればやるほど世界が広がる感じがするんですよね」
村田がぽつりと言った。
「最初は覚えることが多くて嫌になるけど、繋がり始めたら面白くなってくる。人間の体ってこんな風にできてるのか、薬ってこういう仕組みで効くのか、って。知れば知るほど、もっと知りたくなる」
俺はその言葉を、ぼんやり聞いていた。
知れば知るほど、もっと知りたくなる。
俺にはそういう経験が、今まで一度もなかった。




