第十章 酒は鏡、そして老人の話
十月のある夜、田所さんがいつもより早い時間に店に来た。
顔色が悪かった。いつもの豪快な笑いがなく、カウンターに座るなり「バランタインをくれ」とだけ言った。
「田所さん、今日は顔色がよくないですね」
俺が言うと、田所さんは苦笑いした。
「お前、よく見とるな。健診で引っかかった。肝臓の数値が悪いって」
「お酒ですか」
「そうやろな。毎晩飲んでるし」
田所さんはウイスキーを一口飲んで、グラスを見つめた。
「分かってるんや。飲みすぎやって。でもやめられん」
その言葉が、妙に俺の胸に引っかかった。
マスターが田所さんのグラスに少しだけ水を足しながら、静かに言った。
「田所さん、今日は薄めにしときますよ」
「マスター、気ぃ遣わんでいい」
「気ぃ遣ってるんじゃなくて、また来てほしいだけです」
田所さんはしばらく黙って、それから「そうやな」と言った。
その夜遅く、店が落ち着いた頃、マスターは俺に静かに言った。
「浜田、酒は何やと思う」
「飲み物……ですか」
「それだけか」
俺は少し考えた。
「楽しくなるもの、ですかね」
「楽しくもなるし、体を壊しもする。田所さんを見てたやろ」
「はい」
「酒は鏡や。飲む人間の本性を映す。楽しいやつはもっと楽しくなる。辛いやつはもっと辛くなる。体の弱いやつの弱さを、容赦なく引き出す」
マスターはグラスを磨きながら、続けた。
「薬も同じや。量を間違えれば毒になる。使い方を知らなければ、助けるどころか殺す。でも正しく使えば、人の命を救う」
俺はその言葉を、黙って聞いていた。
毒にも、薬にも、なる。
その言葉が、頭のどこかに引っかかって、離れなかった。
その翌週、岸本義雄が来た。
七十一歳。白髪を丁寧に撫でつけた、物静かな老紳士だった。週に二回、決まった曜日に来て、バーボンのソーダ割りを一杯だけ飲んだ。静かに座って、たまに本を読んでいた。
その夜、俺がグラスを出すと、岸本さんは俺の顔をじっと見た。
「君、新しいね」
「二ヶ月になります」
「どこから来たの」
「三重の尾鷲です」
岸本さんは少し目を細めた。
「尾鷲。いい町だね。雨が多い」
「ご存知なんですか」
「昔、仕事で何度も行った。製薬会社に勤めていたから、病院への営業でね」
製薬会社。俺はその言葉を、なんとなく繰り返した。
「薬の会社だったんですね」
「そう。四十年、薬と一緒に生きてきた」
岸本さんはグラスを一口飲んで、静かに言った。
「薬というのはね、不思議なものだよ。飲む人間のことを、何も知らない人間が作っても、ちゃんと効くんだ。でも届ける人間が、患者のことを思っているかどうかで、薬の使われ方が変わる」
「それはどういう意味ですか」
「薬剤師というのはね、ただ薬を渡すだけじゃない。この薬をいつ、どのくらい飲むか。他の薬と合わせて大丈夫か。副作用は何か。そういうことを、患者一人ひとりに合わせて説明する。その人の生活を知って、初めてできる仕事だ」
俺はカウンターを拭く手を止めた。
「薬剤師って、大学に行かないとなれないですよね」
「薬学部を六年。それから国家試験だね」
「六年」
「長いと思う?」
俺は正直に答えた。
「長いと思います」
「私もそう思っていたよ。若い頃は。でも四十年経って思うのは、その六年が長かったんじゃなくて、その後の四十年が、あの六年で支えられていたということだ」
岸本さんはそう言って、グラスを静かに置いた。




