第一部 潮の匂いと錆びた夢 第一章 灰色の空と、父の背中
四月の尾鷲は、雨だった。
この町に生まれて十八年。俺、浜田悠斗は、この空の色を好きになれたためしがない。鉛色に垂れ込めた雲が紀伊山地の稜線を飲み込み、その向こうに広がる熊野灘の海面をざわりとざわつかせている。日本一雨の多い町。観光パンフレットにはそう書いてある。誇らしげに。だが誰も、雨に誇りなんて感じていない。ただ濡れるだけだ。
学校からの帰り道、俺は濡れたアスファルトに映る自分の足元を見ながら歩いていた。傘を忘れたのは今月で二度目だった。どうせ朝のうちに降り出すことは分かりきっていた。分かっていても持っていかない。それが俺という人間だと、自分でも薄々感じていた。
坂を下ると、潮の匂いが濃くなった。尾鷲湾の方から風が吹いている。魚と塩と、どこか生臭い独特の匂い。生まれてからずっとこの匂いの中で育ってきたくせに、慣れることができないでいた。好きでも嫌いでもない、ただそこにある匂い。この町のすべてが、そういうものでできている気がした。
道沿いの桜はもう散っていた。入学式の頃に咲いて、三日もしないうちに雨に叩き落とされた。尾鷲の春は短い。咲いたと思えばもう散っている。毎年そうだった。
家に着くと、土間に父の長靴が脱ぎ捨てられていた。今日は早めに戻ってきたらしい。台所の方から出汁の匂いがして、俺は鞄を玄関に放り投げた。
「ただいま」
誰も返事をしなかった。
居間に入ると、父の浜田一郎が食卓に肘をついて、缶ビールを飲んでいた。五十二歳。漁師を三十年続けてきた男の背中は、椅子に座っていても妙に大きく見えた。日焼けで黒ずんだ首筋、指の節々にこびりついた傷の跡。言葉より先に体が語る男だった。
「今日は何時間だったの」
俺が聞くと、父は缶ビールをテーブルに置き、答えた。
「朝四時から昼まで。ブリが少なかった」
それだけ言って、またテレビの方に視線を戻した。
台所では祖母の幸子が夕飯の準備をしていた。七十三歳になっても、この人は台所に立つことをやめない。俺が「手伝おうか」と言うと、「ええんよ、ええんよ」とやんわり断った。水の音と包丁の音が交互に聞こえてくる中、俺はちゃぶ台の上にぽつんと置かれた薬の袋を見た。
白い袋の上に、几帳面な文字で「朝一錠、夜一錠」と書かれていた。
祖父の武雄は、縁側で将棋の本を読んでいた。七十七歳。現役の頃は林業に携わっていたが、今は膝の具合が悪くて遠くへは歩けない。膝の痛み止め、血圧の薬、胃薬。毎日これだけの錠剤を飲んでいた。
「悠斗、帰ったか」
祖父がこちらを見た。
「うん。今日の将棋は」
「負けっぱなしじゃ。こんな本読んでも、わしの頭にはもう入らん」
笑いながら言った。俺も笑った。
夕飯の時間になると、四人がちゃぶ台を囲んだ。サンマの塩焼き、豆腐の味噌汁、ほうれん草のおひたし。毎日似たような食卓だが、文句を言う気にはなれなかった。祖父が薬を飲み込む音が聞こえた。水で流し込んで、小さく咳払いをする。その動作があまりにも日常的で、俺はずっとそれを当たり前のことだと思って生きてきた。
薬がなければ、じいちゃんは今頃どうなってたんだろう。
その夜、ふとそんなことを考えたが、答えは出なかった。




