009
ミレイが来たのは、翌日の昼前だった。
ギルドを出た翌朝、リオルは宿の一室の隅を簡易的な研究スペースへと変えていた。机の上には、ロウディアからの帰路で用意した記録帳が積み重ねられ、その横には《鑑定》の結果をまとめた用紙が広げられている。朝日が窓から差し込み、その光の中で彼は昨日の結果をもう一度整理していた。
ノエルが用意した朝食は、麦粥に刻んだチーズと干し葡萄を混ぜたもの、硬いパンにはちみつを少量かけたもの。限られた材料の中での工夫が感じられた。昨日より凝った内容だ。彼女は朝早く起き、丁寧に支度をしていたのだろう。その一連の準備から、何か新しい気合いのようなものが漂っていた。
食べ終わると、ノエルが静かに窓際へ来た。ファルドの町を見下ろす彼女の横顔には、何かしら考えごとをしているような色が浮かんでいた。それが何であるかは、リオルにはまだわからない。ただ、その思考の過程には、彼らの将来に関わる何かが隠れているような予感がしていた。
昼前、室内はしんとした静寂に包まれていた。リオルは記録帳に向かい、ノエルはその傍で時折彼を見つめながら、何かを待つような時間を共にしていた。
扉をノックする音が響いた。リオルが応じると、ミレイはすでに灰茶色のコートを脱いでいた。その手には、布に包まれた採集物と、一冊の薄い帳面を抱えていた。
ミレイ「こちら今日の採集分になります。ご確認ください」
言葉は短いが、その背後にある仕事量は計り知れない。リオルとノエルが目を向けると、ミレイは静かに包みを机に置いた。布を開くと、丁寧に採集されたサンプルが現れた。植物は茎から根まで完全に収められ、周辺の土も別の容器に分けられている。
ミレイ「今朝の時刻は、昨日と同じ。天候は晴天で、風は弱く、気温は適温の範囲内です。周辺に異変はありませんでした。詳しくはそのレポートに記載してあります」
その際、ミレイは帳面を開いた。そこには、時刻、天候、気温、植物の状態、さらには周辺の観察記録が、簡潔かつ正確に記入されていた。情報の優先度も文句なく、適切に整理されている。リオルは思わず目を瞬かせた。
リオル「ミレイ、これは……」
リオルの言葉には、感謝と同時に軽い疑問が含まれていた。依頼内容の確認でもあり、今後の齟齬を防ぐ意図もあった。
ミレイ「余計でしたでしょうか? 不要でしたら、今後は控えますが」
リオル「いや、ありがとう。すごく助かるよ。そこらへんは口頭で確認しておこうかと思ってたんだけど、ここまで綺麗に報告書としてまとめてくれるとは」
ミレイ「いえ、お気になさらず。元々ロウディアと往復するだけの仕事です。この程度であれば大した手間にはなりません。役に立てて幸いです」
ミレイの返答には、これまでの判断が正しかったという自信と、今後も同じ調子で問題ないという安堵が滲んでいた。
ミレイ「明日も同じ時刻に報告に参ります。ご希望がありましたら、別途指示をいただければ対応いたします」
ノエルが一歩前に出た。彼女の顔には、素朴な感嘆が浮かんでいた。
ノエル「本当に丁寧な仕事です。今後も期待しています」
ミレイは軽く会釈して返す。
ミレイが退出するまで、リオルとノエルは沈黙を守った。扉が閉じた後、二人は顔を見合わせた。
リオル「これが十日間毎日続くといいけど、正直かなり期待できるね」
ノエル「はい。ギルドの推薦もありましたし間違いは無いと思いますが、想定していたより良い出会いでしたね」
リオルは記録帳を手に取った。ページをめくるたびに、ミレイの仕事の質が伝わってくる。曖昧さがない。判断の根拠が明確だ。この精度が十日間続くのであれば、この実験から得られるデータはこれ以上ないだろう。
リオル「これなら任せちゃって大丈夫そうだね。時間が浮きそうだ」
その呟きには、ほのかな安堵が含まれていた。ロウディアへの往復は肉体的な疲労だけではなく、精神的な圧力でもあった。灰色の大地に佇むことで、リオルは常に何かに観察されているような感覚を抱いていたのだ。
ノエル「その時間を、何に使いましょうか?」
リオル「《鑑定》について、もっと考えてみたいんだ。昨日、気づいたことがあってさ」
リオルは机の上の用紙をまとめた。その上には、過去数日の《鑑定》の結果が並んでいた。一見すると、同じ植物に対する回答のばらつきが目立つ。
リオル「同じ苗に《鑑定》をかけても、僕が何を知りたいかで、結果が変わるんだ。例えば、『この苗は何か』を気にしていた時と『この苗の健康状態を示す指標は何か』を気にしていた時で、回答が違う」
ノエル「《鑑定》の結果が、リオくんの思考に依存するということですか」
リオル「そうなんだ。僕はずっと《鑑定》が『答え』を教えてくれるスキルだと思ってた。でも実際は……それは僕の判断を支えるための情報なんだと思う。僕が何を知りたいかで、スキルが返す内容が形を変える。つまり《鑑定》は、僕の思考の一部になってるんだ」
リオルの声には、静かな興奮が混じっていた。ノエルはそれを感じ取り、少し顔を傾けた。
ノエル「それが、どのような意味を持つのかは、まだわからないということですね」
リオル「うん。でも何か重要なことが隠れているような気がする」
二人はしばらく沈黙した。ロウディアの灰色の大地は、この瞬間も何かを教えようとしているのかもしれない。その声に耳を傾けるには、まだ時間が足りなかった。
やがて、ノエルが話題を転じた。彼女の表情は、実務的なものへと変わっていた。
ノエル「ところで、リオくん。私たちの生活について、少しお話しする時間はありますか」
リオル「生活?」
ノエル「はい。観測が継続される見通しがついたということは、今後の資金計画も立てられるということです」
ノエルは机の向かい側に静かに座った。その動作には、これまでのような下位からの待機ではなく、一つの議論の場へ向かうような意図が感じられた。
ノエル「リオくんも薄々感じていらっしゃると思いますが、現在の私たちの資金では、研究と生活の両立が難しくなっていきます。場合によっては何か機材や設備等が必要になることがあるかもしれません」
リオルは改めてノエルを見つめた。ノエルの目は真摯だが、決して暗くはない。ただ生活の不満を述べるだけではなく、むしろ前に進もうとする意志が感じられた。
ノエルは静かに続けた。
ノエル「現在のペースであれば、生活費と宿舎代は賄えます。食事も、毎日得られます。ただ、それは『最低限を維持する』というレベルです。リオくんの研究も続きますし、食事も悪くはありませんが……」
彼女は一呼吸置いた。
ノエル「リオくんの《鑑定》スキルのみで調査が可能だと仮定しても、生活に余裕がありません。リオくんに質の高いお茶をお出しすることも、リオくんが食べる暖かい食事にもう一皿追加することも難しいのです」
リオルは、その言葉の重さを感じていた。彼女は現状を述べているのではなく、改善への提案を促しているのだ。生活するだけではなく、もっと良い形で生きることができるのではないか。そのような問いかけが、彼女の言葉に含まれていた。
ノエル「ただ、時間がすこし空いた以上、別の選択肢も見えてきました」
リオル「選択肢?」
ノエル「私たちが冒険者として活動するのはどうでしょう?ちょっとした狩りやそれこそ採取等小さな依頼であれば、二人で請け負える仕事があるでしょう」
その提案は、至極シンプルかつ論理的だった。だがリオルの心には、別の感情が生じていた。
リオル「それは良い考えだけど、でもなあ……」
リオルの言葉は途中で止まった。彼の心には、複数の思いが同時に起こっていた。自分たちが働く必要があることは理解している。生活に余裕を持つためには避けられない選択だ。だが、それでもなお、彼女に負担をかけることへの心理的な重さが、彼を躊躇させていた。
リオル「ノエルが僕に仕えている以上、ノエルの生活は僕が保証する義務がある。それなのにノエルを働かせて報酬を収めさせるというのはね…。それはちょっと……」
ノエル「私から搾取しているのではないか。そう思っているのですね」
その言葉に、リオルは頷くしかなかった。もちろんノエルの報酬を全て奪おう等とは思っていない。なんならノエルの戦闘力を鑑みるに、多めの取り分だって良いくらいだ。
ノエル「こう考えてみるのはどうでしょう」
ノエルは言葉を継いだ。その声は、いつもの丁寧さを保ちながらも、どこか新しい強さを帯びていた。目には楽しげな笑みさえ浮かべている。
ノエル「私達は仲の良い幼馴染として、一緒に冒険者を始めてみるんです。考え方だけの違いですが、そうすれば私が働くことは『召使としての義務』ではなく、『パートナーとしての選択』になります」
リオルは息を呑んだ。ノエルの言葉には確固たる決意が宿っており、それを理解したリオルは胸が熱くなった。
リオル「僕としては願ってもないことだけど……ノエルはそれでいいの?」
ノエル「ふふ、もちろん。想像してみてください。一緒に色んな依頼をこなしながら領地の研究をする生活。楽しいと思いませんか?私は夢のようですよ」
リオル「それは、確かに楽しそうだけど」
その言葉の奥には、ノエルの無理を心配する思いが隠れていた。彼女は本当にそれを望んでいるのか。それとも、自分たちの窮状を救うための、儀礼的な応答なのではないか。リオルはそうした疑問を抱きながら、ノエルの顔を見つめていた。ノエルはその視線に気づき、微かに笑った。
ノエル「もちろん、本心から思ってますよ。リオくんが嘘をついたり、無理してるのを隠しても私には通じません。それは、逆もそうではないですか?」
リオル「……わかった。じゃあ、今度はギルドに行って、二人で登録してみよう」
その提案をした瞬間、リオルは何かが変わったような感覚を覚えた。それは単なる経済的な選択ではなく、自分たちの関係そのものを新しく定義することのように思われた。貴族の屋敷での主と召使という枠から、自分たちの足で進む道を選ぶということ。ロウディアの灰色の大地の上で、二人は手探りの旅を続けることになる。ノエルの顔に、ほのかな喜びが灯った。
ノエル「ありがとうございます。細かい話は、また後でさせてくださいね」
リオルの研究は続く。ミレイからの報告が毎日届き、その分析に時間を使える。そして彼らの生活も動き始める。アルトレインの屋敷から停滞していた時間がいま、ゆっくりと流れを取り戻しているのだ。
それは大きな変化ではない。だが、確実な一歩だ。観測と研究と、そして生活。それらが同時に進行する世界が、ようやく見えてきた。
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