006
朝日が田畑を淡く照らす。ファルドを発ってから二時間ほどが経過していた。道の両脇には霧が静かに浮かんでおり、その中を二人は歩き続けている。リオルの肩には、昨日採取した土壌サンプルの入った鞄が提げられており、ノエルはその傍らを一定の速度で進んでいた。
昨晩の宿からの出発時に、ノエルが衣装を変えていたことに、リオルはすぐに気づいた。ファルド到着時に着ていた旅装束ではなく、昨日から着用していたメイド服に戻っていたのだ。黒と白を基調とした長いスカート、その上に白いエプロン。袖口には白いレース編みが施されており、その上から黒いリボンが結ばれている。胸元には、アルトレイン家の家紋を刻んだシンプルなブローチが留められていた。一見すると、まるで館での執務に備えるかのような、完璧な身だしなみだ。その几帳面さに、リオルは苦笑を漏らした。
リオル「昨日は旅装束だったのに、また戻してるね。わざわざ着直したの?」
彼の言葉に、ノエルは視線を前に向けたままだった。その表情は静かで、しかし確かな誇りが込められている。
ノエル「はい。昨日までは旅の最中でしたので、動きやすさを優先いたしました。しかし、今日からはリオくんのお仕事のお手伝いです。きちんとした格好は、従者としての務めですから」
その言葉には、単なる形式的な理由ではない、確固たる信念が感じられた。ノエルにとって、メイド服は単なる衣装ではなく、自らの職業と誇りの表れなのだ。
朝の光が、彼女の姿に当たる。黒と白を基調とした衣装は、その色のコントラストで、彼女の立ち姿をより引き締めて見せていた。背筋の伸びた歩き方、胸を張った体幹、そしてメイドとしての修養によって培われた気品。彼女はそのすべてを、まるで当然のように体現している。
リオル「ノエルがいいならいいけど。ところでそのメイド服で、動きにくくない?」
ノエル「心配なさいませんよう。このスカートは、必要に応じて動きやすくするための工夫が施されております。それに、きちんとした立ち居振る舞いこそが、従者としての務めですから」
その返答は、完全に筋が通っていた。リオルは一度うなずいて、視線を前へ戻した。
霧の中から、突然、小さな灰色の影が飛び出してきた。野ウサギだ。体長は二十センチほど。丸い耳をぴんと立てて、道の脇の草むらへと走り去ろうとしている。その瞬間、ノエルの足が止まった。
ノエル「リオくん」
その声には、一種の期待が混ざっていた。リオルは無言のうちに、ウサギに視線を向け、《鑑定》を発動させた。
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**生物情報**
- 種族: 野ウサギ
- 体長: 約20センチメートル
- 体温: 38度
- 性別: オス
- 健康状態: 良好
- 寿命: 推定4年
- 体内魔力密度: 低い
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観測士になってから繰り返し体験してきた、脳内に直接情報が注ぎ込まれる感覚。ウサギに関する詳細が、まるで整理された帳簿のようにリオルの意識に刻み込まれる。
リオル「野ウサギだね。健康そうだ」
ノエル「そうですか。では、お昼のお食事に一品足すことができそうですね」
彼女はそう言うと、スカートの裾をつかんだ。その動作は迷いがなく、実に自然だった。スカートが膝まで上がり、右の太ももに巻かれた黒い革製のホルスターが姿を現した。その下に広がっているのは、黒いタイツだ。極細の黒糸で丹念に編まれたその生地は、朝日に照らされるとわずかに艶を放ち、指で触れればサラサラとした手触りが感じられるだろう。肌よりも一段階濃い黒で、引き締まった太ももの曲線を強調していた。そのタイツの上に、ホルスターの革がしっかり巻き付けられており、その圧迫感がさらに太ももをより引き締めて見せている。黒いタイツの上から、ホルスターの黒い革が深く食い込み、二つの黒が層を成す様は、戦闘訓練を積んできた女性のための工夫が凝らされていることを物語っていた。そこには、長さ十五センチほどの小ぶりなナイフが一本、鞘に収められていた。彼女はそのナイフを素早く抜き出した。刃がわずかに光を反射し、朝日の中で、ひときわ鋭い輝きを放つ。
ノエルの動作は無駄がなかった。ナイフを握った手が、弧を描くように後ろへと引かれ、そのまま素早く前へと振られた。投擲のフォームは完璧で、その動作の中に積み重ねられた訓練の痕跡が明らかに感じられた。ナイフは空気を切り裂き、正確に草むらの中へ消える。その直後、ウサギの悲鳴は一瞬で静まった。
彼女はスカートの裾を静かに落とし、草むらへ向かった。戻ってくる際には、手にはナイフと、もう既に息をしていないウサギを持っていた。その動作は、あたかも日常の一部であるかのように淡々としていた。
リオル「すごい、お見事!ナイフが吸い込まれるように飛んでいった……」
リオルの言葉には、狩猟の成功への感謝だけでなく、彼女の技術と存在への深い信頼が込められていた。ノエルはナイフを丁寧に拭い再び鞘に収めながら、わずかに微笑みカーテシーをもって答えた。
リオル「でもあの、ノエル。人前でスカートを持ち上げるのは、あんまり……」
ノエル「大丈夫ですよ。リオくん以外の殿方いるときは……こう」
ノエルがこう、と言うとほぼ同時だろうか。手首を軽くスナップし多少手元がブレたかと思うと次の瞬間、手には先程のナイフが握られていた。
リオル「え、今、え!?」
ノエル「ふふ、メイドのスカートには秘密がいっぱい、と申しますから」
そのような言い回しが実際に存在するのかは定かではないが、得意げなノエルにリオルは返す言葉を失った。リオル自身が優れた動体視力を持っているわけではないのでそれがどれほどの技だったのかはわからないが、常人には知覚できないレベルなのだろう。そもそも他人の前ではしたない真似をしないのであればリオルとしても問題はない。
リオル「あれ、でもそれができるなら最初も僕に見えないようにできたんじゃ……」
ノエル「さ、リオくん血抜きするので手伝ってください」
その言い方には、明らかに都合の悪い質問から目をそらす意図が感じられた。リオルは苦笑しつつも、ノエルが差し出したウサギを受け取った。
道端の小川で丁寧に血を落とし、毛皮を剥く作業。その一連の過程で、二人の間には自然と役割分担が出来上がっていた。ノエルの指示に従い、リオルは手を動かし、彼女は全体を見守る。そうした営みの中で、時間は静かに流れていった。
やがて、空の色が変わり始めた。朝靄に覆われていた景色が、昼間の光の中に色を取り戻す。二人は再び歩き出した。ウサギの肉は布に包まれ、リオルの鞄へと収められた。ファルドから数時間。その距離を、二人は何度も歩んできた道を再び進む。
やがて、霧が薄れ始め、視界が開け始めた。景色の色は徐々に淡くなっていく。緑色の植生が少なくなり、むしろ灰色がかった土が目立つようになった。空気そのものが、どこか重い。吸い込むたびに胸が鉛色に染まるような、そんな感覚だ。リオルはその変化を敏感に感じ取った。ここからが、ロウディアだ。
二人はロウディアの中央付近に辿り着いた。かつて村落があったであろう痕跡が、わずかに残っている。崩れた石造り、根こそぎ朽ちた木々。何もかもが、時間によって静かに侵食されていた。そこに立つリオルは、昨日採取した土壌サンプルを取り出し、その場所の土と見比べた。色も粒度も、大きな違いはない。これが調査地として適切だと判断してから、彼は膝をついて、その場の土を掘り起こし始めた。深さ十センチほど。その黒ずんだ土を指で触れると、ノエルが傍らに立った。彼女の視線は、リオルが鞄から取り出した測定具へと向かっている。透き通った水晶を複数組み合わせた、その装置。正式な名を知らないノエルでも、それが何かしらの計測用具であることはわかった。
リオル「じゃ早速。《鑑定》、っと」
彼は土に向けて、脳裏で意識を集中させた。《鑑定》を発動させる。視界に重ねるように、情報が映し出される。
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**土壌情報**
- 成分: 珪砂、粘土、腐植質
- 密度: 中程度
- pH: 中性
- 魔力: 無し
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リオルは結果を記録した。だが、彼は同じ土に対して再び《鑑定》を放つ。通常は一度で十分なはずだが、何かしら確認したいという衝動に駆られた。
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**土壌情報**
- 成分: 珪砂、粘土、腐植質
- 密度: 中程度以下
- pH: 中性
- 魔力: 無し
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密度の欄が「中程度」から「中程度以下」に変わっている。僅かな違いだが、確実にそこには差異がある。彼は三度、同じ土に《鑑定》を放つ。
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**土壌情報**
- 成分: 珪砂、粘土、腐植質
- 密度: 中程度
- pH: 中性
- 魔力: 無し
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今度は「中程度」に戻っている。その微細な揺らぎを、リオルは無言で記録した。何度同じものを観測しても、わずかながら結果が異なる。その一貫性のなさが、何を示しているのか。その意味はまだ不明だ。だが、確かにそこに何かがある。その感覚だけが、彼の中に残った。
リオル「対象の土自体には特に変化は起こしてないわけだし、どちらかというと《鑑定》スキル起因の問題なのかな」
彼は採取した土をビン詰めにし、この場所での調査を終えた。ノエルはその傍らで、リオルの作業を静かに見守っている。彼女の表情には、いつもの冷静さと、わずかな好奇心が同居していた。
ノエル「その違和感、つまりは《鑑定》の精度が不安定ということですか?」
リオル「そうなのかな。いや、むしろ……」
彼は言葉を濁した。正確に何が起きているのか、まだ言葉にできていない。だが、ノエルは彼のその沈黙を理解していた。彼女は無言で、次への行動を促すように、昼食を取るための場所へ視線を向けた。
採取してから一時間強。太陽は既に頭上に昇り、ロウディアを照らす光は白く、容赦ない。だが、その光さえもこの地では淡く見え、あたかも何かに吸収されるかのような感覚が残った。二人は採取した複数のサンプルを抱えながら、ロウディアの霧の中をゆっくりと歩んでいった。
やがて、廃墟から少し離れた場所に、かつて井戸であったであろう石組みが見えてきた。今は水は枯れているが、石の周囲には平らな空間が広がっている。リオルはそこを昼食の場所として選んだ。ノエルは荷物から木を集め、火を起こす準備を始める。彼女の動作に無駄はなく、一つ一つが計画的だ。
リオルは採取したサンプルを整理しながら、ノエルの準備を横目に見ている。火起こしの炎は、まだ小さい。その炎の前に座ったリオルの横顔には、わずかな満足感と、さらなる謎への好奇心が浮かんでいた。昼食を前にしても、彼の思考は《鑑定》の揺らぎへ向かい続けている。ノエルはそれを知っていたが、今はただ、火を整える作業に集中していた。二人の時間は、静かに流れていく。
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