005
冷たい水で顔と手を洗い終えたリオルが、タオルで身体を拭くと、ノエルは既に夕食の準備を進めていた。宿屋で手配してもらった安価な食材――かたい肉、くたびれた野菜、安いチーズ。本来ならば、これらで満足のいく食事を作るのは難しいはずだ。しかし、ノエルの手にかかれば話は別だった。月光が部屋に静かに流れ込み、その光に照らされながら、彼女は食事の支度を進めている。
彼女は肉をまな板の上に置き、刃の背を使って何度も繰り返し叩いた。一撃一撃に、リオルの疲れを癒そうという意思さえ感じられる。その後、塩を軽く振りかけ、五分ほど置いて水分を引き出す。一方、野菜の芯や外皮は丁寧に取り除かれたが捨てられることはない。別の小鍋に入れられ、弱火で静かに火が通されていく。それらは出汁となり、野菜の優しい風味を生み出す。
肉の表面の水分をぬぐい、チーズをすりおろしてから塗す。その上で、鍋を強火にかけ、肉の表面を焼き上げる。焦げつく直前の香ばしい色が見えたとき、ノエルは迷わず火を落とした。そして、その焼き色が残る鍋底へ、野菜出汁を少量注ぎ、木杓子でそっとこすり上げる。焦げではなく、焦げ香だけが美しく溶け出し、出汁に深い香りと旨味が加わった。再び火をつけ、肉を戻して全体を蒸らす。炎の勢いを落とし、ゆっくりと火を通す。この短い時間の中で、くたびれた食材は息を吹き返し、見違えるほどに生まれ変わっていた。
二十分もしないうちに、テーブルの上には温かい皿が置かれた。湯気の上がる肉料理、野菜を詰めた小さな陶製の鍋――出汁の香りを逃さないよう、蓋をしたまま供されている――それからスープ。調理用の道具も片付けられ、食卓は清潔に整えられている。
リオル「毎度のことだけど、ノエルが作る食事は本当に美味しいね。これ、安い上に余ってた食材とは思えないよ」
ノエル「ふふ、ありがとうございます。これは母に習った方法です。限られたもので、最大限の栄養と満足感を作り出す。それが、家事の基本だと」
彼女は椅子に座り、リオルの向かい側に場を取った。その表情は柔らかく、微笑みながら食事に手をつけている。
リオル「ノエルがいてくれるから、こんなに美味しいご飯が食べられるんだね。本当にありがたいよ。これからも楽しみだ」
その言葉を聞いてノエルの表情が一瞬こわばった。彼女はスプーンを止めて、リオルの顔をじっと見つめている。ノエルの調理技術の全ては、あのアルトレイン家の館での日々から始まっていた。リオルが研究に没頭する傍ら、彼女は常に彼を支えるために、限られた資源をやりくりし、無駄のない調理法を学んできたのだ。その積み重ねが、今ここに花開いている。アルトレイン家の屋敷では、料理人がいた。彼女の役割は、リオルの研究の邪魔にならないよう、静かに陰から支えることだった。食事は用意されるものであり、彼女がそこまで深く関わることはなかった。しかし、辺境に来て、彼女は初めて気づいたのだ。リオルのために、自分が全てを担うことができる喜びに。彼の疲れを知り、彼が喜ぶ味を作り、彼の身体を気遣い、彼のために手を動かす。その全てが、ここでは自分の手で実現できるのだ。そしてリオルが、その存在に感謝してくれるという事実が。その言葉の重みをノエルは深く実感していた。
ノエル「リオくん……」
彼女の声は小さく、その瞳には戸惑いが混ざっていた。その後の言葉は言い出せないまま、彼女は小さく息を吐いて、再び笑顔を作った。
ノエル「ありがとうございます。そう言ってもらえるのは、とても嬉しいです」
言葉はそこで止まった。彼女の頬が、かすかに赤くなっているのが見える。
リオル「え、何か……」
ノエル「何でもありません。さあ、お食事が冷めてしまいます。召し上がってください」
ノエルはそう言うと、自分の食事に視線を落とした。その顔の上には、まだ微かに赤みが残っていた。リオルは首をかしげたが、それ以上には踏み込まず、スプーンを手に取った。
肉の柔らかさ、スープの深い味わい、野菜の甘さ。すべてが調和している。身体が疲れていたのか、リオルは無意識のうちに、ゆっくりと食事を進めていた。
リオル「それでね。今日、ロウディアの土壌を詳しく調べていて思ったことがあるんだ」
彼は口を拭いながら、あたかも何気ない会話の続きであるかのように話を切り出した。
リオル「さっきの土と毛皮の分析で思ったんだけど、僕の《鑑定》、ちょっと普通と違う気がするんだ」
ノエル「《鑑定》の、ですか?」
リオル「うん。通常は、対象を一つ見て情報を得る。それの繰り返しだと思ってたんだけど、最近気づいたのは、僕は複数の異なる対象に同時に《鑑定》を当てることができるんだ。例えば、土と、採取したウルフの毛皮と、血液が付着したものと、すべてに同時に《鑑定》を向けることができる。でも――」
彼は一度食事を止めて、考えをまとめるように天井を見つめた。
リオル「でも、理解するのは順番なんだ。結局のところ人間の脳は一つだからね。複数の観測結果は、脳が次々と処理して、初めて『理解』になる。つまり、その過程では、情報は確かに並列で取得してるのに、認識は必ず直列化されてる。不思議だろう」
ノエル「つまり……リオくんの頭の中は、いつもたくさんの情報で埋まっているということですね」
リオル「そういうことかな。それでいて、《鑑定》は魔術とは違うスキルだから、魔力消費がない。当たり前といえば当たり前なのかな。ノエルの奉仕スキルだって、別に料理をするたび魔力を消費するわけじゃない。鑑定魔術がある以上、《鑑定》スキルも魔力を消費するのかとてっきり思ってたけど」
ノエルは肉を一口噛んで、しばらく沈黙していた。彼女の瞳は、リオルの顔をじっと観察している。
ノエル「もしかして、リオくんの『鑑定』スキルは、実は一種の……鑑定魔術のような『読み取り』ではなくて、『解析』なのではないでしょうか」
リオル「解析?」
ノエル「はい。見るだけではなく、見たものを理解するプロセスそのものを、スキルの一部として含めているのではないか、という意味です。だから、複数の情報を同時に観測できても、理解が直列化される。その『理解の作業』こそが、実は《鑑定》の本質なのかもしれません」
その指摘に、リオルの目が輝いた。彼は数秒間、ノエルの言葉を反復するように頷いている。
リオル「そうか、『見ること』と『理解すること』を区別するべきだったんだ。外の世界の現象を、僕の認知可能な形にリアルタイムで変換している。だから、複数の現象を同時に観測しても、理解は逐次になる」
ノエル「ふふ、見ていてわかります。リオくんはいま、すごく楽しそうです」
彼女の言葉に、リオルは我に帰った。気が付けば、スプーンを握ったままになっていて、スープは冷め始めていた。
リオル「あ、ごめん。夢中になってた」
ノエル「いいえ。その顔を見るのが、私は好きですよ」
ノエルはそう言って、自分の食事に視線を戻した。ただし、その耳の根元は、かすかに赤くなっていた。リオルはそのことに気づいたのか気づかないのか、スープを飲み始める。
リオル「結果は鑑定魔術と同じなんだけどね。その場にあるものを一気に解析できるわけでもないし。……まあ基礎研究ってのは得てしてそういうものか。いずれ何か活用できるといいな」
食事を終えると、ノエルは食器を片付け、テーブルを拭いた。宿屋の主人が用意した簡素な箪笥に食器をしまい、水を返す。彼女の動きに無駄はなく、全ての動作が自然だ。その光景を眺めていると、リオルは、この平凡な日常がいかに貴重であるかを改めて感じた。
ランプが灯される。淡い黄色の光が部屋を包む。二人は、簡素なベッドと椅子が置かれた小さな部屋に、並んで座った。窓の外には、ファルドの夜の音――遠くで話す人の声、馬車の音、風が建物をなでる音が聞こえてくる。
ノエル「明日も早いですし、そろそろお休みになられたほうがいいのではないでしょうか」
リオル「そうだね。明朝五時に出発のつもりだし」
ノエル「はい。ロウディア北部の調査ですね。日中に往復できるように、進路の確認をしておきました」
ノエルは立ち上がり、ベッドの上に置かれた毛布を整えている。その姿を眺めていると、リオルは無意識のうちに彼女を観察していることに気づいた。
ノエル「そういえば」
彼女は振り返った。その顔は、ランプの光に柔らかく照らされている。
ノエル「リオくんが望むのであれば、一緒に寝てもいいですよ?」
その言葉の直後、部屋の空気が止まったかのように静寂に包まれた。リオルの顔は、瞬く間に真っ赤になった。
リオル「い、いや。それはさすがに……」
彼は視線を下に落とし、両手を握りしめている。動揺が顔全体に表れており、隠すことはできていない。
ノエル「そうですか。残念です」
彼女の声には、明らかに遊び心が混ざっていた。その微笑みの奥には、彼女が何を企図していたのかが、リオルにはぼんやりと理解できた。しかし、その理解が何を意味するのかは、彼はまだ言葉にすることができなかった。
ノエル「では、私はこちらで眠ります。リオくんは、そちらのベッドでお休みください」
リオル「あ、うん。ありがとう」
ノエルの手によりランプの火が、かちりという音とともに吹き消される。部屋は闇に包まれた。外の夜音が、より一層はっきりと聞こえるようになった。風、遠い声、時々聞こえる馬の嘶き。その音の中で、リオルはベッドに横になった。
天井を見つめながら、彼の脳内では《鑑定》の本質について考えが渦巻いている。情報と理解の区別、スキルと魔術の本質的な違い、そして――。
ノエルの方を、動きで音を立てないように横目で見やる。毛布に包まれた彼女の姿は、暗い中でもかすかに見える。彼女は眠っているのか、それとも眠っていないのか。その判断もリオルにはつかない。
やがて、彼の意識は、徐々に、ゆっくりと、暗い領域へ沈んでいった。その時、ノエルの小さな呟きが、わずかに聞こえたかもしれない。
ノエル「やはり、まだ無理でしたか……でもまあ、少しずつ、ですね」
その言葉は、暗がりの中で、すぐに消えた。ランプは既に消えており、部屋には何も残されていない。ただ、外の夜音と、二人の静かな呼吸だけが、時間を数えていた。
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