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辺境観測士、鑑定AIで魔術を最適化する~今日もデータ片手に、幼馴染とまったり研究生活~  作者: hiyoko


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 リオルはノエルの言葉に視線を前に戻した。町の明かりはもう眼前だ。道幅が広くなり、両脇に農地から家屋へと変わっていく。草や土の匂いが、少しずつ薪の煙や動物の臭いへ置き換わっていった。

 ファルドの町並みを眼にしたとき、リオルは昔日の栄光と現在の衰微のせめぎ合いを感じた。街道沿いに立ち並ぶ家屋は木造がほとんどで、瓦葺きの屋根にも苔が目立つ。かつては石造りの商家も多かったのだろうが、今目に入るのは補強のための木材で無秩序に補修された建物ばかり。広場には古い噴水の枠組みだけが残り、石畳は随所で割れている。街道沿いの幾つかの店舗からは灯火が見え、人声も漏れてくるが、その音は決して大きくはない。むしろ静寂の中に、細々とした営みが浮かんでいるような印象だった。夜が深まるに連れて、家々の窓からは一つまた一つと灯りが消えていく。

 通りの両脇では、行商人たちが店じまいをしている。野菜を売る露店の商人は、売れ残った大根やニンジンを樽に戻しながら、呪うように誰かに言葉を交わしていた。鍛冶屋の前では、火の消えた炉がまだ余熱を放ち、そこで修理道具の片付けが進められている。その一角で、見知った顔らしい地元民たちが何人か立ち話をしており、彼らの話題は天候と作物のことばかり。通りの奥では、月光に照らされた井戸が静かに佇んでいて、その周りには誰もいない。この町は王都から遠く、王都の灯火とは全く異なるペースで時間が流れているのが感じられた。ロウディアとの交易路が途絶えてから、この町に何をもたらしたのか。衰退か、それとも別の形の落ち着きか。

 この町に来たのはもう何度目だろう、とリオルは思う。数えるほどではあるが、毎度同じような風景が繰り返されていた。しかし、今回は違う。今回は、この町の人々の苦労が、自分たちが支配する領地ロウディアの再生と密接に繋がっているのだと、リオルは初めて現実的に認識していた。領主としての責任は、単なる領地管理ではなく、ファルドとの関係構築を通じて成り立つ。その思考が、リオルの心に静かに根付いていった。

ノエル「この町、以前より人気が減りましたね。でも……昔の繁栄の痕跡はまだ至る所に見られます」

 彼女の言葉は観察というより、一種の哀惜が混ざっていた。ノエルはこの町の歴史を知っている。家族が長く使用人として働いた場所で、多くの客人たちの会話を耳にしてきたのだ。リオルはその観察眼に頼りながら、同時に自分たちの立場を確実なものへと組み替えていく計画を頭の中で組み立てていた。ロウディアの窒息現象が解決されれば、この町にも活気が戻るかもしれない。だが、その解決方法は誰も知らない。その中にあって、リオルが何をできるのか。その問いが、彼の心を支配していた。

 二人が向かう宿は、町の中央部を貫く街道沿いにあった。「草笛亭」という名の建物だ。二階建てで、木造ながらも補強が十分に施されており、屋根には補修の後があちこちに見られた。宿の暖簾には、草笛という楽器を描いた素朴な紋が入っている。入り口の両脇には、客引きのための草鉢が置かれているが、夜が深まったこともあり、今は人もいない。建物そのものは決して新しくはないが、管理は行き届いているようで、建材の傷みも最小限に抑えられている。この町の人々の実直さが、こんな細部にも表れていた。

 二人が扉を押し開くと、温かな空気と薪の燃える匂いが流れ出てきた。宿の中には、期待以上に活気がある。ロビーの一角では、何人かの旅人や地元の商人が、燃え盛る暖炉を前にして酒を飲んでいた。彼らの会話の端々から聞こえてくるのは、取引の話、作物の話、時には遠い王都の噂についてだ。カウンターの奥では、宿の女主人らしき人物が、帳簿を整理しながら様子を観察していた。床は土足のままで、随所に土ぼこりが溜まっているが、整頓の工夫が見られ、必要なものは全て揃っている。無駄なく、しかし温かい。それがこの宿の特徴なのだろう。

 宿の奥へ続く階段は、急で狭く、暗かった。ノエルが先に灯火を掲げて上る。二階には廊下があり、左右に幾つかの部屋の扉が並んでいた。木製の扉は相応に年季が入っており、取っ手も磨き込まれて滑らかになっている。それは長年多くの客に使われてきたことを物語っていた。リオルたちの部屋は、階段を上った右奥だった。

 ノエルが鍵を開けると、部屋の中には月光が淡く流れ込んでいた。六畳ほどの小さな部屋には、藁の敷かれた寝台が一つと、簡素な机が一つ。その脇には、水を汲むための木製の樽が置かれていた。壁は白い漆喰で塗られており、天井から吊された油灯がぼんやりと周囲を照らしている。窓からは、町の灯火がかすかに見えた。

 リオルは机の上に、今日採取した土壌サンプルを丁寧に置いた。透明な瓶に詰められた褐色の土は、ロウディアの大地そのものだった。すぐ隣には、フィルウルフの毛皮を広げた。リオルの目は既に、明日の分析の準備へと向かい始めていた。

 ふと、その手が瓶から離れた。王都のアルトレイン家での日々が、静かに脳裏をよぎる。今よりも幼いを過ごした館の研究室だ。あの部屋は館の最奥にあり、兄たちの訓練場からは遠く、昼間の喧騒の中でも彼は一人そこに籠もることができた。石壁の室内には、獲得してきた古い書物が幾重にも積み上げられ、机の上には現在進行形で解読中の羊皮紙が散らばっていた。夏の深夜、開け放たれた窓からは庭園の湿った匂いが流れ込み、油灯の炎が淡く揺らいでいた。その光に照らされながら、リオルは魔術の古い記述をなぞっていた。一字一字を追うのではなく、行間に隠された論理を探るように。

 成人の儀で授かった《観測士》という職印は、家の誰もが軽く扱った。戦闘職ではない。領地経営に直結しない。学者にしては実績もない。家の長たちの目には、それは期待はずれの烙印だったのだろう。父は何も言わなかったが、その沈黙そのものが、失望の深さを物語っていた。兄たちは成人の儀後すぐに軍務の志願書を提出した。騎士団への配属、領地守備の責任。彼らは家の期待を体現していた。それに比べて、リオルの位置付けは曖昧だった。《鑑定》という平凡なスキルと、《観測士》という不明瞭な職業。何もかもが中途半端に見えたのだろう。唯一、その現実をありのままに受け入れ、何の動揺もなく寄り添ってくれたのがノエルだった。彼女は幼い頃からリオルの傍にいた。従者として、友として。彼の研究が世間から理解されないことを知りながら、それでも夜明けまで付き添い、論文の整理を手伝い、疲れた彼を無言で支えてくれた。やがて彼女自身も気づいたのだろう。彼の探求の前には、世俗的な評価など無意味だということに。だからこそ、彼女もリオルに付き添うことを選んだのだ。

 剣術の修行は十年間続いた。訓練場に立つ度に、兄たちの刃は正確で、迷いなく、美しかった。リオルはそれを観察し、その動きに隠された仕組みを理解しようとした。しかし、修行そのものに身が入ることはなかった。むしろ、その時間が終わり、研究室に戻ることを心待ちにしていたのだ。剣の理詰めさと、文献の中に隠された論理の精緻さは全く異なる。前者は身体の反復を通じて感覚を磨くものだが、後者は思考そのものが問われる営みだった。世界の仕組みを知りたい。その欲望の前には、剣の訓練など些事に過ぎなかったのである。

 やがて、リオルは魔術の効率化に関する理論を構築し始めた。詠唱の簡潔化、魔力流のベストプラクティス、冗長性を排除した魔術式の再構成。紙上の理論としては、それらは完璧に近い形へと昇華していった。しかし、いざそれを実装しようとした時、彼は気づくことになったのだ。人間の精神には、処理できる情報量に限界があるということに。魔術の詠唱において、効率化された複雑な式を完全に把握したままで同時に魔力操作を行い、結果を観測する。その全てを、人間の脳が同時に処理することは、理論上可能でも実務上は極めて困難だったのだ。短時間なら可能だが、継続的に運用することはできない。精神の疲弊は急速に訪れ、判断力の低下は避けられない。

 つまり、どれほど優れた理論を構築しても、それを人間が実装する際には必ず劣化が生じるのである。リオルの理論的な到達点と、実際に彼が行使できる魔術の間には、埋められない溝があった。無限の並列思考を同時に行う存在であれば可能なのかもしれない。もっとも、人によってはそういった存在を神と呼ぶのかもしれないが。もちろんそのような存在が現実に存在するはずもなく、リオルはその矛盾の中でただ観測し、ただ記録し続けるしかなかったのである。

 成人の儀の当日、評定の席に立ったリオルの面持ちは静かだった。彼は自分が何を期待されているのか、そしてそれに応えられないことを既に知っていた。評価は冷淡だった。《観測士》はスキルの応用範囲が限定的である。《鑑定》は誰もが簡単に習得できる基本能力に過ぎない。戦力としての価値は限りなく低い。そう言わんばかりの視線が、評定の間を支配していた。その瞬間、リオルは明確に悟った。自分は、この家にとって有用ではないのだと。父の厳しい顔、兄たちの微妙な表情。全てが、その真実を語っていた。

 ロウディアへの赴任が決まった時、父の指示は簡潔だった。「その地に赴き、領主として動け。家の足手纏いになるな」と。それは、非難というより、むしろ突き放すような言い方だった。回復の見込みは薄い荒廃した領地。そこへの赴任は、事実上の左遷だった。他の貴族の子弟たちが花やかな官職を得る中で、リオルだけが不毛の地へ送られたのだ。一族の評価は、それ以上に低くなることはないだろう。だからこそ、リオルはかえって気が楽だった。期待されていないのなら、自分のペースで進めばいい。この新しい使命の中で、自分の思考を実装し、世界の理に向き合う。それが許されるなら、それは一種の自由ではないだろうか。その時、リオルが覚えたもう一つの感覚は、静かな驚きだった。アルトレイン伯爵家から同行する従者は、ノエル一人だけという父の告知。他の侍従たちは全て留め置かれた。つまり、誰もリオルの後を追おうとしなかったのだ。その残酷さを理解できていたはずのノエルが、それでも彼について来るという選択をしたこと。その意思がどれほどの重さを持つのか、リオルはまだ十二歳の心で全て理解することはできていなかった。だが、彼女の瞳に揺らぎはなかった。むしろ、彼女はリオルを見つめながら、微かに微笑んでいたのだ。その笑顔が、この辺境の地で、彼の唯一の現実であった。

 時は流れ、場所は変わった。しかし本質は同じだ。王都の館の研究室から、この小さな辺境の部屋へ。その移行の中で失われたものは多いが、失われなかったものがある。彼女の支えと、世界の理を追い求める欲望だ。この小さな部屋で、土壌を観察し、魔力の流れを追い、世界の理に耳を傾ける。その営みの中にこそ、リオルは自らの価値を感じていた。だが、その営みは決して孤独ではない。ノエルがいなければ、それは成立しない。彼女の支えがあるからこそ、リオルはただ観測者として、研究者として在ることができるのだ。その事実を、彼は毎日のように実感させられている。今夜も、彼が研究に没頭する傍らで、彼女は静かに食事の準備を進めるのだろう。その営みの中に、温かさがあった。

ノエル「リオくん、まずはお夕食にしましょう。こちらで仕度いたしますので、お身体の汚れを落とされてください」

 彼女の声が、再びリオルの思考を現実へ引き戻した。ノエルはそう言うと、宿から汲んできた水を器に移し、タオルを用意し始めた。その指示は優しいながらも明確で、リオルは自分がどれほど疲弊していたのかを、その時初めて自覚した。彼女に促されるまま、リオルは水で顔と手を洗った。冷たい水が肌に触れた瞬間、廃墟での調査で溜まった疲れと緊張が、わずかに解けていくのを感じた。

ここまで読んでくださりありがとうございます。

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