002
沈みゆく夕陽が二人の背後で淡く輝いていた。空は橙色から紺色に変わりつつあり、雲はその間を縫うように浮かんでいる。リオルとノエルは廃村を後にし、苔むした古い石畳の道を辿って帰り始めた。山間の空気はひんやりと肌を撫で、木々の隙間から冷たい風が吹き抜ける。足元で踏みしめられた土が、ふたりの歩調に合ったリズムを刻んでいた。
リオル「今日、一日があっという間だったね。あの土地をどう開拓していくかはこれから考えればいいさ。でも、まずは持ち帰ったこの土を見てみようか」
彼はポケットから小さな袋を取り出し、中の土を手のひらに広げた。灰色がかった粒子が、夕陽の光を鈍く反射している。リオルはその土に集中し、心の中で《鑑定》を発動する。
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**土壌情報**
- 種類: 灰土に似た土壌
- 水分含有量: 極端に低下
- 栄養素: 不足
- 特記事項: 長期間の干ばつまたは特異な環境変化により形成。
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観測士になってから何度か試した時と同じように、脳内に直接情報が注ぎ込まれる感覚が訪れた。土壌に関する詳細が、まるで文字が浮かぶように意識の中に流れ込んでくる。
リオル「これは灰土みたいだけど、何か特異な環境で形成されたのかな…?栄養も水分もまったくない。これだけの情報じゃ原因は特定できないな」
ノエル「なるほど、ただ土地が痩せているだけとは思えない感じでしょうか?」
リオルは肩をすくめて、周囲を見渡した。暮れゆく空の下で、彼の表情には探求心と困惑が入り混じっている。
リオル「自然現象が絡んでいるのか、はたまた何らかの土壌汚染が発生したのか。まだまだ仮説すら立てられないね。これから地道に調べていくしかない」
ノエル「ええ、難航しそうですね。まずは目の前の課題から一つずつ取り組みましょう。私はリオくんと一緒ならどんなことでも楽しいですよ」
二人の会話は未来に対する期待と不安へと自然と移っていく。夕陽は長い影を延ばし、彼らの前に新しい始まりをそっと照らし出していた。
森が迫る大地を下ると枯れ葉の絨毯が広がり、深い緑が覆いかぶさるように続いている。その静けさを破るかのように、小川が遠くで優しいせせらぎを奏でていた。辺りが徐々に暗くなり始め、夜の気配をどこかに感じるようになってきた頃、ノエルが不意に足を止めた。
ノエル「リオくん、何かいます。茂みの向こう」
彼女の声は低く、張りつめた緊張感を帯びている。リオルも反射的に動きを止め、示された方向へ視線を向けた。その瞬間、目の前の茂みがガサリと動く。
茂みの中から、薄暮の光に照らされた白い毛を持つ獣が姿を現した。森の静寂を切り裂くかのように低い唸り声が響き、獣の鋭い牙が残照を受けて鈍く光る。続けて、もう一体、同じように白い毛並みの獣が姿を見せた。二体は互いの距離を保ちながら、何かを探すように周囲を警戒している。
リオルは反射的に《鑑定》を発動した。脳内に直接情報が注ぎ込まれる感覚が訪れる。
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**生物情報**
- 種族: フィルウルフ
- 成長段階: 成体
- 体長: 約1.2メートル
- 脅威度: 低
- 特性: 群れで狩りを行う。夜目が効く
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リオル「フィルウルフ……二体か」
心臓が早鐘を打つ。ノエルが気づいてくれなければ、不意打ちを受けていたかもしれない。彼女の警告があったからこそ、対処する余裕が生まれた。おかげでその不意打ちの権利はこちらに移った。
ノエル「まだこちらには気づいていないようですね。茂みの陰に身を潜めているおかげでしょうか」
静かな声でノエルが状況を分析する。獣たちは耳をぴくぴくと動かし、周囲の音に反応している様子だが、視線はこちらを向いていない。何か別の獲物の気配を追っているのかもしれない。頬を撫でる風の方向を意識する。風が自分たちの背後から吹いていることも味方しているだろう。
リオル「この隙に、まずは一体を倒すよ」
ノエルの方に視線を向けると、彼女は無言で頷いた。静かに彼の意図を理解し、次の行動に備えている。その落ち着いた佇まいに、リオルは安心感を覚えた。
静けさが戻ったその瞬間、リオルは瞳を閉じて自身の内にある魔力を探った。詠唱を始める前に彼は一つ深呼吸をし、心の中で炎のイメージを明確に描く。炎の温度、形状、射出速度。はっきりとした意志で魔力を励起させ、詠唱の言葉を口にする準備を整えた。
リオル「『炎よ、姿を現せ』」
詠唱の瞬間、彼の体から魔力が流れ出す。その流れは彼の手のひらで炎を形成し、赤い光が夜の闇に浮かび上がった。彼の心は冷静かつ鋭く、意識の全てを行使する魔術に注ぎ込んでいた。
火球はやがて矢の形へと整形され、赤く輝く閃光が生まれた。その光とともに、ファイアボルトは放たれる。
リオル「ファイヤボルト」
夜気を切り裂く軌道を描きながら、炎の矢はフィルウルフに直撃した。
炎が目標にぶつかると、フィルウルフは激しくうなり声をあげた。炎の熱が皮膚を焼き、獣は身体をねじって苦痛から逃れようとする。初歩的な魔術とはいえ、その程度で鎮火する火力ではない。煙と焦げた匂いが周囲に立ち込め、獣の毛皮が剥がれ落ちていく。
獣の体は力なく崩れ、その場に沈んだ。火が消えると同時に息絶えたその姿が残された。冷酷なほどの精密さで放たれたその炎は、獣に死を運んでいた。
魔術を放ったリオルは、一瞬の成功の余韻を味わいつつ、次の対策を考えていた。しかし当然ながら残る一体のフィルウルフがこちらに気づき、緊迫した状況に追い込まれる。獣の瞳が鋭く光り、低い唸り声が威嚇の意図を示していた。
リオル「気づかれるのはわかってたけど、さてどうしよう。次弾、間に合うかな」
詠唱には時間がかかる。魔力を集め、形を整え、放つまでの一連の流れ。その間に獣が突進してくれば、回避は難しい。そう判断した瞬間、ノエルが彼の隣に静かに歩み寄った。
ノエル「ちょうど良い機会ですね。リオくん、私に任せてもらえませんか?」
彼女の頼りある声に、リオルは心配と信頼が心の中で交錯するのを感じた。長年の付き合いからノエルが何か明確な根拠を持っていることを理解し、リオルは一歩後退する。
ノエルがその小さな肩からバッグを取り下ろし、中から取り出したのはどこでも手に入りそうな安価な剣だった。
しかし、その剣が彼女の手に握られた瞬間、時が止まったかのように空気が引き締まった。周囲の小さな音が消え、静けさが広がる。ノエルの姿勢には、まるで彼女自身が周囲を制しているかのような威厳が宿っていた。誰がこの場の生物の生殺与奪を握っているかは明確だった。
ノエルの表情は落ち着きながらも鋭さを持ち、その一挙手一投足は観る者全てに深い印象を刻むだろう。剣は彼女の心の延長線上にあり、意志のままに動く道具となっている。彼女の瞳には、すべてを見通すかのような確信が宿っていた。
フィルウルフはノエルが放つ異質な気配にたじろぎ、動きを一瞬止めた。それはフィルウルフの瞬きの瞬間だったのか、呼吸と呼吸の間だったのか。ノエルの攻撃は既にその瞬間に始まっていた。彼女の足が音もなく一歩前に出た刹那、剣が白刃となり、流れるようにフィルウルフの喉元を切り裂いた。
その一撃で、頸動脈が正確に断たれる。温かい血がほとばしったが、一目には彼女の剣は赤く染まっていないように見えた。まるで水を切るように、血すら避けて通ったかのような精密さだった。獣は一瞬の嗚咽を残し、静かに地面に崩れ落ちた。
ノエルは剣を持ったまま、静かに立ち尽くし、依然としてその場を支配している。周囲には再び静寂が戻り、彼女の技がもたらした結果を淡々と受け止めていた。リオルはその光景を見つめ、ノエルの持つ尋常ならざる力と技量にただ息を呑んだ。激しい剣戟があったわけでも、硬度の高いものを切ったわけでもない。だが、その実力が人知の及ばないところにある事を否が応でも理解させられていた。
圧倒的な実力を示された驚愕と、彼女の美しさ。その二つが、リオルの胸の中で複雑に絡み合う。ノエルは静かに佇み、まるで何事もなかったかのように穏やかな表情を浮かべている。だが、足元には確かに、彼女が一瞬で仕留めた獣の亡骸があった。
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