013
朝日が、窓の端から静かに室内へ差し込み始めていた。その淡い光の中で、ノエルの声が降りてきた。
ノエル「おはようございます、リオくん」
その言葉は、いつもの静かで落ち着いたものだ。今まで何度も自分の目を覚ましてきた声を聞き、リオルは瞼を重く持ち上げた。意識が、ゆっくりと戻ってくる。頭には依然として、あの世界とこの世界の狭間のような違和感が残っている。だが、昨日ほどの圧迫感はない。むしろ、その違和感さえも、自分の一部として受け入れられ始めているような感覚だ。
視界が焦点を結ぶ。ノエルは既に身支度を整えており、眼鏡の奥の瞳が朝の淡い光に映っていた。だが、彼女がリオルのベッドへ近づく時、その距離が、いつもより少しだけ近い。その近さは、決して不自然ではない。むしろ、二人の間に生まれた新しい親密さの、自然な現れなのだ。彼女も自分と同じように、昨夜の手の温もりをまだ覚えているのだろう。
リオル「おはよう。ノエル」
返礼は短く、だがその中に昨夜への感謝を込めた。ノエルは微かに微笑み、手に持っていた着替え用の衣類をリオルの脇に置いた。
ノエル「昨日より、よくなりましたか?」
質問というより、相手の状態を優しく測るような口ぶりだ。ノエルは、椅子の背にもたれかかるような恰好で、リオルを見守り続けていた。
リオル「うん。頭はまだちょっと違和感が残ってるけど、身体はだいぶ楽だね」
ベッドから身を起こしながら、リオルは窓の外を眺めた。ロウディアの灰色の大地が、朝日に照らされている。
リオル「前世の記憶も、もう少し落ち着いた。昨日は、あの世界とここがごっちゃになってて、どちらが現実なのか分からなくなるくらいだったけど」
ノエル「それはよかった。あの状態が続くのは……」
ノエルは言葉を切った。彼女の視線は、わずかに揺らいでいた。昨夜、彼女が感じたであろう不安が、今でも完全には消えていないのだろう。
ノエル「……さすがに、心配でしたから」
その言葉の後ろに、言い切れていない想いが残されている。昨夜、彼女が口にしていた決意。もし乗っ取られていたら、どうするつもりだったのか。その話の内容が、今朝にも影を落としているのだ。
リオルは、ノエルの手を取った。その動作は、前世覚醒以前のリオルには決してできないものだ。
リオル「ノエル。僕は、僕だよ。大丈夫」
その言葉に、ノエルは頷いた。だが、頷いたその時、彼女の瞳が僅かにゆれた。
身支度を終えたリオルは、ノエルと共に宿の食堂へ向かった。朝食の時刻だというのに、食堂の客足は少ない。特に、彼らが座った隅の席の周囲には、人気がない。その静けさが、不思議と心地よい空間を作り出していた。
黒いパンと塩漬けの野菜、そして温かいスープがテーブルに置かれた。ノエルはリオルの対面に座り、自分の分を口に運び始める。だが、その動作の仕方は、完全に召し使いのそれではなく、より親密な同伴者のそれに変わっていた。彼女は、リオルの食事のペースを静かに観察しながら、自分のペースでも進めていく。その共食のリズムが、二人の心理的距離を示していた。
ノエル「今日は、どうなさいます?」
それは、単なる時間の確認ではなく、リオルの気分や体調に配慮した問いかけだった。
リオル「昨日は調査できなかった部分があってさ。今日、改めてロウディアの畑を見に行きたいんだ。鑑定のスキルとか、色々検証したいし」
ノエル「では、朝のうちに出発されるのが良さそうですね」
リオルは何の気なしに、朝食時の雑談がてら軽口を話し始めた。
リオル「実はさ。前世の記憶が戻ったとなると何かわかりやすい必殺技!みたいなの出来るようにならないかなと思ったんだけど。現実はそうはいかないね、難しそうだ」
その言葉を聞いたノエルは、スープの匙を一度止めた。彼女は、リオルの顔をゆっくり見上げた。その眼鏡の奥の瞳には、興味が灯っていた。
ノエル「必殺技……ですか」
リオル「うん。全然実例はないんだけど、娯楽の物語として別の世界に転生して、すごく強い力を授かって…みたいな展開があったから」
リオルはパンを手に取り、ゆっくり説明を続けた。その説明の仕方は、あたかも物語を語るような緩やかさがあった。
リオル「だから、前世の記憶なんて大きな出来事があったらそういうこともあるのかな、とか妄想しちゃって」
ここで、リオルは言葉を切った。自分の中での認識の整理を一度挟む。そして、続ける。
ノエルは、スープを置いた。そして、その手を膝の上に静かに戻した。彼女は、リオルの言葉を慎重に噛み砕いているのだ。
ノエル「ふふ。珍しくリオくんが年相応で、可愛らしいですね。そういうリオくんも好きですよ」
その言葉は、不意に落ちてきた。ノエルの口調は、通常の静かなそれのままだ。だが、その言葉の中に含まれた柔らかさと、その顔に浮かんだわずかな照れが、リオルをとどめた。
ノエル「そういう奥の手や決まり手のようなものは、地味でつまらない鍛錬を繰り返した先絞り出される結晶のようなものです」
ノエルは指を立て、生徒を指導する教師のように振る。年上とはいえリオルとそこまで年齢は離れていないが、その仕草の中に、ひどく大人びた雰囲気が浮かび上がっていた。なんとなく雑談代わりに始めた会話であったが、リオルは熱心に耳を傾けていた。その中に、何かの本質が隠されているような気がして。
ノエル「例えば剣士の必殺技は飛ぶ斬撃のようなものではなく、決まれば絶対に相手に致命傷を与えられるという、今まで幾度も反復練習してきた末に至る渾身の『袈裟斬り』や『切り上げ』だったりします。決して急に与えられる大きな力だったりはしないのですよ」
ノエルの言葉は、確かなリオルの胸に落ちた。彼女は、自分の経験の中からそれを語っているのだ。
リオル「そうか……。うん、そうだね。そんなに強くなるまで鍛えてきたノエルの言う事だと説得力があるよ。軽はずみなこと言ってごめん」
リオルは自らを省みながら、ノエルの言葉をそっと受け止めた。
ノエル「あ、すみません違うんです。お説教をしようとしたわけではなくてですね。何も体を鍛えることだけが鍛錬ではありません。リオくんもこれまでたくさん学んで、研究してきたではないですか。もし必殺技のようなものがあるなら、その種はすでにリオくんの中に息づいているものだと、私は思いますよ」
彼女は身を少し乗り出した。その身振りには、リオルの誤解を正したいという気持ちが現れていた。
ノエル「大きな力を求めることは、誰しもあるものです。特に、知識を持てば持つほど、できることとできないことの差が明らかになりますから。その差を埋めたいという欲望は、自然なことです」
ノエルは、眼鏡を少し上げた。彼女は、時間をかけて自分の考えを語っていた。
ノエル「ですが、その力に頼るのではなく地道な観測を大切にしようとするリオくんの姿勢……それを『理解すること』『観察すること』を最優先とするあなたの本質は、わたしは本当に好きですよ」
彼女の言葉には、単なる褒めではなく、リオルという人間に対する深い理解が含まれていた。
――ノエルは、僕のことを、ちゃんと見てくれているんだ。
その認識が、リオルの心を温めた。
リオル「ノエル……」
呼びかけ始めたが、ノエルは先に口を開いた。彼女は、自分の言葉に照れているのを隠そうとしているのだろう。
ノエル「ただし、焦らずいきましょうね。そういう大きな力は、時間をかけて理解するものです。短期間での習得は、危険です。リオくんは、そういう焦りを持つ傾向がありますから」
その言葉は、柔らかくも絶対的だった。ノエルが従者として、リオルの身を案じる姿勢が、言葉の奥に宿っていた。だが同時に、それはリオルの性質をよく理解した上での、親友としての忠告でもあるのだ。
リオル「うん、そうだね。一気に色んな知識が流れ込んできたけど、出来ることとできないことをしっかり分けて考えてみるよ。そういえば昔、色々考えはしたけど却下した理論とかもあったしね」
ノエル「はい。その心構えが、リオくんの本当の強さになるはずです。それにリオくんは魔術主体ですからそれこそ派手な手」
その後、二人は食事を続けた。話題は、自然と昨日の調査へと移っていった。リオルが記録した数値、その周期性、そして今日改めて確認したい項目について。ノエルは静かに聞き手に回りながら、時折、的確な質問を挟んでいた。彼女の質問は、常にリオルの思考をより深めるものばかりだ。
食事を終えた二人は、朝の涼しい空気の中、ロウディアの畑へ向かった。昨日までの調査地点に到着すると、リオルは手帳を取り出した。十日間にわたって記録した、畑の成長データ、魔力反応のぶれ、時間ごとの気象変化。細かく書き込まれたページが、何枚も重ねられている。
ノエルが周囲の安全を確認している間に、リオルは地面に座り、データの整理を始めた。手帳のページを広げ、鉛筆で線を引き、周期的な変動をグラフのように描き出していく。その作業は、前世での日常的な動作と全く同じだ。データを見ると、それがどのような変動をしているのか、その背景にある理由は何なのか、そうした思考が自動的に頭の中で走る。
――この周期は、約五日。それも規則的な五日。
リオルは、その周期性に注目した。自然界の変動は、通常、不規則だ。風の吹き具合、気象の変化、土壌の水分含有度。そうした多数の要因が影響するはずなのに、この数値は周期的に変動している。
ノエルが戻ってくると、リオルは手帳を示した。
ノエル「何か見つけましたか?」
リオル「やっぱり周期性がありそうだね。緑豆の状態は、微量ではあるものの回復している。一方的に枯れていくだけじゃないんだ」
リオルはその行を指差した。彼女は、その線を静かに眺めた。その指の動きが止まるまで、二人は一つの数値に集中していた。
リオル「通常、こういった変動が出るのは、光の当たり具合とか、気温の変化とか、地表の環境要因が大きく影響するはずなんだ。だけど、それだけじゃ説明できない周期が出てる」
ノエルは、リオルの横に座った。彼女は、自分も同じ目線でデータを見ようとしているのだ。その近さが、二人の関係を示していた。
ノエル「原因、なんなんでしょうね」
その問いかけは、リオルに考える間を与えるようなタイミングで発せられた。
リオル「うーん、さっぱりだ。なにか根本的な情報が足りてない気がするんだよな…」
リオルは、ノエルの問いかけに応えるようにして、手帳のページをめくった。その動作の中に、思考の途中経過が現れている。
ノエル「ここで調査しても規則性はわかっても原因にはたどり着けなさそうでしょうか?」
その問いかけが、リオルの思考を次の段階へ導いた。
リオル「根本的な原因…『根』、か。それこそ地下、遺跡を見てみようか」
その瞬間、リオルの思考の中で、何かが閃いた。
この周辺で、最も古い地下構造として知られているのは『ファルド遺跡』だ。北東の丘陵にそれは存在している。昔から発見されていた場所で、過去の調査隊も入ったが、特に魔道具といった原因になりそうなものは見つからなかったという。
ノエル「そうですね。王都の研究チームがまとめた資料もあり、なにも無いとのことで優先順位をさげてましたが。いろいろなデータも集まりましたし改めて見てみましょうか」
ノエルの言葉には、単なる同意ではなく、リオルの考えに自分も乗ったという確かな姿勢が含まれていた。
リオル「うん。危険はなく、だけど解明できず放置されているという状態みたいだしね」
リオルは、自分の判断にノエルの同意が得られたことに、静かに安堵していた。彼女の共感なくしては、この先の調査を決行することはなかったかもしれない。
リオル「ロウディアの異常と関連があるんじゃないか、って仮説は昔からあったらしい。ただ、決め手がなくて、ずっと保留されていたんだろう」
その言葉の最後に、彼女は微かに笑った。それは、リオルが求めていることをすべて理解した上で、自分もそうしたいという、静かな同意を示していた。
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