012
二人の間の静寂が、ゆっくりと時間を重ねていった。ノエルは、リオルの手を握ったまま、何も言わずにそこに在り続けていた。
ノエル「眠るまで、そばにいますね」
その言葉は、確認というより誓いのようだった。果たして不安だったのはリオルとノエルのどちらだったのか。それを明らかにしないまま、リオルは頷いた。
リオルの呼吸が、ゆっくりと落ち着いていった。手を握り合ったまま、彼の意識は深い眠りへと沈んでいく。呼吸と体温、どちらも同期していく。ノエルは、その変化をじっと見守っていた。
リオルが完全に寝入ったのを確認してから、ノエルは静かに身動きをした。ノエルは自然に、そっとリオルの隣に横になった。抱きしめるわけではなく、手を伸ばせば触れられるほどの距離。リオルの背中が、彼女の視界に入る位置だ。
リオルが手の届く範囲に。その想いだけが、ノエルの中にあった。
翌朝。
リオルが目を覚ましたとき、隣でノエルがまだ眠っていた。
――え……?
一瞬、混乱した。だが、昨夜の記憶が戻ってくる。前世の覚醒。ノエルとの会話。そして、眠りに落ちる直前の手の温かさ。
ノエル「そのまま寝落ちしてしまったのかな?」
ノエルの寝顔を見つめていた。完璧なメイド姿の印象とは異なり、前髪が頬に落ち、眼鏡は寝台の脇に置かれていた。その無防備さが、リオルの中に不意の高鳴りをもたらした。ゆるくはだけた衣服から、柔らかな胸の膨らみが見える。昼間には感じさせない、柔らかく丸みを帯びたその曲線が、寝息に合わせてゆっくりと上下していた。昨夜繋いだ手の温かさが、今もリオルの掌に残っているような感覚だった。
胸の奥が温かくなる。その感覚を、リオルは言語化することができなかった。
ノエルが目を覚ました。ぼんやりとした視線がリオルを捉えた直後、彼女の顔が紅くなった。
ノエル「あ、リオくん……」
素早く身を起こし、眼鏡を掛け直す。乱れた髪をさっと整える。だが、その動作の速さと、耳の赤さが、彼女の動揺を物語っていた。
ノエル「申し訳ありません。昨夜は……」
だが、彼女の言葉は、いつもの落ち着きを完全には取り戻していなかった。わずかな照れが、声に滲んでいた。
リオル「ありがとう。ノエル」
その言葉で、ノエルは言葉を区切った。そして、静かに頷いた。
朝日が、窓を通して部屋に差し込んでいた。
リオルは、ゆっくりと身を起こした。昨夜の疲労はまだ残っていたが、その重さは和らいでいるように感じられた。
ノエル「今日は、ゆっくり過ごしませんか? 昨日のこともありますが、十日間働き詰めでしたし」
その提案に、リオルは頷いた。彼女が立ち上がり、朝の準備を整えに動いた。その様子を見守りながら、リオルは自分の状態を改めて確認していた。
――疲労は依然として強い。だが、許容できる範囲内のものになっている。
前世の記憶は、まだ遠く近く揺れている。あの世界の空気感、キーボードの感触、終電の時刻。すべてがまだ生々しい。だが、その現実感は、昨夜よりも少しだけ落ち着いていた。
昼前、ノエルが温かい紅茶を持ってきた。十日間働き詰めた甲斐もあって、まだ贅沢はできないもののある程度の余裕ができていた。屋敷にあったレベルのものではないが、ノエルの目にかなう最低限の茶葉は用意できていた。二人は窓際に座ってそれを飲みながら、軽い世間話を始めた。
リオル「前世ではこんな、紅茶を飲んでくつろぐなんて習慣なかったな」
ノエル「なにをしてくつろいでいたんですか?」
リオル「うーん、結構時間に追われてたような気がするけど…」
リオルは言葉を区切った。思い出そうとしても、それは他人の記憶を追体験しているような感覚だった。
リオル「完全には思い出せない。それが不思議だ。自分の経験なのに、どこか遠い」
ノエルは、その言葉をそっと受け止めた。返答を急がず、リオルの言葉を待った。
リオル「でも……悪い感じではないんだ。むしろ、その距離感があるから、前世に圧倒されずにいられる気がする」
ノエルは、その言葉を聞いて微かに微笑んだ。返答せず、ただリオルのそばに座り続けた。紅茶が冷めるまで、二人は窓から外の景色を眺めていた。ロウディアの灰色の大地が、昼の光の中で微かな陰影を見せている。その景色の中に、リオルは自分たちの居場所を見出せていた。
時が経つのは緩やかで、それは心地よかった。朝の混乱が、少しずつ昼の静寂に変わっていく。ノエルが立ち上がり、片付けの手を出したとき、リオルは彼女の動作をじっと見つめていた。その仕草の一つひとつが、他愛のないものであり、同時に大切に思えた。
ノエル「落ち着いたらでいいので、前世の話、色々聞かせてくださいね。色々有用だと思いますので」
リオル「まあ、現代知識チートっていうし役には立つかな…? もちろんいいよ」
承諾はしたものの、リオルは意外に感じていた。いつもの従者らしい振る舞いとは違う、即物的で少しちゃっかりしている幼馴染の一面に。違和感はあったものの、即座に了承していた。
ノエル「世界が異なれば食文化も異なるでしょう。リオくんが好きだった食べ物や飲み物、この世界にない嗜好品等ありましたら教えていただければと」
リオル「そういうことか……。お酒とかはたまに飲んでたかな? でも趣味嗜好自体はそこまで違わないけど、食べたいものとかあったらお願いしようかな」
ノエル「なるほど。記憶がなくても前世の影響というか、元々好きだったものはそのままなのかもしれませんね。例えば眼鏡とか、『これ』とか」
そういうとノエルはスカートを少したくし上げた。膝上くらいまでなので、下着が見えそうというわけではないが十分異性を慌てさせるほどではある。ギョッとしたリオルの目がそこに吸い寄せられると、ノエルのその細く白い指が黒いタイツの布地をつまみあげた。ある程度の高さまでつまんだかと思うと、そこで指を放す。パツン、とタイトな布地がその肉感あるふとももに当たり、心地よい音が室内に響いた。
リオル「ぶはっ!? ノエル、な、一体なにを…?」
リオルは目を逸らそうと思ったが、吸い寄せられているのかまったく目線を自分の意思で動かせなくなっていた。
ノエルの瞳には楽しみが灯っている。その笑みは、いつもの慈悲深い従者のそれではなく、確実に何かを楽しんでいる。
ノエル「いえ、お好きですよね? 時折熱心に目をむけていましたから。むしろ隠し通せてると思っていたのですか? リオくんのお好きな紅茶の銘柄や淹れ方を把握しているように、もちろん把握していますよ」
今度は逆にリオルの目線は泳ぎ、二の句が出なくなった。男性の目線はバレているという話をよく聞いたが、自分を隅々まで理解している幼馴染の前では、なお旗色が悪い。細かい癖や仕草まで把握されているのだ。隠し切る方が難しいというものだ。
――どうすれば。返す言葉もない。
ノエルの追い詰める話し口調は澄ましているが、確実にリオルの動揺を楽しんでいる。
ノエル「どのような体型や仕草を好んでいるか等もお聞きしますか?」
その言葉が、決定打だった。
――まずい。本気で言っている。
リオル「…………ノエル、紅茶のおかわりお願い。あとちょっと食べるものとか出してもらってもいいかな」
ノエル「はい、かしこまりました。少々おまちくださいね」
リオルにできる唯一の抵抗は話をそらすことだけが残されていた。もっとも、何も状況は変わっていないのでそれは抵抗にすらならず、降参と何も違わなかった。
昼過ぎ、二人は部屋の中を歩きながら、簡単な日常の作業をこなしていった。窓を開けて、朝の涼しい空気を吸い込む。ノエルが洗濯物をたたむのを、リオルは座ったまま見守った。彼女の動作は無駄なく、美しかった。
午後の光が、部屋を斜めに照らしていた。リオルは、机の上にノートを広げた。ペンを握ったまま、彼は何も書かずにいた。前世の知識を書き出そうとしたが、その取り組み方が分からないのだ。
――どこから始めるべきなのか。
膨大な知識の海。それをどう言語化し、どう整理するか。その問いが、彼の中で渦巻いていた。AIとは何か。効率化とは何か。それらを、この世界の魔術にどう繋げるのか。前世の自分はそれを当たり前のように使いこなしていたのに。
――疲労が、重い。
だが、それを形にする余力は、今のリオルにはなかった。昨夜から続く精神的な消耗が、思考を曇らせている。
ノエル「無理、しないようにしてくださいね」
彼女の声が、そっと降りてきた。リオルがペンを置くと、ノエルはそこにお茶を置いた。
ノエル「今日は、整理の日ではなく、ただ……一日を過ごす日だと思いましょう」
リオル「そうだね」
夕方になると、二人は宿の中庭に出た。そこは狭い空間だが、夕焼けが見える場所だった。ロウディアの灰色の大地が、夕焼けに染まっていく。その景色を、二人は並んで眺めていた。
何も言わない時間。それが、この時間を満たしていた。
ノエルは、わずかにリオルの方へ身を寄せた。その距離感に、昨夜の添い寝の記憶が蘇った。
――昨夜も、こうして。
リオルは、その身の寄せ方が意図的なものなのか、無意識のものなのか、判断することができなかった。だが、それはもう重要ではなく、ただノエルがそこに在ることが、リオルの心を満たしていた。彼女の肩の温かさ。すぐそばにいる存在。それは、前世のどんな知識よりも確かだった。
夜が近づき、二人は部屋に戻った。ノエルが夜の準備を整える。その間、リオルは窓から外を眺めていた。星々が、ゆっくりと現れ始めていた。昨夜もこの星々を見ていた。その思い出が、遠くて近い。
リオル「ノエル」
呼びかけると、ノエルはリオルの側に来た。
リオル「明日からまた調査を再開しようか。ちょっと混乱したけど、使える知識は増えたわけだし」
ノエル「はい、わかりました。また朝から出発しましょうか」
彼女の言葉は、いつもの従者としての言葉だった。だが、その背後に、昨夜の決意が静かに灯っていた。
リオル「そうだね、なんか鑑定スキルとか色々検証したいし」
夜が深まり、二人は再び眠りの時間へ向かおうとしていた。前世覚醒の余韻は、まだ消えていない。だが、それは昨夜よりも軽くなっていた。
ノエル「眠くなるまで、また……そばにいましょうか」
その問いかけに、リオルは何も言わずに頷いた。
二人は、再び手を握った。昨夜とは違う、少しだけ違う握り方で。窓の外では、星々が静かに燃えていた。
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