011
意識が、ゆっくりと戻ってきた。
頭はまだ重く、身体は疲弊している。しかし、その奥底に確かな手応えがある。あの世界。あのオフィス。終電に近い時刻の青白い光。メカニカルキーボードの音。すべてが、はっきりと思い出せる。
――僕はエンジニアだった。
その単純な事実が、ゆっくりと胸に落ちていく。AIという名の道具を使い、ありとあらゆる効率化をして仕事を回していた。それが僕の仕事で、それが僕の人生だった。
――前世。
その言葉を心の中で反芻する。あの世界が前世で、ここが今世。その二つが、同一の魂として存在していることの奇妙さ。しかし同時に、その事実は疑いようもなく、リオル・アルトレインの中に存在していた。
視界がゆっくり焦点を結ぶ。白い天井。宿の部屋の天井。その天井を見つめながら、リオルは両手を握り締めた。震えていた。なぜ震えているのか。恐怖なのか、それとも興奮なのか。その区別さえつかない。
そして、視野の端に、ノエルの姿が映った。
彼女は椅子に座り、リオルのベッドの側で、両手を膝の上に置いて、じっとリオルを見守っていた。眼鏡の奥の瞳には、相変わらず心配の色が宿っていた。だがそれと同時に、何か別のものも含まれていた。警戒。確認。それらが複雑に入り交じった色。
リオルは、ゆっくりと身体を起こした。背もたれにもたれかかる。その動きを、ノエルが静かに見守っていた。
呼吸を整えながら、リオルは自分の状態を確認していた。身体は疲れているが、意識は明晰だ。二つの人生の記憶が存在しながらも、人格は一貫している。あの世界の自分と、ここでの自分が別人ではなく、同じ流れの延長線にあるような不思議な感覚。それを言葉にするのは難しい。だが確かに、そう感じていた。
沈黙が、部屋を満たしていた。それは不快な沈黙ではなく、相手を測る沈黙だ。リオルはノエルの顔を見つめ、ノエルもリオルの目を見つめ続けていた。その間に、何かが交換されている。信頼が、懸念が、確認が。
リオルが一通りいま自分の身に起きたこと、前世の記憶について語り終えた後。やがて、ノエルが口を開いた。
ノエル「……ひとまず理解しました。リオくんに"前世"があったこと。そして今、その記憶が戻ったこと」
その声は、いつもと変わらない落ち着きを保っていた。ただ、その底流に緊張があった。
リオル「信じられる?」
ノエル「リオくんが言うことじゃなかったら、信じられなかったですね」
ノエルは笑いながら告げた。その存在を信じている、事実として受け入れる。
ノエルが立ち上がり、リオルのベッドの側に歩み寄った。両手を、リオルの肩に置く。その手の温度は、確かで揺るがない。
ノエル「私の、目を見てください。リオくん」
指示は、柔らかくも絶対的だった。リオルは、ノエルの黒縁眼鏡の奥にある瞳を、まっすぐに見つめた。彼女の瞳には、決意と懸念が混在している。
ノエル「前世の記憶を思い出す前と後。あなたは同じリオくんですか?」
その問いの重さが、リオルの胸に落ちた。
――前世の記憶を思い出す前と後。自分は本当に同じリオルなのか。
その問いは、ノエルにとって生死を分かつほどの問題なのだろう。もしもリオルが別の人格に乗っ取られていたなら。もしもあの世界の自分が、この世界のリオルの身体を奪っていたなら。その時、ノエルは何をするのか。
ノエルの疑いも最もだ。リオルが前世で読んだ異世界ものの小説でもあった。異世界転移・転生にはいわゆる乗っ取りのようなパターンがある。ある時あるタイミングで異世界を生きる人間の意識をのっとり、そこから人生を成り代わる。この世界にそんな娯楽小説存在しないのに、リオルの荒唐無稽な前世の話を聞いただけで即座にそこまで思い至ったのだろう。
もちろん、前世の記憶に関して隠すという手もあった。記憶が蘇った反動で色々と口走ってしまったが、引きつけを起こして頭が混乱していたとかで十分通ることだ。ノエルを安心させるために、あの部分をなかったことにすることもできたはずだ。
――だがそれはできなかった。
リオルには最初からその選択肢はなかった。なぜなら、それはノエルへの背信だからだ。前世の記憶については信じてもらえない、異端として排除される等様々なリスクがあるだろう。だがそんなこととは関係なく、自分に起きたここまで大きな変化をノエルに隠すという手は、考えられなかった。
僕は、自分が乗っ取られていないことを知っている。前世の自分も、今世の自分も、その両方が同じ魂であることを。
リオル「うん、間違いないよ。僕はリオル・アルトレイン。ノエル、君の幼馴染だ」
その言葉を紡ぐ瞬間、リオルは理解していた。これは単なる確認ではなく、誓いなのだと。自分がリオルであることの、最大の証明なのだと。
その言葉を聞いて、ノエルは数分もの間、何も言わずにリオルの瞳を見つめていた。その間、彼女の瞳が何かを確認している。リオルもその間目を一切そらさなかった。そして、その確認が終わったのだろう。彼女は、ゆっくりと頷いた。
ノエル「……はい。今のあなたは、いつものリオくんです」
リオル「もし乗っ取り……、僕が僕じゃなくなってしまっていたら。ノエルはどうするつもりだったの?」
その質問に、ノエルの手が、わずかに強くリオルの肩を握り締めた。
ノエルは、ベッドの端に腰を下ろした。リオルのすぐそばに。その距離の近さ、その決意の近さが、何かを暗示している。
彼女は、言葉を選んでいた。慎重に。丁寧に。その迷いの中にも、決意がある。
ノエル「リオくん、あなたが変わってしまったと断じたら即座に拘束していたと思います。意識と自由を奪い、どこかから魔力封じの魔道具を調達します」
その言葉は、淡々と述べられた。だがその内容は、重い。リオルは、その描写を頭の中で再現してみた。ノエルからすればリオルの身体能力なら容易いことだろう。
ノエル「その後、どんな手を使っても、その手がどれだけ汚れようともリオくんを取り戻すために残りの人生の時間を全て使うつもりでした。魂や精神に関する魔術、魔道具、研究全てを修めます」
ノエルの声が、わずかに震えた。その振動は、彼女の理性を超えた何かを示唆していた。
ノエル「あなたが悪意を持った存在に奪われたのであればソレを殺し、即座に私も後を追いうでしょう」
その宣言は、冷徹そのものだった。しかし同時に、その冷徹さの根底にあるのは、愛情の暴力性だ。自分を失わせたものへの憎悪。そしてその後の自死。その選択肢を、ノエルは本気で考えていたのだろう。
リオルの背筋に、冷たい戦慄が走った。
ノエル「もし相手に悪意がなく事故のようなものだったなら、本来であれば許すべきなんだと思いますが」
その言葉は理性的だが、同時にそれは彼女の本心ではないことがリオルには伝わってきた。
ノエル「私が本当に受け入れられたかは、自信がありません」
その言葉の中に、ノエルの葛藤が全て詰まっていた。理性と感情の搦み合い。完璧さへの志向と、それでも不完全な自分。その自覚の上で、それでも行動することの覚悟。
――ノエルは、完璧に見える。でも、その完璧さの背後には、深い不安定さがあるんだ。
リオルは、その矛盾を前にして、言葉を失っていた。ノエルが自分を取り戻すために、どこまで行くつもりなのか。その決意の深さと、その決意の中に含まれた危うさ。それはノエル自身にとって、どれほどの負担なのか。
――僕が乗っ取られていたら、彼女はその誰かを殺す。そしてその後、自分も死ぬつもりだった。
その覚悟が、どれほど冷酷で、どれほど深い愛情なのか。リオルはその両立の奇妙さに、圧倒されていた。
ノエルは、リオルの顔を見つめていた。眼鏡越しの瞳に、決意と安堵と愛情が同居していた。
ノエル「でも今は違います。今のあなたは、まぎれもなくリオくんです。だから、その……」
彼女は、微かに微笑んだ。それは、静かな安堵の微笑みだった。
ノエル「これからも、一緒にいてください。その世界のことも、この世界のことも。全部一緒に、理解していきましょう。私も、最大限サポートしますから」
その言葉は、約束だった。同時に、祈りだった。そして同時に、彼女の揺るがない決意だった。二つの世界を持つ自分を、受け入れるという決意。
――僕は、この人のために、生きなければならない。その責任の重さと、その愛情の深さが、同時に胸に落ちた。
リオルは、ノエルの方へ身体を傾けた。その距離は、わずかに縮まる。彼女の手が、リオルの背中に回ったのに気づいた。その温かさと重さが、ゆっくりとリオルを支えていた。
その単純な想いが、リオルの心を満たしていた。前世では感じることのなかった、この世界での充足感。二つの人生の記憶を持ちながらも、この瞬間が最も「リオル・アルトレイン」であると感じる。前世のエンジニアのリオルではなく、ここでのリオル・アルトレインとして、完全に自分が統一されている感覚。
二人の間の空気が、ゆっくりと静寂に包まれた。それは先程の不安と緊張の生じる沈黙ではなく、穏やかで静かな時間だった。二つの人生を持つ少年と、その全てを受け入れる女性。その静かな関係性の確認が、部屋の中を満たしていた。その沈黙の中で、リオルはようやく理解していた。自分がどこに属しているのか。自分が本当に望んでいるのが何なのか。
窓の外は、深い夜に包まれていた。星々が静かに燃えて、その光が宿の屋根にぼんやりと落ちている。ミレイに調査を頼んでからの十日間はめまぐるしく過ぎていったが、この最後の一日で多くのものが変わった。あの世界の記憶。自分が誰であるのかという問い。そしてその全てを受け入れてくれるノエルの存在。それらが、リオルという少年を、新しい形で統一していた。二人の間の静寂は、何かの終わりではなく、別の何かへの扉だった。その扉の向こう側が、どのような景色なのか。まだ知らない。だが知りたいという想いが、リオルの中に確かに生まれていた。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
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